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  第二章

教え子たちを駅まで送り、瑞枝が帰宅した。すでに西の空は真っ赤に染まっている。
「ただいま。晩ご飯はわたしが作るね」
 瑞枝は声をかけて玄関に入ったが、中から返事がない。見ると、三和土に見慣れぬ男物の靴がある。しかも四足だ。
(あ、もしかして……)
 瑞枝が恐る恐る茶の間に入ると、案の定、萌葱村の四人の老人たちが揃い踏みしていた。俗に萌葱村四天王と呼ばれる長老たちだ。元村長の風間、元村議会議長の林、元国民学校長の藤波、そして小野寺内科婦人科診療所の小野寺である。
「み、みなさんお揃いで……」
 瑞枝を見上げた老人たちは、一様にへの字に口を結んだ。だれも喋ろうとしない。
 異様な雰囲気だったが、瑞枝にはひとつだけ思い当たる節があった。借家の立ち退きである。元村長の風間が直々にやってきていることからも、そう推測できる。
 実は風間と瑞枝は父娘なのだ。つまり、風間こそが枝美の旦那様なのである。もっとも、ふたりの関係はとうの昔に終わっていたが、それでも身寄りのない母娘がこの家に住むことができるのは、ひとえに風間のお目こぼしがあったからだ。
 おそらく、風間の嫡男が来年の県知事選に出馬することになったため、身辺の整理をはじめたのだろう。妾がステイタスになり得たのは一時代も昔の話である。
 だが、肝心の母親の姿がどこにも見当たらない。
「あ、ただいまお茶を淹れますので……。あの、母は買い物に出たんでしょうか?」
 やかんに水を汲みながら、瑞枝はだれともなく尋ねた。答えたのは小野寺だった。
「え、枝美さんなら、息子の病院に移送したよ」
「え?」
 瑞枝は耳を疑った。
(息子さんの病院に? それって士朗先生のお兄さんが勤めてる大学病院のこと? でも、どうして……?)
「きゅ、急に容体が悪化してね、いまし方、救急車で……」
 一瞬呆然とした瑞枝だったが、すぐに我に返り、茶の間に飛び込んだ。
「そ、そんな! さ、さっきまで元気だったのに! お、小野寺先生! は、母の容体は!」
「だ、大丈夫だ。大したことはない。なんともないから……」
「で、でも、救急車で運ばれたんですよね? だ、だったら、大したことないなんて……」
「心配するな! 枝美はなんともない!」
 割って入ったのは風間だ。ぶよぶよに膨れた太鼓腹のせいか、八十五歳の高齢にしてはその声は良く響く。
「実はな、枝美にはちと酷な話をしなきゃならんので家を空けさせたんだ」
「え?」
「瑞枝、おまえに頼みがあるんだ。今日、小野寺さんの所に訪ねてきたガキらがいたな。やつらをもう一度呼び出せ。いますぐにだ」
「あ、でも、さっき帰ったばかりですし……」
「わしはすぐに呼び出せと言ったんだ!」
 風間にものすごい形相で睨まれ、瑞枝は息を飲んだ。有無を言わせぬ険しさだった。
「いいか、こう言って呼び出せ。……わけあって、わたしはこれから旅に出る。二度と戻らないので、その前にもう一度だけ会いたい。こちらからは伺えないから、すまないが家まできてくれないか……。どうだ。やってくれるな?」
 瑞枝の片頬が引きつった。混乱していても、危険な臭いが漂っていることは分かる。
「あ、でも、どうして……?」
「やつらに貸した写真の中に、都合の悪いものが混ざっていたのだ。それを是か否でも取り戻さねばならん。わしら四人、いや、この村の名誉のためにもな」
(写真? 都合の悪い? いったいなにが写ってるというの?)
「分かったら、さっさと呼び出さんか!」
「あ、そ、それなら、わたしが取りに……」
「それはならん! ここへ呼び出せ!」
 風間の目は血走っている。それは他の三人も同様だ。なにかに憑かれたような、それでいて強靭な意志が込められた眼光だった。四対の目に射貫かれて、瑞枝の全身に鳥肌が立った。
「いいか、件の写真を回収した後、子供たちには消えてもらう。おまえが狂言自殺を演じるのはその布石だ。事後、おまえたち母娘はこの村を出ろ。名を変えて遠くの街で暮らすんだ。そのための金は十分に与えてやる」
 風間が言い終えても、瑞枝は目を見開いたままだ。驚きのあまり半分笑い顔になっている。
「瑞枝、やってくれるな?」
「あ、あの……」
 あまりのことに惚けている瑞枝のあごを、風間が掴んで勢いよく揺さぶった。
「やってもらわんと困る!」
 瑞枝は惚けた表情のまま、四人の老人たちを見渡した。
 かつて、町長、村議会議長、国民学校長、町医者を務めた錚々たる村の名士たちだ。そして、彼らの息子たちは各界で親を凌ぐの成功を収めつつあり、娘たちは閨閥を形成すべく良家へ嫁いでいる……。
 瑞枝は目をつぶり、奥歯を噛んだ。
(どうにかしなければ……。なにか手を打たなければ……)
「さあ、早く電話をかけるんだ。時間が惜しい」
 瑞枝は目を見開き、風間を直視した。
「ん? なんだその目は?」
 一度は父として敬った男は、老いてもなお尊大な顔をしていた。人の上に立とう、立ちたいというあさましい顔だ。そして、人を踏みつけてなんとも思わない腐った顔でもある。瑞枝はふと、そんな男のうろたえる顔が見てみたくなった。それが精一杯の抵抗だったのだ。
「お、お断りします」
 風間が団子鼻をひくつかせた。
「ふん、枝美がどうなってもいいのか? よく考えてものを言え」
「は、母も分かってくれると思います。こ、子供たちの命には代えられません」
 さすがの風間もこれには少々驚いている。「ふむ」と腕を組み、仲間たちを見渡してから、大きなため息を漏らした。
「そうか、断るか……。なら仕方がない。わしもできればこんなことはしたくなかったんだがな……」
 風間は隣室に向かって「おい」と声をかけた。中から襖が開いて、現れたのは良太だ。誠司という舎弟分を引き連れている。
 風間がのそりと立ち上がった。
「良太、瑞枝が素直になったら電話をくれ」


          *          *


 長老らを見送った後、良太は正座している瑞枝の前に立った。
「馬鹿かおまえ? なんで風間さんに逆らう?」
 瑞枝は黙っている。恐怖で言葉が出ないのだ。
「ふん、先公お得意の民主主義ってやつか?」
 見下ろす瑞枝の胸元はしっとり汗ばんでいた。アクセサリーと見紛うばかりに、玉の汗がキラキラ光っている。浅黄色のワンピースの胸元はふっくらと盛り上がり、揃えられた両の太腿は、布地越しにも肉づきの充実が窺えた。
 良太がごくりと喉を鳴らした。
「へっ、恨むなら、てめえを恨めよ、瑞枝……。これもおれたちの仕事なんだ。萌葱村のドブさらいがな……」
 言い終わらないうちに、良太が回し蹴りを繰り出した。
「きゃっ!」
 肩を弾かれ瑞枝が横転した。良太は続けざまに腹部を二度三度と蹴りつける。
「そりゃ! うりゃ!」
「ぐっ! があっ!」
 瑞枝は悶絶し、とっさに腹を守ろうとしたが、次の蹴りは背中に入った。
「あがっ!」
「おらっ! おらっ!」
 何度も足蹴にされて、瑞枝は息が止まってしまうほどの激痛に見舞われた。しなやかな身体がきゅんと丸まる。
「あ、あ、あ……」
 打撃は一段落したものの、身体中を駆け巡る痛みは当分収まりそうにない。冷や汗がどっと吹き出している。いつの間にか隣の座敷まで転がされていた。
「……よお、瑞枝。一気にかたをつけさせてもらうぜ。ねっとりいたぶるのもいいが、なんせ時間がないからな」
 良太は誠司に目配せし、ふたりがかりで瑞枝を縛めにかかった。
「あ、あ……」
 頭の中が真っ白になっている瑞枝は、なにをされているのか分からない。だが、不意に天地がひっくり返り、驚いて目を剥くと、本当に逆さまになっているではないか。
「ああっ! あああっ!」
 瑞枝はすっかり気が動転して唸り声を発するのがやっとだ。それもそのはず、両手は後ろ手に括られ、さらに胸部に巻かれたロープで両腕ごとしめ上げられている。
 さらに下肢を大きく開いたまま、両足首を広縁の鴨居に結わえつけられようとしていたのだ。
「やっ! やあああっ!」
 瑞枝の視界はふわりと落ちてきたワンピースの裾で閉ざされてしまった。ベルトつきのワンピースなので、スカートを逆さまに穿いたように上体を隠してしまっている。吊られた下肢は開き気味のV字だ。
「お、下ろして! お願い! 下ろしてください!」
 見事な手際で瑞枝を吊った男たちは、息を乱すわけでもなく、無言のまま次の作業に取りかかった。良太が籐細工の布団たたきを握り、誠司は自分のベルトを抜いて、それぞれ瑞枝の前後に回ったのだ。
「お、お願いします! 下ろして!」
 吊られた身体を前後に揺すり、瑞枝がわめいている。下ろせと言うことは降伏を意味するが、そのことに気がついていない狼狽の仕方だった。吊られた足首の痛さもさることながら、下肢を丸出しにした無防備な姿勢に強い羞恥と恐怖を感じているのだ。
 しかし、男たちは無気味な沈黙を続けている。瑞枝の前に立った良太が布団たたきを上段に構えた。なんと、逆さまに持っている。
 ヒュッと空気が鳴った次の瞬間、ゴチッと言う鈍い音が響いた。
「!」
 瑞枝の恥骨に激震が走った。布団たたきの細い柄が、こんもり盛り上っているベージュ色のショーツにめり込んでいる。瑞枝の背が大きくしなり、足首を括っているロープがギチギチ軋んだ。
「ごおおおおおおっ!」
 と、瑞枝が獣じみた咆哮を放った。反った瑞枝の身体に、今度は後ろから誠司のベルトが飛ぶ。それは左の太腿の中程に当たるや、ヒュルンと先端を巻き込んで内腿の最も柔らかい肉を打ちすえた。
「きぃいいいいいっ!」
 甲高い悲鳴を上げ、瑞枝が先に増して大きくしなった。まるで腹筋運動だ。だが、折檻はそれだけでは終わらなかった。男たちはまるで餅つきをするように、瑞枝の股間と下肢を交互に打ちはじめたのだ。
「ぎっ! ぐっ! がっ!」
 こうなっては、苦痛は上がることはあっても下がることはなく、頂上の見えない激痛で瑞枝は白目を剥いている。その責めは十秒ほど続いてピタリと止み、不思議な静寂が訪れた。
 そして三秒後、瑞枝は突如暴れ出し、家屋を震わせるほどの咆哮を放った。
「がぁああああああっ! ああああああっ!」
 まさに断末魔の叫びだった。瑞枝の身体は背骨を折らんばかりに大きくしなっている。叫び声といい、その動きといい、普段の瑞枝を知る者はあまりのことに驚愕するだろう。
「あああっ……。ああっ……」
 次第に瑞枝の咆哮は呻き声に変わり、身体の揺れも収まった。だが、骨の髄まで響いた苦痛をやり過ごすためか、身体中の筋肉を強ばらせたままだ。
 伸びきった太腿に刻まれた無数の鞭痕が見る間に変色し、肉が盛り上がりはじめた。瑞枝が密かに自慢する白亜のごとき太腿は、無惨な格子模様に彩られ、妖しくも脂汗にぬめっている。
 ことさら痛々しいのは、籐細工の布団たたきで執拗に打たれた股間だ。ショーツが尿で濡れ、黒ずんでいる。もっとも、中心部分を濡らすだけの少量の失禁だったが、約十秒間も続いた怒涛の打擲を考えれば、それだけで済んだのは奇蹟だろう。
 良太がしゃがみ込んで、瑞枝の顔を覆っていたワンピースをめくり上げた。
「よっ、瑞枝。どうやら糞は漏らさなかったようだな」
 瑞枝は白目を剥いた放心状態だ。あふれた涙と鼻水、そして涎が眉間を伝い、前髪の生え際を濡らしている。
「へへっ、べっぴんさんが台無しだな」
 ワンピースの裾で乱暴に顔を拭われて、瑞枝はやっと良太の存在に気づいた。途端に顔を強ばらせる。
「あ……」
「よう、もっと色っぺえ声を出せねえのかよ。叩いててつまんねえぞ」
「あ、あ……」
「ちなみに、いまので十秒だ」
「……?」
「次は二十秒、その次は四十秒……。つまり倍々ゲームってわけだ。さて、何ラウンドまで耐えられるかな」
 言葉の意味を察し、瑞枝の顔が哀れなまでにわなないた。
(さ、さっきのが十秒? たった十秒? ああ、だめ……。もう耐えられない……)
 瑞枝は一瞬のうちにそう諦観していた。そもそも、先の打擲からして生身の人間が耐えられる限界をとうに越えていたのだ。瑞枝の顔に浮かんだ屈伏の色に気づかない良太ではなかったが、めくっていたワンピースの裾を落とすと、やおら立ち上がった。
「さーて、第二ラウンドはじめるか」
「ああっ! やああっ!」
 瑞枝が吊られた下肢を揺すり、幼児じみた声を発した。逼迫した恐怖で舌がもつれている。
「ん? どうした瑞枝?」
「あうっ! うああっ! あああっ!」
「こらこら、落ち着いて話せ。なんなんだ一体?」
 良太は平然と笑いながら、蝿たたきの柄の先端でショーツの濡れた部分を突っついた。瑞枝の背後に立っていた誠司も、紅白に彩られた太腿に面白がって手を這わせている。
「いひーっ! ひいいっ! ひーっ!」
 瑞枝はわずかな刺激でさえ我を失ってしまう。まるで生け捕られた獣が死を察して暴れ回っているのようだ。さすがに辟易した良太は再度しゃがみ込み、ワンピースの裾をめくって瑞枝の顔を覗き込んだ。さっき拭ったばかりの瑞枝の顔はグチャグチャに汚れていた。
「ん? なんだ、瑞枝? 言いたいことがあるならはっきり言え」
「あああ……。ああ……」
 瑞枝は一瞬、笑ったようだった。いや、確かに笑ったのだ。哀しいことに、良太の一言でさえもが、いまの瑞枝にはなにものにも代えがたい救いだったのだ。瑞枝は目に入る涎や鼻水をものともせず、すがるように良太を見つめた。
「……あ、あの、します……。しますから……」
「なにを?」
「で、電話をします……。こ、子供たちに電話をします……。で、ですから、もう……」
「そうか。瑞枝はいい子だな……」
 良太がニッと笑った。瑞枝もひくついた笑顔でそれに応える。だが、良太は笑いながらこう言い放った。
「よし、それじゃあ、第二ラウンドだけで勘弁してやるか……」
「?」
「躾だよ、躾。おまえの躾……。ごめんなさいって言われて、はいそうですかって許してたら、かったるくてしょうがねえ。いいか、おまえにノーはねえんだ。あるのはイエスだけだ。分かるか? 一言でもノーって言ったらどうなるかよく覚えとくんだ。このムチムチボディでよ……」
 瑞枝の顔から瞬時に血の気が引いた。
「あ、ああっ! いやあっ! ゆるしてえっ!」
「黙ってろ! 舌噛むぞ!」
 良太はワンピースの裾を丸めて瑞枝の口を塞ぎ、勢いよく立ち上がった。瑞枝の股越しに、太腿を舐めていた誠司と目を合わせる。
「よし、第二ラウンドだ!」
「はい!」
 良太が布団たたきを構えた。誠司もベルトを握り直す。
 自らワンピースをたくし上げている瑞枝には、良太がいままさに布団たたきを振り下ろそうとしている様子がはっきり見えている。それは想像を絶する恐怖だった。
「はっ、はめへっ! へへひへっ!」
 や、やめて、ゆるしてと叫ぼうにも、瑞枝の声はくぐもるのみだ。その刹那、瑞枝の陰部と内腿に衝撃が走った。まだ知覚はないが、真の地獄はコンマ数秒後に始まるのだ。もう、肉体の激痛から逃れることはできない……。


          *          *


 逆さ吊りから解放された瑞枝が、自身の汚物の上にへたり込んでいる。
 激しい折檻のあまり、瑞枝はついに脱糞してしまったのだ。両腕は依然括られており、全身にこびりついた大便を払うことすらできない。
 誠司が水を張ったタライを持ってきた。タオルを水にひたして、瑞枝の顔を拭いはじめる。
「あーあ、村のマドンナが糞まみれだぜ」
 瑞枝は放心している。無理もない。逆さ吊りのまま失禁・脱糞してしまったのだ。自尊心は修復不能だった。
「よし、こんなもんだな」
 誠司はとりあえず瑞枝の顔と髪を清めると、汚れた畳は軽く拭いて、たらいの水を捨てに立った。
 その様子をぼんやり眺めていた瑞枝の頬に、熱い涙が流れて伝った。悔しさや恥ずかしさを感じる以前に、消え入りたいほど惨めだったのだ。ショーツの中に残っている大便が妙に温かく、一層悲しい気持ちになる。
(ごめんね、マリちゃん……。ごめんね、孝次くん……)
 瑞枝は深々とうなだれ、大粒の涙を焼けた太腿に落とし続けた。散々ぶたれた股間はジンジン痺れ、太腿は痛みを通り越してまるで焼けるように熱い。
 と、なにやらメモをしていた良太が、書き上げた文面に目を通しはじめた。区切りごとにひとり頷き、ちらりと瑞枝を見ては薄笑いを浮かべている。
 風呂場から誠司が戻ってくると、ふたりは二言三言小声で打ち合わせをした。そして、良太が書き上げたメモを、誠司が黒電話を手にして瑞枝の側にやってきた。
「さて、落ち着いたようだし、そろそろ電話をしてもらうぞ」
「……はい」
 瑞枝は顔を伏せたまま、小さく頷いた。そこに良太がメモを突き出す。
「これをそのまま読んでもいいし、おまえなりに機転を利かせてもいい。じゃあ、はじめるぞ」
「は、はい……」
 誠司が住所録を繰って、山本孝次の自宅へダイヤルした。呼び出し音が鳴るのを確認して、受話器を瑞枝の顔に押し当てる。四度目の呼び出し音で、孝次の母親らしい女が出た。瑞枝はどもりながらも挨拶を済ませ、孝次を電話口に呼び出してもらった。
「あ、孝次くん?」
『森下先生、今日はありがとうございました』
 孝次の声はどこか狼狽していた。実は、直前まで例の写真で自慰に耽っていたのだ。
「も、もう、晩ご飯は済んだの?」
『はい。済みました』
「そ、そう……。あ、あのね……」
『はい?』
「きょ、今日、会ったときに言えばよかったんだけどね。せ、先生ね、旅に出ようかと思うの……」
『え? 旅行、ですか?』
「ち、違うの。旅行じゃないの……。実はね、先生、ちょっと事情があって、しばらく遠いところに行くことになったの」
『どこにですか……?』
「そ、それはいま言えないの、ごめんなさい……」
 不安げにしている教え子の様子がひしひしと伝わり、こらえきれなくなった瑞枝が言葉を詰まらせた。そんな瑞枝を、良太と誠司が睨みつけている。
『せ、先生? もしもし?』
「あ、あのね、もう二度と会えなくなると思うの。だ、だからね、その前にもう一度、孝次くんとマリちゃんに会いたいの……」
『え? 会えなくなるってどういうことですか?』
「こ、ここには、二度と戻ってこないから……」
『そ、そんな……。せ、先生。もっと詳しく話してよ。どうしてなんですか?』
「ご、ごめんなさい。で、電話では話せないわ……」
 わずかの沈黙の後、孝次が意を決したように言った。十六歳の少年ながらに、事を急いてはいけないと察したのだろう。
『あ、明日、そっちにいきます。必ずいきます。田川も連れていきますから。先生、待っててください。いいですね?』
「……うん、待ってる」
『先生、きっとだよ? 必ず待っててね?』
「うん」
『じゃ、これで電話切るけど、絶対だよ?』
「うん」
 通話はそこで終わった。受話器を置いて、男たちはほっとひと息ついたが、瑞枝は顔をくしゃくしゃに歪め、泣き崩れてしまった。
 教え子を裏切ったこと、自分に勇気がなかったこと、悔やむことは山ほどあった。それらの悔恨に押し潰されたかのように、瑞枝は括られた上体を折り、嗚咽し続けた……。


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