『キン肉マン』のベンキマン戦を考察する文章です。排泄に関する表現があります。
トイレは、学校で最も怖いところです。
小学生達は、トイレに出る幽霊のことをよく話します。
わたしが小学生の時、「トイレにタイガーマスクが出る」といううわさ話が、わたしの学校にありました。
それは今にして思えば「覆面をかぶった痴漢が小学校に出るので、注意して下さい」という話なのでしょうが、「トイレの怪人」として、子供達にはおそれられていました。実際に見た、という同級生もいたりしたものです。
男子二人が「さあ、タイガーマスク出るか、出ないか」と大声でいいながら、トイレに入っていくのを見たことがあります。きっと怖かったのでしょう。
学校の怪談の中でも、特にトイレの怪談では、潜んでいた魔物に殺される系統の話がきわだって多いのです。
『学校の怪談』には、「青白い手」という怪談が収録されています。
「(前略)男の子は恐怖で気がくるいそうでした。そのうちに、便器の中から、チリーン、チリーンとさみしい鈴の音がひびきはじめました。その音にあわせて、青白い手がズルッズルッとはいでてきたのです。青白い手は、男の子の足をがしっとつかんで、そのまま便器の中にひきずりこみました。」
この、人をその中にひきずりこむ便器とは、ベンキマンの親戚ではないでしょうか。こういう場合、便器の中や排水管から死体が発見されたというオチにはまず、なりません。
引きずり込まれた者は、そのままこの世ならざる空間へと消えてしまって、帰ってこないのです。
『学校の怪談』の筆者、常光徹は「トイレでふしぎなできごとがめだつのはなぜだろうか。ひょっとして、トイレはこの世とはべつの、死者や妖怪の世界につうじているのかもしれない。」と書いています。
トイレが怖い理由は、冷ややかさと暗さ、何かが潜んでいそうな個室など、色々あるでしょう。
でも、中でも大きな理由は、「トイレは地下につながっているから」ではないでしょうか。
地下は死の世界とする考えは、人類普遍です。
これは単に地下に、死体が埋められるというだけではないでしょう。
それは見えない、わからない、に対する恐怖です。
暗い地下は「何かがあるが、それを知ることのできない」世界として、無意識の象徴です。
『キン肉マン』のベンキマン戦でも、便器の穴は「作者すら知らない世界につながっている」ということになっています。それが「怖い」わけですね。
また人は幼い頃、自分の排泄物に「自分の一部」や「自分の作ったもの」という感じの愛着を持っていたりします。「でっかいうんこ自慢」とか。なので、水洗トイレはそれを埋葬する場所でもあるのかもしれません。
キン肉マンは、「自分の一部」どころか、自分を丸ごと水葬されかかるわけです。
その危機を知恵で乗り越えるのが、この話の山場です。
「何か大きな生き物の体内から、自ら外へ再び生まれてこようとする」物語は、神話のベタです。『キン肉マン』では、底なし星人とか。
水があふれて、キン肉マンが半裸で飛び出してくるのは、再生のイメージでしょう。
人は水から生まれてきます。もうちょっと正確に言えば、母親の胎内で羊水に浮かんでいて、それが体の外へ溢れ出すのと同時に、人間は誕生してきます。
その光景は古人には馴染み深いものでもありましょうし、もしかしたら人はその時のことを多少なりとも覚えているのかもしれません。
全身を水にひたしたり、頭に水を注ぐキリスト教の洗礼も、「生まれ変わる」ための儀式です。
神話の水準で、水による世界の浄化と再生を描くと、ノアの箱船のような洪水伝説になります。ベンキマン戦も洪水で終わっていました。
悪しき者は倒され、平和が訪れた、ということでしょうか。
ベンキマンの話は、「体内を通っての死と再生」と「地下世界を通っての死と再生」を組み合わせた話です。
この二つを組み合わせることで、闇の世界から光の世界へと帰ってくる、キン肉マンの英雄性が子供の心に鮮烈な印象を残します。
たぶん、ゆでたまご先生は理論的に組み合わせたのではなく、「死と再生」の物語を感覚的につかんでいるのでしょう。