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  第一章

 梅雨入り後、初の晴天は汗ばむほどで、山々を覆う新緑は奮い立っていた。
 校舎二階の窓辺に立った若い女教師は目を細め、幾重にも連なる山稜を見やっている。
「先生、さようなら!」
 下をゆく女生徒から声をかけられ、女教師はにっこり微笑んで手を振った。
「さようなら。気をつけて帰るのよ」
 女教師の名は森下瑞枝。ここ萌葱村立第三中学校で国語を教え、一年二組の担任も務めている。
 瑞枝は中央の席に座って頬杖をついた。この学校は小さな木造二階建てだが、放課後の教室は妙に広々している。黒板には週明けから始まる学期末試験の日程が書いてあった。
 そして今日は土曜日、期末試験で使うプリントは昨日のうちに印刷を済ませてあるので、瑞枝の心は軽く弾んでいるのだ。
 いま瑞枝が座っているのは、十二年前に彼女が使っていた机だった。右端にごく小さな字で《希望1958》と彫ってあるのでそれと分かる。瑞枝はその文字を指先でなぞり、ひとり小さく微笑んだ。


          *          *


 高台の中学校から平地の町場へ続くなだらかな下り坂を、瑞枝の自転車が滑走している。
 軽く結った長髪をなびかせ、伸びやかな身体に白い半袖ワンピースをまとった瑞枝は、さながら風の女神だろうか。道行く人や沿道の住人に向ける会釈も、美しく気品に満ちていた。
 だが当の瑞枝は、風でまくり上がるワンピースの裾を片手で押さえながら、こんなことを考えていたのである。
(あーあ、わたしもミニスカート穿きたいな……)
 街の中学校に勤めていた頃は休日の度におしゃれを楽しんだものだが、この山村ではそうもいかない。絶えず父兄の目に晒され、教育者としての節度を求められるからだ。
 そしてなにより怖いのは同性の目だった。妬み、嫉みほどこの世で恐ろしいものはないだろう。それをすでに幼少の頃から知っている瑞枝は、本来の心根も働いたのだろうが、相当の美人にしては驚くほど控え目で謙虚なのだった。
 瑞枝は小さな診療所の前で自転車を停めた。ブレーキの音に、立ち話をしていた白衣姿の男が振り向いた。小野寺士朗である。
「あ、森下先生」
 士朗がにっこり笑った。蓬髪に無精ひげが祟って見るからにやぶ医者然とした男だが、まだ三十半ばという年齢のためか、どこか愛敬を持ち合わせている。
 一方、士朗と雑談をしていた男はほぼ同年齢ながら、仕立てのいい夏スーツを見事に着こなし、身だしなみはもちろん、その顔つきにも一分の隙はなかった。この男、名を高梁良太と言う。
「こんにちは、小野寺先生、高梁さん。お昼休みですか?」
「まあ、昼休みと言っても、日がな一日こんなもんだけどね。あ、そうだ。母さんの具合はどう?」
「はい、おかげさまで調子はいいようです。食もずいぶん通るようになりました」
「そうか、それはなによりだ。でも、季節の変わり目はなにかと注意した方がいいからね。週明けにでも往診に伺うよ」
「はい、ぜひお願いします。それでは……」
 瑞枝が自転車を走らせると、いままで黙っていた良太がほくそ笑んだ。瑞枝の尻を視線で射っている
「いい女になって帰ってきやがってよ。街で相当男を咥え込んだんだな、ありゃ。けっ、血は争えねえな」
 すると、士朗があからさまに嫌悪の表情を浮かべた。
「おい、そんな言い方はないだろ。なにかと苦労している森下先生のことを少しは考えてやれよ」
「へえ……。じゃあ、そういうお前は考えてるのか?」
「え?」
「おまえ、もういい歳なんだから、そろそろなあ……」
「そ、その話ならもう聞き飽きたぞ」
「まあ、聞けよ。おまえは理想がめったやたらに高すぎるのが難点だが、なあ、瑞枝でもやっぱりあれか? おまえの基準以下なのか?」
「な、なに言ってんだよ……」
「どうなんだよ? 瑞枝より上の女なんて、そういるもんじゃないぞ」
「そ、そりゃそうだけど……。で、でもなあ……。年は十一も離れてるし……」
「離れてるうちに入んねえよ、そんなもん」
「い、いや、そうだとしてもだな。男がいると思うぞ、同僚とか……」
「なら、盗っちまえばいいだろう。瑞枝がこっちに赴任してる間がチャンスじゃねえか。遠くの恋人より、近くの士朗さんってわけだ、な?」
 良太に肩を叩かれ、まんざらでもない士朗はにやけている。が、すぐに気を取り直し、村立診療所所長の顔に戻った。
「ま、相手のあることだし、そこはぼちぼちな」
「あ、まさか、おまえ。瑞枝の家柄を気にしてんのか? おれに偉そうなこと言っておいて、なんだよ、ひどいやつだな」
「な、なに言ってんだよ。そんなんじゃないよ」
「じゃあ、あれか? 瑞枝のおっかさんが邪魔だからか? それもひどい話だぞ」
「な、なんだと!」
 士朗が声を荒らげると、それをかわすかのように良太がにんまり笑った。
「よし。じゃあ、夏の間に瑞枝をコマせ。いいな?」
 返答に困った士朗は天を仰ぎ見ている。次に坂下へと目を転じると、米粒ほどに小さくなった瑞枝が角を曲がったところだった。


          *          *


 堤防を背に、六棟の平屋が並んでいる一画がある。良太の実家が所有する貸し家だ。奥の真ん中が瑞枝の家である。正確には、妾である瑞枝の母親が旦那様から与えられた居所だ。
「ただいま」
 瑞枝が台所に顔を出すと、母親の枝美は昼食のそうめんを煮ているところだった。起き上がっているところをみると、身体の調子はいいのだろう。
「おかえり。お腹空いただろう。いまできるからね」
 割烹着姿の枝美は娘に笑いかけ、鼻歌交じりに差し水をした。瑞枝はそんな母親の背中をじっと見つめている。
 母親の病状を心配して実家に戻ってきた瑞枝だったが、当初感じていた義務感もいまは薄れ、ここの生活を楽しめるようになっていたからだ。妾である母親に感じていた反発もいまはなく、女手ひとつで育ててくれたことに素直に感謝できるようにもなっていた。
 枝美がふと振り返り、菜箸で瑞枝の背後を指し示した。
「あ、そうそう。おまえに葉書が届いていたよ。ほら、ちゃぶ台の上……」
「あら、だれからかしら……」
 差し出し人は田川マリ。瑞枝が街の中学で教えていたポルトガル人ハーフの女生徒だ。日本人の母を持ち、生まれたときから日本に住んでいる。葉書には可愛らしい筆跡で次のようなことが書かれていた。


          *          *


 おひさしぶりです瑞枝先生。その後、お変わりありませんでしょうか。わたしはいま、期末テストに向けて猛勉強しているところです。
 夏休みといえば、先生にお願いがあります。実はわたし、郷土クラブに入ったんです。そしていま、秋の文化祭に向けて戦争中の学童疎開についての研究をしているんです。先生がお住まいの萌葱村も疎開先になっていたと聞きました。
 そこで、どなたか当時の事情に詳しい方がいらっしゃれば、紹介していただけないでしょうか。夏休みに入ったら、山本くんと一緒に伺おうと思いますので、どうぞよろしくお願いします。


          *          *


 葉書を読み終えた瑞枝はふたつのことに驚いていた。
 中学ではバレーボール部に所属し、県大会のベスト4まで進んだマリが、高校では文化部に属していることがまずひとつ。もうひとつは、中学時代のグループ交際から卒業して、ついにマリと山本孝次がカップルになったらしいということだ。
 瑞枝が複雑な表情をして葉書を眺めていると、母親が昼食を運んできた。
「教え子さんからかい?」
「あ、うん……。学童疎開の研究をしているから、この村へ勉強に来たいんだって」
「へえ、若いのに殊勝な娘さんだねえ」
 枝美はひどく感心して、食器を並べている。昨今、平和運動が盛んだと言われているが、高校生になったばかりの女の子までもと、元軍国婦人は戸惑を隠せないのだ。
「ねえ、おかあさん。おかあさんに頼んでいいかしら?」
「え?」
「ほら、疎開に来た子供たちに炊き出しとかしてあげたんでしょ? マリちゃんが知りたがってるのは、そういった話だと思うの」
「そ、そんなもんかね……」
 枝美は躊躇している。妾という後ろめたさから率先して婦人会の活動に励んでいただけなのだ。あらためて当時を振り返ることには、一種の歯がゆさがある。
「ねえ、おかあさん。いいでしょう?」
「そうは言ってもねえ……。あ、そうだ。診療所のご隠居さん、カメラが大のご趣味だろう。ご隠居さんなら戦時中の写真をいろいろと……」
 そう言いかけて、枝美はなぜかとっさに口を噤んでしまった。訝る瑞枝に曖昧に笑いかけて、そそくさと食器を並べている。
「……あ、じゃあ、小野寺先生を通して頼んでみようかしら」
「し、士朗先生に頼むのかい?」
「うん。近く往診に来て下さるそうだけど、今日のうちに電話してみるわ」
 さっき会ったばかりの士朗の名前が出た途端、瑞枝は急ににこやかになった。そんな娘の横顔を、枝美は正視できないでいる。


          *          *


 午後の診察を終えた士朗がひと息ついていると、看護婦から声がかかった。
「先生、お電話です。藤ヶ崎の森下さんからです」
「あ、こっちに回してくれ」
(はて、枝美さんになにかあったか?)
 士朗は強ばった顔つきで受話器を取ったが、瑞枝から学童疎開云々の話を聞かされて、話を終える頃にはいつもの間延びした表情に戻っていた。いや、仕事の以外の用件で瑞枝と会えることが嬉しかったのだ。
「……そういうことなら、おれの方から親父に話してみるよ。来週にでも一度会って、簡単な打ち合わせをしよう。うん、それじゃ」
 士朗は受話器を置くや、クルクルと椅子ごと身体を回した。良太にそそのかされるまでもなく、瑞枝に声をかけようと考えていたのだ。いざ踏み出してしまえば、後は当たって砕けろの心境だった。


          *          *


 夏休みは梅雨明けを連れてやってきた。
 駅に降り立った田川マリと山本孝次は、四ヶ月振りに会う恩師を見つけるや嬉々と駆け寄った。
「瑞枝先生!」
「先生、おひさしぶりです!」
 瑞枝はわずかの間にぐんと大人っぽくなった教え子の手を取り、子供たち以上に喜びの声を上げた。
「わあ、マリちゃん。きれいになったね!」
「えへへ、そんなことないよ」
 特に成長著しいのはマリだ。中学時代、バレーボールで鳴らした長身はさらに伸び、比較的上背のある瑞枝をしのぐほどになっている。
「孝次くんは逞しくなったわ」
「毎日部活してるからね」
 一方、高校に入っても野球を続けている孝次は、筋骨たくましくなったものの背はさほど伸びておらず、坊主頭も相まって、瑞枝とマリに挟まれると可愛らしい男の子然としていた。
 歓談も束の間、やがてやってきたワンマンバスに三人は乗り込んだ。悪路に揺られること約五十分、小野寺内科婦人科診療所前で下車したときには、時刻は午前十時をやや過ぎていた。
 家政婦に案内されて、三人は診療所奥の母屋へ招かれた。奥座敷では、齢七十五になる士朗の父親が畳一杯にアルバムを広げ、一行の到着を待っていた。
「やあやあ、瑞枝ちゃん。いや、森下先生と言った方がいいかな。お待ちしておりましたよ」
 禿頭に浮かんだ無数のしみや、やせた喉元に浮かぶ筋がなにやら蛇を連想させる、そんな老人だ。
「おじゃまいたします。今日はご無理をかなえていただき、ありがとうございました」
「いやいや。まあ、かけなさい」
「はい、失礼します」
 瑞枝に続いて入室した子供たちを見て、小野寺はしょぼついた目を瞬いた。マリが碧眼も鮮やかな西洋人ハーフだったからだ。
 伸びやかな肢体にはまだ若干の幼さが残っているものの、同年代の日本人女性に比べたらすでに大人の体をしており、流行のミニスカートから覗く太腿は目を射るほどの白さなのだ。
 瑞枝が教え子ふたりの紹介を終えても、小野寺はマリを注視したままだ。すると、常日頃から好奇の視線に晒されているマリは、請われるより先に自ら進んで出自を説明しはじめた。
「あの、父がポルトガル出身なんです」
「ほう、ポルトガルですか?」
「はい。父は神戸で輸入業をしておりましたが、わたしが四歳のときに病死しました。ですので、わたし、こんな顔をしてますが日本語しか喋れないんです」
「ほほう、そうでしたか。ポルトガルの方ですか。それは大変でしたなあ……」
 小野寺は相槌を打ちながらも、マリの顔や胸元、そして揃えられた膝小僧を無遠慮に見ている。そこへ、マリのナイト役を自認している孝次が割り込んだ。
「あの、小野寺さんは写真がご趣味とお聞きしたんですが、ここにあるアルバムはすべてご自身でお撮りなったものですか?」
「ええ、そうですよ。とりあえず戦時中の、中でも学童疎開の様子を写したものを選り分けてみたんですが、ほら、これなんかそうですな……」
 小野寺は付箋紙を貼っておいた数冊のアルバムを、瑞枝たちの前に滑らせた。
「拝見します……」
 そこに写し出された日本は驚くほど貧しく、ひどく薄汚れてもいたが、戦前の子供たちの目がキラキラ輝いているのが印象的だった。敗戦の秋に産まれた瑞枝は戦争もその後の混乱も知らない。マリたちにとっては、彼らの親がまだ子供だった頃のことである。
 写真にまつわる小野寺の講釈を聞いているうちに正午が近づいた。瑞枝はこれを機に辞去しようとしたが、小野寺と午前中の診療を終えた士朗に昼食を強く勧められたため、結局は呼ばれすることになった。


          *          *


 昼食の席は、孝次にはしごく退屈なものとなった。
 士朗と瑞枝、小野寺とマリの組み合わせが自然とできてしまい、孝次ひとりが置き去りにされてしまったのだ。元来話下手な孝次はこの場の雰囲気に嫌気が差し、トイレに行くふりをして奥座敷に戻ったのだが、そこで意外なものをみつけてしまう。
 数枚のエロ写真である。それは単なるヌード写真ではなかった。絡み合う裸の男女が赤裸々に写し出されていたのだ。
(す、すごい……)
 孝次の胸が高鳴った。高一ともなれば、友達同士でエロ本の回し読みくらいはする。だが、エロ本では絶対にお目にかかれないほどの美少女が、女性器に男根を突き立てられ、別の写真ではうっとりした顔で男根を頬張っていたのだ。
 写真を持つ孝次の手が震えだした。その少女のなんと美しいことか……。同時に複数の男を相手にしている写真もあった。縄で縛られ、苦悶に顔を歪めている写真もある。
(こ、これも戦時中の写真なんだろうか?)
 孝次は辺りを窺い、次に数葉の写真を選んで懐にしまった。帰宅後、自慰に使おうと思ったのである。


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