体の中を冒険するというタイプの話についてです。
どこへ入るか
ここでは、主にウォーズマンの体内の五重塔リングの場合のように、体の中に「世界」があって、英雄がそこを冒険し、脱出するという話に焦点をあてます。
単に体内からの生還というのなら、グリム童話の『赤ずきん』や『おおかみと七匹のこやぎ』とか、おもちゃの兵隊が魚に呑まれる『しっかり者の錫の兵隊』というアンデルセン童話とか、古くは父であるクロノスにヘラ達が呑まれるギリシャ神話など、色々あります。これらは、食われた者の救出劇です。
鯨の胎内というパターンが多くの英雄の冒険物語に、存在することを『千の顔をもつ英雄』でキャンベルは指摘しています。
「魔の境界通過こそ再生領域への移行になるとの考えは、世界的規模において鯨の腹の胎内イメージで象徴的に表現されている。そのとき英雄は境界の反発を克服したりなだめすかしたりするかわりに、未知なるものに呑みこまれ、表面的には死んでしまったかのように見えるかもしれない。」『千の顔をもつ英雄 上』ジョゼフ・キャンベル 人文書院
そして、古典から現代作品まで、様々な作品で、様々な体内が冒険されました。
『インド神話』では、ヴリトラという悪竜の体内、キャンベルの影響を受けた、『スター・ウォーズ』では宇宙ワームの体内、『ピノッキオの冒険』(原作小説)では大きなサメ、『ピノキオ』(ディズニー映画)ではクジラ、『ワンピース』でもクジラ、『鋼の錬金術師』ではグラトニーの体内、ゲームの『大神』では宝帝や龍神の体内、『ミクロの決死圏』では人間の体内。枚挙に暇がありません。
キン肉マンシリーズでは、
『キン肉マン』の「なんでもかんでも腹の中の巻」の底無し星人の体内、
『キン肉マン』の「黄金のマスク編」のウォーズマンの体内、
『キン肉マンII世』の「悪魔の種子編」の悪魔の胎内、
が、「体内ステージ」だと思います。ベンキマンについてはベンキマン考を参照して下さい。クリオネマンの体内は、『赤ずきん』系の話でしょう。
食われかける程度だったら、『キン肉マンII世』の「ノーリスペクト編」のシーサーリングもそうです。そういえば、Vジャンプ版のチェックも、鯨に食われかけていました。
底無し星人とよく似た怪物が、登場する絵本があります。
「くいしんぼうのあおむしくん」です。
なんでもかんでも食べて巨大化する謎のおあむしくんと、それを飼っている男の子の話です。
あおむしくんは、町も人も食べてしまい、最後には主人公の男の子ものみこまれます。
この絵本の斬新さは、怪物に食われた主人公が英雄として「この世に脱出」してこないことです。
何もかも失いひとりぼっちになってしまった主人公は「あの世に召喚される」みたいな形で、再び世界を見出すのです。
この本の初版は1975年です。
1980年に底無し星人の話である「なんでもかんでも腹の中の巻」を、収録したコミックスが発売されていますから、絵本の数年後です。ゆでたまご先生は、1975年の時点ではすでに絵本を読むお年ではなかったと思われます。ただ、おそらく子供であったろうと思われる、「底無し星人」の原案投稿者がこれを読んだ可能性は高いでしょう。
ウォーズマンの体内は、『ミクロの決死圏』が元ネタでしょう。涙で脱出という所が共通します。
ただ、話の構造は違います。『ミクロの決死圏』の主人公の葛藤とは、いかなる父に従うか、というものです。
神という父性、科学という父性、国家という父性……最後は科学を通じて神を感じ、国家の英雄として祝福されるという大団円を迎えます。
ちなみに、1966年に公開された『ミクロの決死圏』のアイデアは手塚作品が元ネタだという説があります。
手塚治虫が、1948年に『吸血魔団』という漫画を発表し、1958年に手塚本人がそれを『38度線上の怪物』としてリメイクし、さらにそのアイデアを1964年にアニメ版の『鉄腕アトム』の内の1話である「細菌部隊」に使用し、それが『ミクロの決死圏』に影響を与えたという説です。
なお、ゆでたまご先生が、『鉄腕アトム』のアニメを見ていることは、ラーメンマン・ランボーの容姿から確実と思われますが、「細菌部隊」を見たかどうかはわかりません。
逆に、ウォーズマンの体内に入る方法は、かなり変わっています。
体内を冒険する話の場合、たいがいは口から入ります。『ミクロの決死圏』では、ミクロ化装置と注射器です。
ウォーズマンには、口らしい口がないといっても、なぜ、井戸になったのでしょう。
口から入ると、食われる気がするから、というのは結構ありそうです。
だって、多くはそういう話ですから。それだと敵対的な関係のように思えますよね。
また、井戸が異世界に通じているという考えは、メルヒェンでは馴染み深いものです。
『グリム童話集』に「ホレのおばさん」<KHM 24>という話があります。
これは、意地悪な継母になんとしてでも、井戸に落ちた糸巻きを拾ってこいと言われた少女の話です。
思い詰めて井戸に飛び込んだ彼女が気がつくと、地下の世界には美しい草原が広がっていました。道を歩いていくと、そこにはしゃべるパンや、しゃべるりんごがいました。娘は彼らを助けてやりました。
その先に、ホレおばさんという人の家があり、娘はそこで働くことになりました。
娘はまじめに働き、帰りはホレおばさんに宝物をもらいました。
井戸が草原につながっている、この童話に比べたら、ロボ超人の体内につながっている位、なんでもありませんよね。
この場合の地下世界は、無意識を象徴します。
ということは、ウォーズマンの体内も、無意識の世界か何かでしょうか。
まあ、ありとあらゆる異世界は無意識の世界だと、ユング心理学あたりではなるのですが。
無意識というか、内面世界ということなのでしょう。
人の心の内側の世界が、体の内側に置き換えられているという推測です。
意識の世界と無意識の世界があまりわけられていない子供にとっては、この地下=体内は、納得しやすいのではないかと思います。
悪魔の胎内には、特定の元ネタはおそらくないと思われます。
ちなみに『キン肉マン』の3つの体内ステージの共通点は「腹の中に塔が立っている」です。
底無し星人はビル。
ウォーズマンは五重塔リング。
悪魔将軍は肉の塔。
実は、これ、珍しいパターンです。
ピノッキオなら映画版でも、原作小説でも、腹の中に船が浮いています。
スターウォーズの場合、宇宙ワームの体内には液体らしいものはないのですが、宇宙船で入っています。
これらだと普通に胎児や未消化の食べ物のイメージですよね。
クジラの腹の中に船ごとのみこまれるのは、『ワンピース』もそうです。船だけでなく、島や小屋もありました。
あえてあげると、腹の中に町がひろがっている『くいしんぼうのあおむしくん』が、腹の中にいくつもビルの建っている底無し星人に近いです。
なぜそんなにもゆでたまご先生は、男の腹の中に塔を立てたいのでしょうか。舞台自体が女性原理の中の男性原理を象徴しているとか?
誰に出会うか
キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で、紹介しているエスキモーの「大鴉」の話は、こうです。
主人公の大鴉は火起こし棒を抱えて、口を開けた鯨の腹の中に飛び込む。
すると、牝鯨の腹の中には立派な部屋があって、美少女がいた。
彼女は鯨の魂であり、あなたはここにいらした最初の男の方です、と言ってノイチゴと油をすすめてくれた。
その部屋には、天井の背骨にそって油の管が走り、そこから滴る油でランプに火がともっていた。
少女の留守に大鴉は、その油をなめてみた。旨かったので、もっと飲もうとその管を引きちぎった。それは鯨の体の一部で、そのために鯨は死んだ。
主人公は鯨の死体から出られずにそのまま流された。やがて鯨の死体が浜に打ち上げられ、主人公は鯨を食べようとして、浜の人たちが鯨の背に開けた穴から、そっと脱出した。
やがて、主人公の忘れ物である火起こし棒が、鯨の腹の中から村人たちに見つかった。
主人公は、それは不吉なことの起こる前兆だといい、これみよがしに逃げ出した。
村人達もつられて逃げ出した。主人公はその後こっそりと浜に戻って、鯨の肉を独り占めした。
牝鯨を内からも外からも食いつくすという、貪欲な話です。さすが、捕鯨民族に伝わる話ですね。
キャンベルはこの話は本来、火起こし棒で、火を起こして、鯨の腹の中から脱出する話だと言います。
火起こし棒とは、先が凸になっている棒を、凹んだ所のある板にあてて、摩擦させて、火を起こす、あの原始的な道具です。これは女性を象徴するものと、男性を象徴するものをあわせて、新たな火を誕生させるという行為が、クジラの腹の中から再びこの世に誕生する英雄の姿に重ねられているのでしょう。
それが、語り伝えられていくうちに、男である主人公が女に出会う話になったのだと、キャンベルは語ります。
このように、何かの体内を冒険する話の場合、体内で男性的なものと女性的なものを合体させる、とか体内で美少女に出会う、というのは、よくある展開です。
ちなみに、『スターウォーズ』では、宇宙ワームの腹の中の船の中でレイアとハンソロがキスしていました。
ピノキオは、闇の中で女神ではなく、父親に出会っています。
父親との愛情を確認することから、人間の男の子になる道が開かれるのが、ピノキオです。
ピノッキオという小説全体や映画全体では、母親代理の女神が存在するので、それでいいのでしょう。
キャンベルの本もまだ出版されない、1948年に、肺の中で結核菌の美少女に出会う漫画を描いた、手塚治虫先生は神ですね。「結核の美少女」でなくて、「結核菌の美少女」です。異類の女性にロマンを感じるタイプの方ですから。ゆでたまご先生とは、異なる方向に凄い方ですね。これが古典に学んだ世代の力でしょうか。
『キン肉マン』に話を戻しましょう。
底なし星人の場合は、キン肉マンは、一緒に呑まれたナツコに出会います。そしてナツコが見つけたギョーザで、キン肉マンは巨大化して、底なし星人の腹を引き裂いて、脱出します。
ちゃんと美女に出会ってるという点でも、この話は古典的メルヒェンだと思います。
ウォーズマンの体内の場合は、金のマスクと銀のマスクが合体する、です。
合体は体内から出た後のこととはいえ、体内の時点で、銀のマスクが謎を掛けて、金のマスクが謎を解く、という形での「対の確認」というのはありました。この両者については、世界の二つの顔を参照。
悪魔の胎内の場合は、白いコスチュームの万太郎と黒い鎧のケビンがタッグを組むことが、それにあたるんじゃないでしょうか。
ところで、主人公が火を起こして脱出という話は、映画版ピノキオにもありました。
とはいえ、別に火起こし棒は使っていません。
それに原作版では、ピノッキオは火を使いません。口を開けて寝ているサメの口から、ピノッキオはジェッペットじいさんを背負って、そっと脱出します。
ジェッペットじいさんが、サメの体内に浮かぶ船から出られなかったのは「泳げなかったから」です。
その点では、ディズニー映画の方が、アクション映画的な演出をしていますね。
この神話のテーマは「主人公である英雄自身の死と再生」でしょう。この場合、体内に入られる側を殺して脱出という話も多いです。
底無し星人もこのタイプの話です。
底無し星人とキン肉マンの話の、物を食って大きくなった主人公が、内側から相手の腹を割くというのは、珍しい脱出方法だと思います。
単純に内側から腹を割くというのなら、ヘラクレスがヘシオネを救う話もそうですが。
成長による親殺し、あるいは古い自分の皮を破って、新たな自分が生まれるというイメージなのかな、と思うとすばらしく子供向けですね。
ただ、『ミクロの決死圏』では、「体内に入られる側の死と再生」のテーマが平行して走るのが、ポイントです。ウォーズマンはこれです。
この「通常のサイズの人体に入る」と「入って治療する」という二点が、おそらく手塚先生の画期的な点でしょう。
数多くの神話や童話が体内の冒険を書いてきましたが、そのほぼ全てが「相手が巨大」という発想で、自分が小さくなるというものは、たしかに手塚治虫が初かもしれません。結核菌を擬人化し、治療のために体内を冒険する物語は、医者でもあった手塚先生ならでは、といえましょう。
『ミクロの決死圏』の制作者が参考にしたかどうかはさておき、手塚治虫先生が先に作品化したのは事実ですから、ここでは手塚先生のオリジナリティに敬意を払います。
悪魔将軍を倒すことによって、「悪魔の胎内」では、人質のミート及び、戦った仲間全ての死と再生、が行われました。
これは先のヘラクレスとヘシオネ、ペルセウスとアンドロメダのように、「魔物に呑まれようとしていた誰かを、主人公が救う」というパターンの一歩進んだタイプではないかと思います。人質で生贄のミートはアンドロメダやヘシオネと同じ様な「王女」の役割です。
スカーやケビン達は、最終的に主人公の勝利によって救われるとはいえ、これは彼らも「英雄」として、死し、再生するという物語なのでしょう。
これはゼウスの活躍によって、「支配者である父親」のクロノスの腹から、その娘や息子が吐き出され、復活するギリシャ神話と通じるのかもしれません。
昔から人間は、男女の対と、大人になることをつなげて考えていました。
ある時は母親であり、ある時は父親である、幼い自分を取りまく環境。それこそが、何者かの体内として表現される肉の壁でしょう。それは「意識の上で自分の限界を定める古い自分の皮」でもあります。
英雄はそこから逃れ、より優れた者として、二度目の誕生をするのだ、ということなのでしょう。
やはり100年後の漫画も、体内の冒険とかやってるんでしょーか。
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