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 〜軍天使ライラ・瞬間接着剤の章

第二章

1.

 結局、店のトイレを貸してくれとのその一言を口に出来ず、店を出て、ライラは本通りを離れた公園の公衆便所まで出かける羽目になっていた。

 当初はわずかに気になる程度だった尿意も、周囲の目を気にしつつ通りを歩くうちに次第にぴりぴりと痛みすら感じ始め、それでも、妙なところで小心なわりに、プライドだけは高い心の力で、慌てることなく悠然と、公園までの歩みを進めた。人通りのある本通りでは、そう、悠然と歩いていた彼女が、無人の公園では、おどおどと周囲の目を気にしつつ、人目がないのを確認すると、逃げ込むように公衆便所の個室へと飛び込んだ。

(汚い、トイレだな...)

 男女共用の、公衆便所の個室の中、薄汚れた壁一面の、卑猥な落書きを目に、言い様のない惨めな気分にかられたライラは、知らず、目尻が微かに潤むのを感じていた。

 薄汚れた壁にはなるべく触れないよう、巧みに翼を前後左右に動かしつつ、楽なポジションを探る。仕舞えるのならば仕舞えばいいと思われるかも知れないが、元来有翼種である彼女にとって、翼を仕舞った状態は、いわば緊張状態なのだ。さすがに、用を足すのには、苦しいのだろう。

 威嚇する猛禽のように軽く翼をもたげ、悲し気な表情を浮かべたまま、ライラは自分のズボンをとめるベルトのバックルに、細く、しなやかな指をかける。傷ひとつないしなやかな白磁の指は、とても、それが剣士でもある女の指とは見えない。折れそうな程に華奢な、それでいて長い指がベルトのバックルと、革ズボンのホックを外し、チャックを下ろす。指で下着ごとズボンを手繰り下ろす、その後には、腰骨の張った安産体型の、それでいて決して大きすぎない、まろく、柔らかなヒップが覗く。瑞々しい、白桃のような臀部、しなやかな、鞭のような筋肉を内包した、ボリュームのある太股、そして、かすみのように翳る、純金の産毛を申し訳程度にたたえた、陰部。

 汚れた床に、裾が触れぬよう、気をつけながら、ライラはズボンから二本の足を完全に抜きさる。そして、汚れた便器を跨ぐと、ゆっくりと腰を落とし、さながら海老のように身を丸めた。M字型に曲げられた脚の中央、低く落とされた股間、その性器を隠す陰唇が、左右から引っ張られ、微かに口を開く。その性器のわずかうえに、生えているのかどうかすら解らぬ淡い産毛は、まったくといって良い程、その性器を隠す役には立っていない。その金の霞の下、白く眩しい肌に刻まれた、肉色の亀裂からのぞく、つややかな粘膜。その亀裂の中程の、尿道口がひくひくと、わずかに痙攣する。

「ん...」

 薄汚ない公衆便所の中、なかなかに緊張がほぐれぬのか、眉根に皺を寄せ、辛そうに下腹に力をいれるライラ。そして、ようやくその穴から、黄色い透明な雫が一条、ちょろり、ちょぼちょぼとこぼれ出したその時。

 コツコツコツ。
 トイレに誰かやってきたのであろう、外で、足音が響く。途端に、何かにおびえるように目に見えて緊張を増し、その尿道も息を潜める。

(!)
 考えてみれば公園の公衆トイレで用を足すことになんら恥ずかしいことはなく、まして、個室の彼女の事、誰が用を足しているかなど、通りすがりの赤の他人に...まぁ、いささか目立つ有名人なので、直接見られたら別だが...判るはずはない。にもかかわらず、どうしてもそれができない彼女は、便器の上で前かがみになったその姿勢のまま凍り付いたように動けず、青ざめた表情で、耳をそばだて、必死に外の情景を探る。靴底の硬い、革靴であろうその音は、まっすぐ、彼女の隠る個室に近付いてくると、その、すぐ隣の扉を開け、中に入り込む。

 軋む蝶番の音、掛けがねの金属音。ベルトを外し、ズボンのチャックを下ろす音が、筒抜けでライラの耳に届く。隣の音が、こちらに筒抜けで聞こえる事実。この事実に、彼女の全身が、羞恥心に凍り付く。

 続いて、豪快な放尿音、そして、明らかに下痢気味の排便音。
 全く音を立てることが出来ず、それゆえ、全くの無音の中で、汚らしいその音を、黙って聞きつづけるしかないライラ。情けなさにその目が潤み、耳まで真っ赤に染まる。

(は、恥ずかしいコトじゃないだろう。誰でもやることだ。お前が、気にすることなんかなにもないんだ。ライラ!)
 子供のような羞恥心に、ライラが、自分で自分に言い聞かせる。だが、膀胱から尿道口まで、下腹全体が錐でさされるようにしくしくと痛むのに、どうしても、放尿が出来ない。

「ンあ...」
 その不快感に、溜まらず、ライラの口から、小さなうめきが漏れた。

 ドンドン!
 同時に、背後の壁を叩く音が響く。
 途端に、心臓が止まるかという緊張に襲われるライラ。
 びくり、と、身体が反射的に立ち上がりかけ、中腰の無理な姿勢のまま、身体が凍り付く。

「お隣さん、大丈夫かい?」
 恐らく、彼女の苦しげなうめきに気付いたのか、隣の個室から、男の声が聞こえる。

 だが、この状況で返事の返せる彼女ではなかった。まるで、石にでもなったかのように身体をこわばらせ、ぴくりとも動けぬまま、いまにも、泣き出しそうな表情を浮かべる。

「おい、しっかりしろよ、ちょ、ちょっとまってろ。今、医者を呼んできてやるからな」
 彼女の背面、隣の個室から、慌て、ふためく男の立てる物音が、手に取るように聞こえてくる。明らかに、隣の男は、彼女の具合が悪いと、人を呼びに行くつもりだ。

「い、いや! 何とも無い! 気にせんでくれ!」
 ようやくのことで凍り付いた舌を動かし、絞り出すようにライラが叫ぶ。

 と、隣で、軽く口笛の音。
「ひょう。お隣、お嬢さんかい? 何とも無いならイイけどよ。でも、その声から察するに、あんた、かなり美人だろ? いやぁ、直接お目にかかりたいねぇ。けど、それじゃあタダの痴漢になっちまうわさ。惜しいねぇ。こんな色気のないトコでなくって、もっとこう、高級酒場のカウンターなんかでお会いしたかったねぇ。いや、まぁ、ここもそれなりに色気はあるけどね。水もしたたる、って感じかい? あるいは匂うような、ってのもアリな言い回しだわな」
 今度は、さながら機関銃のように饒舌に話し掛けてくる、見ず知らずの男。

(止めてくれ...。...頼む。私を構わんでくれ...)
 今にも、泣き出したい気分のライラが、黙って男の言葉に堪え忍ぶ。

「おねーさんも、おっきい方? って、んなコト聞くモンじゃねーわな」
 そんな彼女のことを微塵も気にかけず、男の話は続く。
「えらく静かだけど、マジ、大丈夫?」
「大丈夫だから、お願いだ。ほっといてくれ!」
 どうあっても返事させずにはおかない、男の言葉に、既に鼻声のライラが答える。

 羞恥のためか、極度の緊張によるものか、見れば、目が微かに充血しており、時折零れ落ちそうになる、潤んだものも見える。こんな場所で、こんな状況で、男と話をすることなど、まったく未経験の事柄なのだ。加えて、生まれの高さが、こんな汚い公衆便所で、こんな惨めな姿をさらしている自分を、理屈ではなく感情で責め立てる。理屈では、気に病むことではないと、判ってはいるのだ。判ってはいるのだが、どうにもならないのが、身に染みついた感覚、もはや、コンプレックスともトラウマともつかぬ、言いようのない感情だ。

 ところが、そんな彼女に、隣の男がさらに追い討ちをかける。
「お前ェ、ライラ?」
 知り合いだ! まさに顔から火が出るという思いを、地で行くライラの全身が、羞恥で真っ赤に染まる。
「あぁ、そうだ。その良く通る男言葉、お前ェ、ライラだな?」
 嫌がらせにも似た、いささか下卑た匂いのある、隣の男の声。逃げ出したい!
 
を通り越して、まるで獅子の前の小鳥のように、全身がすくんで、身動きもとれない。
 心臓だけが、まさに早鐘のように、痛いぐらいに脈打つ。
「ち....違う」
 もはや哀れなほどに色を失い、白蝋のように青ざめたライラが、震える声で否定する。

 だが、その否定の言葉に、隣の男は、ついに笑い声を上げる。
「ぷっ、ぷふふっ! わかったわかった。そーゆーことにしといてやるよ。オレも、今こんなトコに居ンの見つかったら、吊し上げ食らって弾劾裁判モノだかンナ。知らなかったコトにしといてやるよ」
(うう....)
 ついに、屈辱が彼女に涙を流させる。隣の男に気取られぬように必死に声を潜め、身を丸くして、うずくまる。羞恥と屈辱が彼女の胸を締め上げ、息の詰まる、言いようのない苦しさが圧し掛かる。痛いような沈黙の中、隣の、男が水を流し、掛け金を外し、その場を立ち去る足音だけが密室に響く。

 ようやく、一人きりになれた。
 その安堵感から、崩れるように背の壁に身体を預け、声もなく涙を流すライラ。
 緊張の糸が切れたせいか、今までは、まるで石にでもなったかのようにこわばり、放尿を許さなかった尿道口がようやくゆるみ、黄色い、透明なおしっこが、勢いよく大きな弧を描いてほとばしる。ばちゃばちゃというはしたない音も、今は彼女の耳には届いていないのか、目に涙すら浮かべ、その開放感に、うっとりと恍惚の表情を浮かべる。ちょろちょろと、いつ果てるとも知らぬ排泄音が個室に響き渡り、かすかに焼けるような痛みが、下腹部から尿道口までを痺れさせる。我慢のし過ぎで、少し神経が参っているのか、いつまでたっても、今一つスッキリしない。
 ぐったりと、恍惚の表情を浮かべるライラ。
 その尿道口からは、漸く解放された雫が、ちょろり、ちょろりといつまでも溢れつづけていた。

2.

 漸く一心地ついたライラが、自分の部屋に帰りついたのは、結局、日も沈んだ後だった。
 おそらく、兜卒天も店には残っていないだろう、との思いと、いや、ひょっとしたらいてくれるのでは、という思いがせめぎあい、あのあと、何度か先の飯店への道を、戻りかけたのだが、結局、店に彼が居なければ、すなわち、自分の無礼を、嫌われていたら、との思いが恐ろしく、結局は店に戻れぬままに日没を迎えてしまったのだ。

 今でこそ、その冷酷さ、非道さを蛇蝎のごとく忌み嫌っているかつての主、父神にしてアースの盟王、大神オーディン。だが、その嫌悪は、自分を壊れた道具のごとく捨てた大神への怨みが根底であり、そしてそれは、逆にそれまで、一途に信じつづけてきた父への、信頼と敬愛の裏返しであり、それが、彼女の心に、大きな傷と、弱さ、脆さとして大きくのしかかっている。

 かつて、微塵の疑いもなく信じつづけた、父の、裏切り。
 それは、彼女の心のなかの、大きな柱を奪い去り、代わりの柱を、彼女が見つけるまで、その心をバラバラに打ち砕いてしまった。
 そして、彼女が見つけた新たな柱が、皮肉にも、自分を失脚に追いやった、ワーレンの仲間であり、アスガルドに敵対した、人間の作った神に仕える、神父であり、そして、なによりあの若者の支えであった。
 それがゆえに、ライラは、かつては想像だにしなかった裏切りの痛み、見捨てられることへの恐怖に、臆病な程に反応する、敏感な心の弱点を背負い込んでしまったのだ。
 それが、戦場での戦なら、持てる情報から導き出される最良の選択を、躊躇なく選択できる訓練を、彼女は受けていた。
 それが、肉の痛みであれば、克服し、意識を別の方向に向け、目的を、任務を達成するすべを、彼女は身につけていた。
 だが、彼女は、おのれのこころの問題、内面の問題には、今までぶつかったことも、対処のすべを学んだこともなかった。
 それが、彼女の、最大の弱点なのであった。
 それにしても....。
 日中の、公園のトイレでの羞恥に、いま思い出しても、泣きたくなる思いがする。最後の最後で、あの男は笑ったのだ。彼女の事を。屈辱に、唇を噛み、言い様のない思いに、身体が震え、熱くなるのを感じる。
 と、その時の事だ。

「ちょぉ〜! おジャマします〜! ってカンジぃ〜?」
 特徴のある、コギャル言葉というよりは、コギャル言葉をバカにしたかのような、脳天気な、それでいて可愛らしい声と共に、彼女の部屋の扉をノックする音が聞こえる。麗だ。彼女と、悪童3人組が、一体何を企んでいるか、無論そのことはライラは知りはしないが、彼女が、明日の試合の企画立案執行人であることは、ライラも知っている。
「その声は、麗か? 開いているぞ。入れ」
「お邪魔しまぁ〜す!」

 ブルーな彼女とは対照的に、陽気な混血の少女が部屋に入り込む。見ると、両手に幾つもの衣装箱を抱え、腕にも幾つか、紙袋をぶら下げている。
「な?! なんだ?!」
 思わず、目を丸くしたライラが麗に問う。
「ん〜? 明日のコスチューム。大体麗の好みで決めてきたんだけど、ライラねーやん、可愛いのかカッコいいのか、それともスマートなのか、どれがイイかなぁ、って思ってサ。多分、大体ライラねーやんのシュミにもあってるんじゃないかなぁ、と思うんだけどぉ....」
 と、器用に足で扉を閉めながら、床に箱をばらまき、麗はライラに尋ねる。箱の中から取り出されたのは、いわんや、明日の試合で使う白いワンピースの水着のバリエーション。水着とはいっても、無論用途が用途だけに多少強く引っ張ったぐらいではやぶれない、頑丈なものが取り揃えられている。いずれも、肩口と背中に大胆にカットをとってあるのは、麗の言うところの、「ねーやんのシュミ」である。

 陽気に笑顔で箱の梱包を解く麗....実のところ、この段階で、彼女の脳裏からは今回の企画の根本であるハズの悪戯の話は、綺麗に抜け落ちており、純粋に明日の試合のライラの衣装合わせを楽しんでいるのだ....とは対照的に、眉を寄せ、やや困惑の表情を浮かべているライラは、実のところ、自分で自分の衣装を選ぶ、という行為に慣れてはおらず、いったいどうしたものかと頭をひねる。麗の言う、「ねーやんのシュミ」すなわちノースリーブと背中の大胆な露出の組み合わせも....開放的な楽さはあるのだが....もっぱら、翼と、腕の自由をさまたげないようにとの実用的な理由に因るものが大きい。

「そうだなぁ....」
 軽く、レースの飾りのついた、いかにもベビーフェイスな女子レスラーのコスチュームを思わせる水着を掴み、苦笑を浮かべる。
「こーゆー可愛らしいのは、私には合わんと思うのだが....」
「ええ〜?! それはそれで似合うと思うけどぉ〜。 まぁ、ねーやんがそういうなら、こ〜ゆ〜系は除外ね」
 少し残念そうにぼやきつつ、それでいて躊躇なく箱の幾つかを押し退ける麗。
「じゃ、こ〜ゆ〜のは?」
 今度は、非左右対象の、右腕と左脚を長く覆うパーツを持った、スリットの多い別のモノを麗が選ぶ。片方の腕と脚だけを覆うとはいえ、腿や肩口、二の腕など、大きくカットされ、余計に扇情的に見える造りの、コスチュームだ。
「う〜ん。カッコ良いとは思うが、実用的じゃないな。こーゆー手袋みたいなのは好きなんだけどな....」
「なるほどねぇ。じゃ、シンプルに、こんなのはどう?」
 言いつつ、次に麗が選んだのは、なるほどシンプルな、ワンピーススタイルの水着だった。もっとも、麗がわざわざここまで選んできただけに、ハイネックの首から、胸に至るラインはいささか鋭角的だし、その胸にしても微妙なカットやメッシュの使いが、中々にコケティッシュであり、股間の切れ目も、他と比して、ややハイレッグ気味だ。
「そうだなぁ。確かに動き安そうではあるが....。でも、少し大胆じゃないか?」
 少し困ったようなライラ。一方、麗はなにも考えてない風に笑顔で、平然と答える。
「ええ〜? 大したコトないよぉ。絶対、カッコいいって! うん、試しに着てみてよ!」
「そ、そうか?」
 麗の勧めに、半ば無理矢理に衣服を剥がれ、衣装を試着させられるライラ。メッシュとカットで強調された胸部が、ボリュームのある鳩胸に押し上げられ、余計に、ぐっと目を引き付ける。
「やっぱり、これは....」
 わずかに顔を赤らめ、胸を見下ろすライラ。だが、一方の麗は感極まったとばかりにデタラメに腕を振り回し、感動をあらわす。
「くぅ〜っ!! カッコいい〜!! 決まり〜! コレに決定ぃ〜!」
 満面の麗の笑顔に、ライラも、困ったように眉を寄せ、それから、笑顔に変わる。
「....そうか? うん。なら、これにしようか?」
「決定!」
 指を鳴らし、子供のように....実際、子供なのだが....喜ぶ麗。麗の喜びも、むべならぬところだ。実際に、ライラの姿は、見るもののあこがれを誘うほどに、凛々しく、それでいて、艶惑的だったのだ。さながら鳩のように首を巡らせ、己の姿を見詰め、そして、まんざらでもないような微笑を浮かべる。無論、これはなにも彼女が自意識過剰という訳ではない。明らかにその姿には、それだかのものが秘められているのだ。

 再び、王女の風格をもって、悠然とその着物を脱ぎ、再びもとの私服姿に戻る。その堂々たる態度は、とても先刻、用足しにいくとの言葉が出ず、無言で席を離れ、また隣の人の気配に、放尿できなかった乙女のものとは思われない。無論、これもやはり、これまでの生活によるものだろう。人にかしずかれるのはあまり好まなかった彼女だが、それでも公式の場、正装に着替えるときなどは....おおむね、着付けに人の手を借りねばならぬドレス姿より、武官正装をもってあたることが多かったのだが....侍女たちに裸身をさらすことも常で、ゆえに、基本的に、同性の前ではその姿をさらすことに羞恥心を感じることはないのだろう。

 再び、袖なしの着物にズボンというシンプルな軽装に戻ったライラが、麗を見つめる。
「で、わざわざ、このために来たのか?」
 少しあきれたような、困惑の表情。無論、嘲笑や、馬鹿にしたのではなく、その少女の、まめさに感心....多分にあきれが含まれてるのは否定しようもないが....しての発言である。
「そりゃそーだよ。だって、明日の話だモン!....って、めーわくだった?」
 当然と言わんばかりに、....それでも、後半は心細げに、彼女の顔を覗き込む麗。
「いや、そんなことはないが。....手間をかけるな、と、思って、な」
「ん? そこはそれ、麗が楽しんでンだから、全然平気だけどね!」
 床に広げた大荷物を、無造作にかき集め、麗が答える。
「んじゃ、麗、のこり返してくるね。お邪魔さまぁ!」

 その大荷物を両手に抱え、器用に足の指でドアノブをまわすと、すばやくサンダルを突っかけ、プロの悪徳訪問販売人もかくやとばかりに、その隙間に爪先をこじ入れ、扉の閉まるのを防ぐ麗。しばらく、ぼうっとその様子を見つめていたライラが、慌ててそのあとを追い、扉を、少女の背越しに支え押さえようとする。このあたり、気が利かないというか、なれてないといおうか、良くも悪くもお姫さまなのだ。
「あ、待て、開けてやるから....」
「ん? 大丈夫....だと思う」
 麗が、そう言い終わるか終わらぬかのうちに、その、両手の大荷物が文字通り崩壊して、地に散らばる。
「うきゃ!」
 サルのような悲鳴を上げ、呆然と立ち尽くす麗。そのさまを目にしながら、苦笑を浮かべたライラが、今度は膝をつき、散らばった荷物をかき集め始める。
「フフン。仕方ないな。半分、持ってやろう」
 言葉の割に、柔らかい口調で、言ってのけたライラが、手早く衣装をかき集める。一方の麗も、へへ、と一つ頭を掻くと、さっさと荷物を拾い集める。ただ、どちらにしても、整理整頓、持ち運びやすい梱包という概念の欠落した、かき集め作業ではあったが。

 元々が、ここまでは少女が一人で持ってきた荷物だ。たとえ、まとめる、という概念の欠落したような、かき集めの梱包であろうと、二人がかりで運ぶなら、さほど....苦にならないとは言い難い大荷物ではあったが....まぁ、不可能ではない作業だ。麗の、行き付けの服飾店に無理を言ってかき集めさせた在庫の残りを返却し、取り合えずの用事のなくなった二人は、取りたてて他に用があるという訳ではなかったが、もうしばらくいっしょに、麗のアパートに向けての道を歩いていた。

「しかし、麗も閑だというか、バイタリティがあるというか....」
 もう、すっかり暗くなった夜道を帰途につきながら、前を歩くライラが、呆れたように、しかし、微かな笑みとともに、しみじみとつぶやく。
「でも、人間、シュミに手間かけなくなったら、オモシロイことなんもなくなっちゃうよぉ」

 ライラの、少し後ろを微妙に早足で歩く麗が、しかしこちらは満面の笑みで答えを返す。
「麗はね、ジンセイは楽しむシュギなんだ。今みたいな楽しいトキも、ドン底に落ち込んだトキでも。だってネ、世の中、楽しんだモン勝ちだもん!」
 なんともいい加減と言おうか、刹那的と言おうか、それでも、一度は、天界の王女にありながら、父神に見捨てられ、裏切られ、すべてを奪われ、神軍を追放され、一旦は何もかもをなくした彼女にとって、その考え方は羨ましくも、少々、妬ましくすらある考え方であった。

 とくん....。
 少女の言葉に、一度は世の中すべてに見捨てられ、裏切られたかの錯覚に陥っていた自分のかつての姿がフラッシュバックする。
「....そうだな....。所詮、自分の目にみえている範囲の世界など、たかが知れているものな。そんな中のドン底など、見方を変えれば、いくらでも救いがあるのだろうな」
 だが、それは、本当の絶望を知らないから、言えることだろうな。と、心の中で、少し意地悪く思ってみる。そして、その直後には、そんな自分の意地の悪い考え方に、微かな自己嫌悪と、胸のいたみを感じる。

(嫌な女だ....。友達に、そんな事、思うなんて)
 軽く首を振って、嫌な思いを振り払う。気を晴らそうと首をもたげる。視界の奥に、麗のアパート。もう、目と鼻の先だ。
 しばしの沈黙。そして、二人の前にアパートの門。
「じゃね! バイバイ」
 元気良く手を振って建物の中に消えていく麗と、それを黙って見送るライラ。
 もう、すっかりあたりも暗くなってしまった。しばらく、微笑をたたえて少女の消えていった建物を見つめていたライラも、やがて、その背に、夜の闇の中、白く、淡く光ってすら見える純白の翼を広げ、ふわりと宙に舞った。
 優雅に、文字どおり、舞うが如く。
 そして、件の計画が実行される前の最後の夜。明日、何が起こるかも知らず、彼女もまた眠りにつくのであった。


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