田所光夫。
その名前は、紀代香にとって忘れられない名であった。
彼女は二年前に一度、彼を逮捕したことがある。
それも海外まで追跡してである。
しかし日本に帰国したとたん田所光夫は、無罪放免となってしまった。
その時、麻薬密売や人身売買と言った卑劣な犯罪を取り仕切っている男と言う事実は明白である。
だが検察庁からの指示によって、無罪の扱いとなってしまった。
紀代香は、納得ができなかった。
ただ上からの指示で犯罪者を野放しにしなくてはいけないからだ。
自分が、まだ田所光夫の力を知らなかったばかりに。
彼の表の顔は、企業コンサルタントと言う名目で多額の収入を得ていた。
しかしそこで得た収入は、全て力のある政治家に対し献金し続けている。
もちろん、それは裏の世界で有利に動くためでもあり、自分自身の身を守るための手段でもある。 実際のところ彼は、裏の世界ではトップの地位まで昇りつめていた。
賢いことに表の世界では、極力目立たないように動き回っている。
マスコミにでも取り上げられてでもしてしまったら、何をするにおいても動きづらくなるからである。
田所光夫の力の源は、「金」であった。
彼が、長年をかけて作り出した莫大な資金力とコネに彼女は負けてしまったのだ。
その彼の存在は、紀代香にとってたった一度の敗北を証明し続けることになる。
どういう理由があるにしろ、逮捕したにもかかわらず逃げらたのだ。
それはプライドの高い彼女にとって、許す事ができない汚点であった。
その様なこともあり今でも紀代香は、田所光夫に食らい付くチャンスを求めていた。
彼女の一番好きな仕事、情報収集活動によってである。
風俗店が立ち並ぶ場所を一人で散策するのである。
その行動は、普通の女性ではまずありえない。
だが色と欲が待ち構えているその場所では、どこかに田所光夫につながる接点が隠れている。
紀代香は、ひたすらそのチャンスを探し、待ち続けていた。
しかし今回は、そのチャンスが向こうから舞い込んできたのである。
愚かな彼の息子が、紀代香の目の前に出現したのだ。
その息子を上手く利用すれば...。
紀代香の頭にあるアイデアが閃いた。
「なぁ、刑事さんよぉ、一回でいいから俺とデートしてくれない?」
竜二は、机の反対側に座る紀代香の方に身を乗り出して迫っていた。
ここが警察署内の取調室と言うのを完全に忘れてである。
自分より10歳程年上の彼女に対し何も恐れる事はなく、ごく普通に話し掛けている。
彼は、かなり女性の扱いに慣れているようでもあり、まるで喫茶店の店内で口説いているようであった。
「俺、昔から刑事さんのファンなんだよ、ポスターも全部もっているし、テレカだって・・・」
彼は、ごそごそと財布を取り出すと今まで発行された紀代香のテレフォン・カードを机の上に並べ始めた。
もちろんそれらは、全て未使用のカードで彼の自慢の品でもある。
だが紀代香にとっては、嫌な仕事の成果品でもあった。
「なぁ、頼むよ、刑事さん・・・いや、紀代香ちゃん!」
竜二は、自分の顔の前で両手を合わせ拝むように頼み込んだ。
自分の気に入った女を口説き落とすためには、男としての見栄など簡単に捨てられる。
結局、最終目的である「ヤルこと」さえ達成できればそれでいいからである。
「いいわよ!」
ダメでもともとの竜二にとって、紀代香のその返事は予期せぬものであった。
彼は、目を大きく開きもう一度聞き返した。
その時の表情は、素直な少年の顔に戻っている。
「ほ、本当!?」
「ただし、私と勝負をして勝ったら何でも言うことを聞いてあげる」
紀代香は、意味ありげな笑みを浮かべた。
しかし竜二は、その笑みの本当の意味を理解する事ができない。
それは、真の彼女の姿を知らないからである。
「本当に何でも俺の言うことを聞いてくれるのかよ?」
「もちろん、あなたが勝負に勝てたらね!」
彼女の返事を聞き、竜二は自分の股間が熱くなって来るのを感じ始めた。
すでに紀代香との勝負に勝ったつもりでいたからである。
彼自身、腕っぷしには自信があった。
これまでケンカをして負けた事がない。
しかも、その相手は全て自分より強そうなヤツである。
その中には武道の有段者もいたようである。
「よーし・・・で、どんな勝負だ?」
「柔道でも空手でも、そうねぇ・・・別にケンカでもいいわよ」
紀代香は、竜二の資質をすでに見抜いていた。
この少年は、ただ親の力で暴れているだけではない。
ちゃんと自分の力によって己の立場を確保している。
自分自身に余程の自信がなければ、ここまで話に乗ってこないであろう。
もしそうでなければ、ただのバカである。
「分かった! 俺としては、女に手ぇ出すのは好きじゃないけど・・・やろうぜその勝負!」
竜二は、紀代香とヤレる事しか頭になかった。
先ほど紀代香の瞳の奥に感じた血の匂いなどすっかり忘れてしまっている。
しかも、生まれて初めて経験した恐怖すらどこかに飛んでいってしまったようである。
紀代香は、静かに立ち上がると微笑みながら竜二に言った。
「分かったわ、じゃあ場所を変えましょうか」
「望むところだ!」
竜二は、紀代香に見せ付けるように力強く立ち上がった。
彼の股間は、すでにパンパンに張り詰めていた。
紀代香は、その部分をチラリと見ると取調室から出て行った。
取調室から出てきた二人を見て、少年課の責任者は慌てて立ち上がった。
すると彼女の凛とした声が、自分の耳に届く。
「少しこの子をお借りします」
「は、はい、分かりました」
少年課の責任者は、敬礼をして二人を見送った。
彼は、二人の行き先を尋ねる事もできなかった。
少年の背後に潜む、闇の権力者に脅えていたからである。
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