「男と女が勝負をする。男が勝ち、男は女を貰う」という、パターンを扱います。「試練の与え手と、それを乗り越えることによって獲得できる相手が等しい」というパターンとも言えましょう。
「あなたが勝ったらわたしはあなたのもの。あなたが負けたらあなたの命はわたしのもの」という、求婚者に試練を与える姫は、西洋のメルヒェンの典型的な登場人物です。
『キン肉マン』では、ビビンバの話が例として、わかりやすいでしょう。
ビビンバは、キン肉族を憎む父親に、復讐のために鍛えられました。
父の命令で、キン肉マンをふいうちしようとしたビビンバは、不運にもすべって転び、足に怪我をします。
ビビンバが敵とは知らないキン肉マンは、ビビンバの傷の手当をします。
そしてビビンバは父親に連れられて再度、キン肉マンに挑みますが、傷の手当をされたことを思い出して、ためらいます。
キン肉マンはそんなビビンバの服をあっさりと剣でを切り裂き、ビビンバは恥じらい、敗北します。そんな彼女にキン肉マンはミートのマントを渡して、これを付けなさい、といいます。そしてビビンバは恋に落ち、父親を捨ててキン肉マンについて地球に来ます。
これは「自分に闘いを挑んできたファザコンで戦士の美少女に、己が生身の女の肉体を持つ者であることを思い知らせて、女らしさに目覚めさせてあげる話」でしょう。少年誌で表現できる範囲ぎりぎりの、力による性的な征服の物語です。
少年漫画では『ドラゴンボール』のチチ、『聖闘士星矢』のシャイナ、『らんま1/2』のシャンプーなどがこのパターンでしょう。
チチはその父親の牛魔王が主人公に依頼をする、という形で出会った「依頼主である王の娘」です。出会ったとき、主人公は彼女が女かどうか確かめようと股を蹴ってみます。そして幼い彼女は、そんな所を蹴られた以上、この人のヨメになるしかないと、恋心らしきものを抱き、大きくなったらヨメに貰ってくれといいます。主人公は深く考えず、その約束を承諾します。そして成長したチチは、武道会で主人公の前に現れ、勝負を挑みます。主人公が勝つと、チチはその強さを褒め称え自分は、昔結婚の約束をしたチチだと言いました。そして二人は結婚します。
シャイナの場合は、星矢が倒したのはシャイナ本人ではなく、その弟子のカシオスです。カシオスを倒したとき、星矢の拳が彼女の仮面をも吹っ飛ばし、星矢はその素顔を見ます。女聖闘士には、女であることを忘れるために、素顔を隠す仮面を付けるという掟がありました。そして男に素顔を見られた場合、その相手を殺すか愛するかしなければならないと定められていました。シャイナは最初殺しに来ますが、星矢が殺されそうになった時に命がけでかばい、愛を告白します。
シャンプーは「もし己を負かした相手が、女であれば殺すべし、男であれば夫とすべし」という掟のある村の出である女戦士です。彼女は自分を負かした主人公に結婚か決闘を申し込み、追いかけます。
これらの話のうち、相手が女性であることの確認、という要素が、チチとシャイナとビビンバにあります。性的な征服の意味合いの行為も、ビビンバやチチにはあります。
男女雇用機会均等法が制定されたのは昭和47年。1972年の話です。
そして1980年代に、自分を負かした主人公に惚れる女戦士の話を描いた、少年まんがは上記のように何作もありました。ライトノベルにもいくらでもあったでしょう。
このパターン自体は二千年以上前から語り伝えられている話なので、単に「フェミニズムに対する反発」ということではないでしょう。
2001年に発行された『吼えろペン 2』収録の「第7話 きたない奴!!」は、こういう話です。
主人公の前に主人公のニセモノが現れます。そのニセモノは、主人公の漫画の愛読者で、主人公にそっくりな作風でデビューしたのでした。紆余曲折あって、主人公とニセモノは漫画家生命を賭けて対決し、ニセモノは負けを認め、ヘッドギア(かぶとや仮面にあたる)を脱いで、女であることを明かし、主人公への愛(ファンとしての)を告白します。そして、相手は主人公の所へアシスタントとして手伝いに来ます。
主人公のニセモノの話と、「死か結婚」という前提で、勝負を挑んでくる女の話が一体化したような話です。
島本和彦先生は1962年生まれらしいです。ゆで先生が1960年と1961年ですから、同年代ですね。紀元前からあるような話で、今でも見かけるとはいえ、やっぱりこの世代にとっての「ベタ」なんでしょうか。
最初に書いたように、「女戦士を負かして、結婚する」という神話やメルヒェンは、西洋(主にヨーロッパ大陸)に数多く語り伝えられています。
王であり、英雄であることに挫折した彼女らは、最後には王となり英雄となる男に獲得されるのです。
例としては、ニーベルンゲンの歌の章でとりあげた、ブリュンヒルデがいます。彼女は「死か結婚」という条件で、求婚者に勝負を挑んでいました。
この中世ヨーロッパの英雄叙事詩も、力による征服と、性的な征服との二点の要素があります。
『ニーベルンゲンの歌』は北欧神話を背景にしていますが、ケルト神話にも女戦士に勝つ話はあります。
例えばク・ホリン(クーフーリン)が女師匠のスカサハ(スカアハ)に戦いを挑んできた、オイフェという女戦士と戦った話です。
ク・ホリンはオイフェとの一騎打ちで、相手を地面に押さえつけ、胸元に剣を突きつけました。命を助けてくれというオイフェに三つの約束をさせます。
それは、二度とスカサハに闘いを挑んで来ないということ、人質を差し出すこと、自分の子を産むこと。参考『ケルトの神話』
これは「死か結婚」という、事前の契約がないパターンです。
結婚せずに子供を産ませる勇者様も神話の中には、いたのです。
「女王か王女が、自分に勝ったら結婚。負ければ、死という条件で、求婚者に試練を与える」というパターンの話のうち、わたしの知る最も古い話はギリシア神話のアタランテーです。
彼女の父は男の子を欲していたので、彼女を捨てたが、牝熊がしばしばやって来て乳を与え、ついに猟師が発見して自分たちの所で育てた。成人してアタランテーは処女を守っていた。そして荒野に狩りして常に武装していた。ケンタウロスのロイコスとヒュライオスが彼女を犯さんとして彼女によって射倒されて死んだ。長たちとともにカリュドーンの猪狩にも行き、ペリアースに捧げられた競技においてペーレウスと相撲って勝った。後両親を見出したが、父が彼女を結婚させようと説いた時に、競走場に適した地にたち去り、中央に三キュービットの高さの柱を打ち立て、そこより求婚者たちを自分の前に走り出させ、自分は武装して走った。そして追いつかれた者の運命は死、追いつかれぬ者のは結婚というのであった。すでに多くの者が殺された後、メラニオーンが彼女に恋し、アプロディーテーより得た黄金の林檎の持って競争をしに来、追われている時にこれを投げた。彼女はその投げられた林檎を拾っていて、競争に敗れた。それでメラニオーンは彼女を妻とした。そしてある時彼らは猟の途中ゼウスの神域に入り、そこで交わっている間に獅子に変じられたという。
アポロドーロス 『ギリシア神話』
この本が書かれた年代は、1-2世紀と推定されます。そして、アポロドーロスは主に紀元前5世紀以前の作家を参考にしてこの本を書いています。
補足ですが、アプロディーテーは愛と美の女神で、その林檎を受け取るということは、愛を受け入れるということでしょう。
ギリシア彫刻の彼女(アフロディーテあるいはビーナス)は多くの場合、林檎を手にしています。
また彼女が獅子に姿を変じられたことについては、古代人も「女の方がより働いて夫と子供を養っている夫婦」を「牝が狩りをする、ライオンの夫婦みたいだ」とか、思ったのでしょう。
現代的に解釈するならば、これは父親に男ではなく女だからという理由で「いらない子」扱いを受けたので、女であることを憎み、男をライバル視し、並の男よりも自分がずっと優れていると証明しようとした女性の物語です。
アタランテーは父親に、おまえを捨てたのは間違いだった、娘でもおまえは私の立派な息子だ、みたいに自分を認めて欲しかったのでしょうが、父親はレスリングの大会で他の男に勝ったりする、彼女の素晴らしいキャリアは無視で「おまえは女なんだから、結婚しなさい」と言ったのでしょう。
アタランテーとしては「わたしを女として見ることは許さない」とばかりに、求婚者を拒絶したくもなろうというものです。
そんな彼女も恋に落ちて、結婚し、夫に身を任せて、夫以上に働いて家計を支える妻となりました。
二千五百年前の物語です。
幼き日の親子関係による心的外傷体験が、成人後の人格を左右するという、精神分析的な見方をするならば、この古い神話は説得力があります。
しかし「父親が女である自分を捨てたので、結婚しない」というのは、珍しいパターンです。父親に捨てられるのは、英雄伝説のパターンでもありますが。
ニーベルンゲンの歌では、ブリュンヒルデはプライドの高い独身主義者です。
ですが古い英雄伝説では、ブリュンヒルデは神の娘(ワルキューレあるいはヴァルキリーと呼ばれる戦乙女の一人)で、ニーベルングの指輪もそういう流れです。
この「支配者である神の清らかな娘」の代表は、ギリシア神話の最高神ゼウスの娘、女神アテナでしょう。彼女は鎧を身にまとった処女神で、自分を誇ると共に父親を誇りにしていました。
そんなアテナと父との関係を示す神話として、アラクネの話があります。アラクネは技芸の神であるアテナに機織り勝負を挑み、その際にゼウスを侮辱したとして、アテナに蜘蛛に変えられました。
このように「父親が好き、父親が偉大だと思っているので、結婚しない」という「神の娘」の系統も、あります。
フランスの英雄ジャンヌ・ダルクの伝説も、このようなヨーロッパの「清らかな神の娘は、鎧をまとった美少女」という神話的伝統の上にあるのでしょう。
父親に忠実なビビンバとかは、このタイプでしょう。彼女も王位編で鎧をまとって登場します。
そういう神の娘の鎧を脱がせて、英雄は彼女を手に入れます。
『ニーベルングの指輪』(ワーグナーの歌劇)や『ヴォルスンガ・サガ』に、勇者ジークフリートが戦乙女(ワルキューレ)だった眠れる美女のブリュンヒルデの甲冑を剣で切り裂く場面があります。甲冑を外すと実は女物の衣をまとった美女で、ジークフリートは目覚めた彼女を妻とするのです。
ビビンバは最初キン肉マンと戦った時は鎧姿ではありませんでしたが、戦闘服を剣でまっすぐに切り開くのは、このように古典的表現です。
現代日本では、アタランテーとは逆に父親が娘に「男装して後継者や部下になる」ことを望む話が多いのかもしれません。
このパターンで有名なのは、1970年代の作品である『ベルサイユのばら』のオスカルでしょう。他に手塚治虫の『火の鳥』にもあります。
これは大塚英志の言う「父親によって「ロボット」として作られ、成長しない息子の反抗」の変形パターンです。
父が娘に男らしくあることを望んだ話は、古典にはないようです。歌劇の『ニーベルングの指輪』は、父親が娘に優秀な部下であることを望む話ですが、年代的には1869年初演で、ほんの百数十年前です。元の北欧神話だと、そこまで言えるのかどうか。
上記のアテナなどは、父が娘に男らしくあることを許していると言えます。
男女が力比べをして、女が勝つ話に違和感を感じる人もいたのか、別のロマンを求めたのか、時代が下るに従って、謎解き勝負という形式が登場します。
有名なのは、ペルシア(イラン)のお伽話である『トゥーランドット』でしょう。
これは謎解き勝負に負けた求婚者を、次々に処刑してきた姫の物語です。
彼女は求婚者に3つの謎をかけ、答えられない者を死刑にしてきました。
主人公の王子はその謎を全て解き、負けを認めようとしない姫に「わたしの名前をあてられたら、あなたの勝ちとしましょう」と言います。
最終的に、姫は王子との結婚を承諾します。
「誰も寝てはならぬ」という曲で有名な、歌劇の『トゥーランドット』はこのお伽話のオペラ化です。フィギュアスケート選手の、荒川静香がトリノオリンピックの際に、このオペラの曲で滑って、よく知られるようになりました。ちなみに、オペラ版のトゥーランドットにも、勝負に勝つだけでなく、相手を抱きしめてキスをするという、性的な征服行為があります。
詳しくは、ブログの『トゥーランドット』に関するメモで。
この「相手に勝って惚れられる」パターンは、『キン肉マン 特盛』に掲載されたゆで先生のデビュー作であるキン肉マン「オカマラスの巻」と、その続きである「パーティへの招待の巻」に、すでに出てきます。
「パーティへの招待の巻」という話のあらすじを、紹介しましょう。
ある夜、キン肉マンのためにパーティを開くという、美女達からのお誘いが来ました。
ところが美女達は、キン肉マンに倒されて復讐をたくらむ、キン骨マン達の変装でした。
キン肉マンは、集団リンチを受けた上、牢屋に閉じこめられます。
そこへオカマラスが現れます。
キン肉マン 「おまえ わたしに死刑を いいわたしにきたのか」
オカマラス 「ちがうわ あなたをにがしにきたのよ」
オカマラス 「わたし やつらのやり方には 賛成できないの」
オカマラス 「それに わたし あなたのこと…」
オカマラス 「愛しているんだもの」
キン肉マン 「……」
キン肉マン 「ま…まあ とにかく 恩にきるぞ」
この後、オカマラスは自分の身を犠牲にして、キン肉マンを逃がしています。
敵方の女が援助してくれるパターンは、「悪魔の娘」でも解説したように、メルヒェンの正道です。
このオカマラスというキャラクター自体は、ゆでたまご先生(原作)が小学5年生の時に描いた「キン肉マン」にすでに登場していたそうです。
なお、この「オカマラスの巻」には、読み切り版のキン肉マンの生い立ちが記されています。
簡単に言うと、酔ったウルトラの父が、飲み屋のママ(女将)を押し倒して生まれたのがキン肉マンです。
ここまで来るとメルヒェンではなく、エロネタですが「女は力でものにできる」という話には違いありません。ただ、それが西洋的な誇り高い征服者なのではなく、見境無しの「甘え」であることが、日本的です。
ちなみに、青年誌であるプレイボーイに連載された『キン肉マンII世』では、主人公が「王様ゲーム」や「野球拳」を楽しんでいました。これらは「勝負に勝って、女を脱がす」という遊戯です。
「パーティへの招待の巻」は、1979年の終わり頃にジャンプに掲載されました。1976年に監獄でのオカマと革命家の交流を描いた『蜘蛛女のキス』という小説が、メキシコでベストセラーになっていますが、日本でこの小説が戯曲化されたものが出版されるのは1983年、映画の日本での公開は1986年なので、おそらく直接の関係はないでしょう。
物語の類似点だけで考えるのなら、ビビンバよりもチェック・メイトの方がオカマラスの話に近いでしょう。チェックの再登場の仕方も
「相手は牢獄で主人公に再会する」
「主人公は相手の訪れた動機を最初、復讐だと思う」
「相手は汚いやり方には賛成できないという」
「相手は主人公にあなたが好きですと告白する」
「相手は主人公を身をもってかばう」でした。
オカマラスも、チェックも最初はただ倒されるために、登場した存在です。
その後、援助者としての役割が与えられた時、彼らの物語は「悪魔の娘」という、古典的なパターンに沿う形で展開しました。
自分のことを好きといって、手助けしてくれるならば、オカマでも男でもかまわないというのが、キン肉マンシリーズの主人公のおおらかさなのでしょう。
ビビンバもチェックも「父の復讐の道具」という共通点があります。
これは、ウォーズマンやブラック・シャドーにも共通する物語で、ビビンバが男性的な物語を背負っていると考えられます。
「主人公を好きになって、父親(師匠)を捨てる」という点でもビビンバとチェックは、共通します。この点ではチェックの物語が、女性的です。
こういう所を見ると、『キン肉マン』と『キン肉マンII世』はだいぶ印象が違うながらも、間違いなく同一人物の手によって描かれた漫画だと感じます。
欧州の神話には「倒すと援助者となる女」というパターンがあります。具体的にはギリシア神話のキルケー(キルケ)、ケルト神話のスガサフ(スカアハ)とモリグー(モリガン)です。彼女らは最初「怪物」として登場します。女神や魔女である彼女らは「援助者」であって「賞品」ではありません。つまり、お持ち帰り不可です。戦う処女というより、魔法にたけた熟女のイメージです。キルケーやモリグーは現代の感覚では「魔女」とか「怪物」となりますが、古代の感覚では「おそるべき神の娘」です。
キルケーは太陽神ヘリオスの娘です。主人公オデュッセウスは、船が遭難して彼女の住む島に流れ着きます。島の様子を探っていた彼の部下達はキルケーの屋敷を見つけ、歓待を受けます。しかし、キルケーは魔法の酒で彼らを豚に変えて豚小屋に閉じこめます。部下達に何かあったことに気がつき、オデュッセウスは救いに行こうとします。その前に神ヘルメスが現れ、「キルケの酒は飲まず、彼女の喉に刃を突きつけよ。彼女がベッドに誘ったら、断るな。男女の関係になれば、援助を受けられる。しかし、今後自分と自分の部下に危害を加えないと、誓わせてからだ」という助言をします。オデュッセウスはその通りにして、キルケーに帰り道などの色々なことを教えてもらい、水や食料をもらって再び旅立ちます。
スガサフについては、悪魔の娘の方で紹介していますが、彼女の娘が主人公ク・ホリン(クーフーリン)にした助言とは「スガサフの居場所を教えます。スキをついて彼女の胸元に剣を突きつけて、弟子にするという約束をとりつけて下さい」というものです。その後、ク・ホリンは、スガサフともその娘とも男女の仲になったようです。参考『千の顔をもつ英雄 下』『ケルトの神話』
キルケーといい、オイフェといい、スガサフといい、西洋の英雄は強い女の喉元に刃を突きつけて、援助を約束させるのが好きなようです。
オカマラスとかチェックもこういう「倒すと、主人公の援助者になってくれる怪物女」の百代くらい経た末裔じゃないでしょうか。
ビビンバの話には「主人公が相手の傷の手当をする」という、ちょっと面白いイベントが入っています。
『ケルトの神話』のク・ホリン(クーフーリン)とモリグー(モリガン)の話が、これに近いのではないかと思います。
ある時、英雄ク・ホリンは、国をあげての戦いに参加し、連日戦っていました。
そんなある夜に、死と破壊を司る戦いの女神モリグーが、わたしと愛を交わさないかと誘いに来ます。しかし英雄は神の娘の誘いを「戦いで疲れているから」と断ります。女神は怒りに燃えて「戦いを援助してやろうと思っていたが、それなら邪魔をしてやろう」と言います。
そして次の日の合戦の時にモリグーは、牛や狼などに化けて彼を邪魔し、ク・ホリンは彼女を剣で傷つけます。、モリグーは老婆の姿で現れ、ク・ホリンに傷の手当を頼みます。ク・ホリンが手当をすると、彼女は感謝して元の姿に戻りました。モリグーはその後ク・ホリンを様々に手助けしました。(ク・ホリンが与えた傷というのは、呪いのようなもので、ク・ホリン以外には治せないのです。)
この「自分がつけた傷の手当をする」というのは「償う」という行為です。「恩を売る」や「優しさアピール」という見方もできそうです。
ビビンバの場合も、キン肉マンは破いた服を、ミートのマントで償ったりもしています。
この「償う」という行為は、オカマラスに対してはありませんでしたが、チェックに対しては服をあげたりしていました。
こういう行動によって、相手が主人公を援助するというその後の展開に、説得力が増します。
「男が女に勝つ話」の典型的なパターンは、だいたいこんなものでしょう。
起 王女が求婚者に試練を課す。
承 主人公が、援助者に助けられる。
転 主人公が王女との勝負に勝つ。
結 主人公の王女に対する性的な征服が成る。
結の部分は、文字どおり押し倒すといったものから、マントを脱がすといったものまで様々ですが、これまで述べた話の大半にその手のイベントが入っています。
逆に日本の神話や昔話で、「女に勝って結婚する」話は、あまりありません。
アイヌの神話や民話にも女戦士と戦う話がありますが、悪女、魔女である相手を殺して話は終わります。
日本の有名な「男に試練を与える姫」である『かぐや姫』も、難題を説いた男はおらず、彼女は誰のものにもならずに、月に帰ってしまいます。
戦う処女神とか魔法にたけた熟女というイメージが、日本文化にはあまり馴染まないのではないのでしょうか。
あえていうならば、日本の女神である天照大神でしょう。古事記にその弟であるスサノオが天に上ってきた時に、侵略が目的かと思って、アマテラスが武装して迎えるという場面があります、
ただちに御髪を解いて角髪に束ね、左右の御角髪にも御鬘にも、左右の御手にも、みなたくさんの勾玉を貫き通した長い玉の緒を巻きつけ、背には千本も矢のはいる靫を負い、脇腹には五百本も矢の入る靫をつけ、また臂には威勢のよい高鳴りのする鞆をお着けになり、弓を振り立てて、堅い地面を股まで没するほど踏み込み、沫雪のように土を蹴散らかして、雄々しく勇ましい態度で待ちうけ、問いかけて「どういうわけで上って来たのか」とお尋ねになった。
『古事記 (上)』
このアマテラスの描写は、鎧に槍を持ったアテナや弓矢を手にしたアルテミス等の、西洋の女神を思わせます。前述のモリグーも戦の女神にふさわしく、灰色の槍を持った姿で、ク・ホリンの前に現れます。
その後の話は、途中までは西洋的な「男が女に勝つ話」のベタです。
スサノオはアマテラスに自分の邪心の有無(天の国に住む資格があるかどうか)を試すための勝負を持ちかけます。
この勝負は誓約(うけひ)というものです。
勝負に勝ったスサノオは天の国で、田を荒らすなどの悪さを色々とします。
最初は、アマテラスもかばっていました。
しかしある時、アマテラスが機織女達と機織りをしている時に、スサノオは皮を剥いだ馬をそこに投げ込みました。
これは結果として、神の娘に対する性的な侵害の意味を持つ行為です。
なぜかというと、古事記の記述では驚いた機織女が、尖った機織りの道具で陰部をついて死んでしまったからです。(日本書紀ではアマテラス本人が、という記述もあります。)
その後は有名な「天の岩戸」の話が展開し、天を騒がせた報いとして、スサノオは天から追放されます。
姉弟ということもあって、最終的にアマテラスはスサノオのものにはなりません。彼はその後地上で、人の娘である妻(クシナダヒメ)を得ます。
スサノオはかぐや姫が月に帰っていく話の逆ですが、結果としては「天女と地上の男」の話です。
簡単に述べましたが、このように日本の伝統的な物語においては「女と勝負をして、勝ってその女と結婚する」というパターンはあまり見られません。
アマテラスの話などは「男が女との勝負に勝ったからといって、それに甘えて、好き勝手にして良いわけではない」という話です。
ですから、冒頭で述べたような、ビビンバやチチやシャイナやシャンプーなどの「女戦士に勝つ」というパターンの話は、西洋文化からの輸入でしょう。おそらくゆでたまご先生達が、日本の漫画家で、そういう物語を描いた最初の世代ではないでしょうが、詳しくはわかりません。
「勝負で勝てば男も女も、征服者である男にひざまずくだろう!」というのが、ゆで作品のロマンなのでしょう。