ミシッ…ミシシ…
暗橙色の照明が落とされた地下ホール。
所々で吐き出される紫煙が渦巻き、人いきれでむせ返るような熱気があたりをじっとり包んでいる。
その閉ざされた空間には、複数の円卓が置かれている。
それぞれに座している人影も見えるが、暗い室内のせいが、顔の表情までは判らない。
しかしまるで何かに眼を奪われたように、顔を前方に固定している。
玲瓏たる美貌を持つ女性が一人、タバコをくゆらせながら、それら観衆に混じっていた。
その双眸は、見たものを突き刺すような醒めた冷たさを持っていたが、口元に引いた紅は、口づけしただけでこの世の全てを蕩かすことができる灼熱のルージュだった。
タイトなスカートからはみ出した極上の脚を卓の下で高らかに組み上げている。
ムッチリと肉の乗った内腿がなんとも艶かしいが、普段なら男の眼を吸い寄せて離さない破壊力抜群のそれも、今宵ばかりは決定力を欠くようだった。
それほどまでの見世物が、目の前で繰り広げられているというのだろうか?
ただ、この女性だけは、もう見飽きているとばかりに、少々退屈そうであった。
生あくびをかみ殺しているようにすら見えるが、それは何故だろうか…?
ミシ…ミシシ…
人々が座っている前方にある一段上がったステージには、スポットライトが当てられ、そこだけが明るく照らし出されている。
通常このような地下劇場では、壇上で繰り広げられるのは、肉感的な美女によるダンスなのかもしれない。
また、場末の安劇場だとしても、くたびれた踊り子によるストリップまがいのチープなショーが妥当だろう。
が、そのいずれでもないことは、これだけ一心不乱に人々の耳目を集めていることからも明白である。
確かに目の前には、一種異様な光景が広がっていた。
ステージ中央には、高さは3mにも届くだろうか、巨大な立方体の水槽がそびえ立っている。
そしてその中に直径2mくらいの円盤が垂直に、まるで水車のように設置されているのだった。
ミシ…ミシシ…
先ほどから聞こえる耳障りな音は、この円盤がゆっくり回転するときに発しているものである。
ゆっくりと…ゆっくりと、時計回りに回っていくのだ。
こちらからは見えないが、円盤の裏に回転軸でも取り付けられているのだろう。
不自然なオブジェはそれだけに留まらなかった。
最も眼を引くもの…それは、円盤中央に、革の拘束具を身にまとった女性がカッチリ固定されているということだった。
そんな美人が眉根を寄せて苦しげにうめいているのだから、たまったものではない。
全体的に流れるような美麗なプロポーションは、既出の美女に負けず劣らず申し分ない。決して引けはとらないだろう。
その十二分に魅惑的といえる姿態に醜い拘束具が食い込み、淡い色の水着を着ていてもはっきり分かるくらい、プクリと胸の双丘を飛び出させているのだ。
釣鐘状の男心をそそるバストが今はぎゅぅっと変形し、醜く縊りだされてしまっている。
これはこれで男の目を楽しませることにはなるのかもしれないが…
しかし身体に執拗にまとわりついている拘束具は、半ば飾りのようなもの。
彼女を真に縛り付けているのは、合計4箇所の革製の手枷、足枷なのである。
それが、美女を大の字に円盤に張りつけているのだ。
それぞれの手首、足首に寸分のすき間もなくギッチリ食い入っている禍禍しい物体…
これらの枷を外さないことには、この磔台から逃れる事はできないのだ!
ミシッ…ミシシ…
その間も容赦なく円盤は回転していく。
もちろんその円盤に身体を固定されている彼女も、それに合わせて頭を上にしたり、下にしたりしている。
彼女の意思とは何の関係なく……強制的に。
「ゴフッ…ゴホゴホッ!!!…ふぐっ…ふぅ…はぁ…ふぐっ!!」
今、彼女の頭が水面から浮上した。必死で新鮮な空気を貪ろうとしている。
説明が漏れていたかもしれないが、特注製の水槽の中は、むろん空ではない。
現在円盤の直径の半分くらいが没するくらいまで、水が入っている。
円盤は約2分間で一回転する仕掛けだ。
つまり囚われの女性は、頭を下にしている約1分間、呼吸の自由を奪われる計算になる。
「ふぐー!!…うぐっ…ううぅ…うぐぅ!!」
大きく息を荒がせ、なんとかして欠乏しきった酸素を補充しようとする女性…綺麗にメークアップされた当初の化粧はとっくに流れ落ち、観客への流し目どころか、焦りの表情をアリアリと浮かべている。
「無様ね…」
その様子を客席でじっと眺める女性は、テーブルに置かれたコーヒーをすすりながら、吐き出すようにつぶやいた。
…息を吸いたいくらいでそんな動物か何かのような呻き声をあげるなんて…こっけいね…
しかし、壇上の女性がそこまでしても懸命に空気を肺に取り込もうとするのには、実はワケがある。
彼女の鼻から口にかけて、大きめの布でべっとり覆われているからである。
水分をたっぷり含んだ布は、女性が口や鼻から息を吸い込もうとする度にピタリとへばりつき、呼吸を見事に阻害するのである。なんという狡猾な仕掛けだろうか。
そのため、例え水上の顔を出せたとしても、満足に息を継ぐことなど出来ないようになっている。
この哀れな美女は、恥も外聞もかなぐり捨て、ふいごのように息を喘がせているのだった。
「ふぎぃ…ふぐっ…ふぐっ…ふー…ううっ…」
彼女の頭が時計で言う12時の位置を過ぎ、1時を指している。
目の端に、ユラユラ揺らめく水面を捉えたようだ。
再び頭から水没する前に、足りない酸素をなるべく補っておこうと一層胸を大きく上下させ、呼吸を貪ろうとする。
その度に派手に締め上げる拘束衣装により、ギチュギチュと革の音が聞こえるくらい卑猥に胸が変形していく。
それに彼女がそう足掻けば足掻くほど、布が輪郭をくっきり浮かび上がらせるくらい顔に密着し、呼吸困難の度合いを高めていくのだ。
涙ぐましい努力を続ける彼女だが、意図する半分も空気を吸い込めないでいるだろう。
「ふぐー!!…うぐっ…ふぐっ…ゴフッ…ゴボッ…」
やがて彼女の顔が真横に傾いたかと思うと、再び水中に吸い込まれていった。
その瞬間、大きな泡(あぶく)が上がり、咽ぶような音が響いたのは、一秒でも長く酸素を貪ろうとした報いなのだろう。
少し水が肺に入ったかもしれない。
ミシ…ミシシ…
じれったいような動きで彼女を括り付けたまま、円盤は回転していく。
ゆらゆらと水中花のように髪が揺らめいている。
水中で顔を歪めて息をこらえている女性が切望している事といえば、お願い、もっと早く回転して私を水上に浮かび上がらせて!ということだろう。
でも、一旦顔が水上に浮上し、呼吸可能になると今度は全く逆のことを考えることになるわけだから、人間とは随分勝手な生き物である。
しかも水槽には僅かずつではあるが、水が流し込まれている。
時間が経過するにつれ、着実に水位は上がり、呼吸可能な空間が奪われていく悪魔のような仕掛け。
彼女の退路はユルユルと、今まさに断たれようとしている。
この悪夢のような呪縛から彼女が逃れるために残された道は…”エスケープ”しかない!
「さぁ…うまくいくのかしらね…」
見物役に徹している美女は、またカップを口元に運び、女性の苦悶の様子を眺めながら他人事のように言い放つ。事実、この女性にとっては、他人事でしかないのだが…
”エスケープ”…今、壇上で行われているのは、敵国に捕まった女スパイが受けている拷問の類でもなければ、奇術師がテレビでよく行っている、なんらかのトリックが仕込まれた手品の脱出劇でもない。
この絶体絶命ともいえる状況からエスケープできるかどうか、まさに己の命を賭けた危険なゲームなのである。
ここ、その名もPrivate Escape Club(PEC)は、そういうゲームが数多く行われてきた場所である。
詳しい由来は知らないが、なんでも大正の世に、当時の華族や金の有り余った大地主が集って暇つぶしの余興として行われたのが始まりだと聞く。
一生かかっても使い切れない財を成し、この世の贅を尽くした人間の行き着くところが、こういう場所だったのかもしれない。
かつてローマのコロセウムで殺し合いを楽しむ貴族が居たように、どの時代も変わりない人間の性なのだろうか。
ここで、古より行われてきたゲームの概略はこうだ。
密かに”脱出ゲーム”の参加者を募った後、主催者である金持ちたちが頭を捻り、ポケットマネーを出し合って大掛かりな仕掛けを構築する。
絶体絶命的なその状況から見事脱出に成功できれば、それでよし。
勝者には莫大な報酬が約束されているのだ(もっとも金持ち連中にとっては、せいぜい端金なのであるが)。
しかし失敗すればそこに待っているものは”死”のみであるという厳しさ。
一旦ゲームが開始されれば如何なる理由であろうとも、リタイアは許されない。
それが鉄の掟なのだ。
金持ち達、PECの会員となっている者は、その娘(昔の権力者は男性ばかりだったためか、エスケープ希望者は女性に限定されており、その伝統が今も引き継がれている)が、言葉どおり死に物狂いで足掻く様を眼の肥やしにし、余興代わりに脱出の成否に金を賭けて楽しむのだ。今まさに、この会場で行われているように。
美女が命を賭けた粘闘を、ポケットマネー程度で楽しめるのだから、金持ち連中にとっては安いものと言えよう。
なんとも不公平な気もするが、これが自由経済の歪な縮図だといえようか…
ところで賭けとはいえ、脱出できない様子を見たい参加者の希望に沿うように、そう簡単にエスケープが出来ないようにはなっている。
そのため「失敗」にビットする会員が多いのは事実だ。
誰しも、美女が苦悶に身悶える様が見たいのは当然なのである。
『さぁ、水位は半分を越えてきました。彼女は無事脱出することはできるのでしょうか?もっとも【奇跡を呼ぶ女】としても高名な彼女のことですから、我々を楽しませるため、ギリギリのタイミングを計っているのでしょうか?』
ステージ横に位置する進行役の男が、自分達が仕掛けたトラップの悪質さは分かりきっているのだろうが、わざわざ解説を入れる。
そういう台詞を言いたくて仕様がないって感じだ。
「ホント、悪趣味ね」
再び手に火を点したタバコに持ち替えた女性が、濡れた口元を尖らせるようにつぶやく…
ミシ…ミシシ…
嫌な音を立てて、円盤は回っていく…
拘束された四肢をくねらせながら、女性の顔がようやく水面に浮上する。
泣きはらしたような眼を見開いて、眉間に皺を寄せ、息をしようと必死の努力を見せている。
しかし水中をくぐってきたことにより、相当疲労は蓄積してきているのではないだろうか…?
「私ったら…」
退屈しのぎに見ていたはずなのに、いつの間にやら、水中に半ば沈んだ女性の心配をしてあげているなんて…
確かに、見ちゃいられないってのが正直なところなんだけど…それとも…
ふと、その感覚が蘇りそうになっていることに気付き、顔を横に打ち振る。
フー…っと口から煙を吐き出すと、忌々しげに火を灰皿でもみ消した。
「何も知らずに挑戦するのが、バカなだけよ…」
口減らしとして身売りが横行したような時代には、食うにも困った家の娘が、これで一家全員が助かるのなら、と無謀としかいえない挑戦を繰り返し、そのほとんどがこのゲームの餌食として消えていった。
何の知識も経験もなしにエスケープが成功できるほど甘くは無いが、挑戦者のスキルに応じて多少の調整が加えられることは規定で認められている。
なんといってもその成否の結果を賭けて楽しむのである。
絶対に脱出不可能の仕掛けや、素人でも成功するような仕掛けなど、賭けが成立しないシチュエーションは好まれないからだ。
あくまでも、挑戦者が精一杯力を出し切って脱出できるレベルのほんの少し上くらいの仕掛けを作り上げ、そこに放り込むのである。
後少しで助かる…そう思い渾身の力で脱出に取り組む女性達…しかしそれが不可能であることに気づき、希望が絶望に変わる瞬間…それが彼らにとって最高のご馳走なんだから…
パン一個でも自らの命を差し出したような時代には、希望者には困らなかっただろうが、現在は苦労しているのだろうか? 実はそうでもないのだ。
バブル経済崩壊後の馬鹿げた無策ぶりにより不況が長期化し、違法な暴利を貪る街金に引っかかった零細企業の一家などに参加希望者が結構いるのだ。
現に今エスケープを敢行している彼女だって、名前こそ忘れたが、客の入りが悪くなり、経営が傾いたどこかの奇術団の女団長(作者注:またこの設定かとか、彼女の名はなんと言うなど細かいことは気にしないように)だということだ。
TVにも出たことがあるということだったので、全くの素人というわけでもないのだろうが、どうせ生半可にかじった知識をもっているだけ。
多少の腕に覚えもあると言っても、このゲームは仕掛けがある奇術なんかとは全く別物なのである。
最初はニコヤカに微笑んで会場内に手を振るゆとりすらあったし、拘束が実質手枷足枷だけということで、ゲーム開始時は余裕の笑みすら浮かべていた。
これくらいすぐに脱出してやるわ…って台詞が聞こえてきそうなくらい。
しかし、いくら身をよじって手枷を外そうとしても、円盤に強力に密着するように固定されたそれはビクともしないことが分かってからは、次第にその笑みは吸い込まれるように消えていった。
代わりに浮かんだのは、額の脂汗と、焦燥の表情である。
それがまさに主催者の意図するところだったわけ。
で、この美人奇術師も犠牲者として名を連ねることになるというのか…
今や彼女も、現実味を帯びて来た”失敗の可能性”というプレッシャーに、押しつぶされそうになり、その蟻地獄から抜け出そうと、やみくもに足掻いているのだ。
『彼女が拘束されているのは、わずか4箇所の手枷・足枷のみなのです。【魔法の指】と称えられているその手に掛かれば、いとも簡単に抜け出ることが可能でしょう。さぁ、一体いつ彼女が脱出し、最初見せてくれたあの輝くばかりの笑顔を見せてくれるのか…皆様、期待して、その時を待ちましょう!』
舞台横に直立してマイクを握り締める進行役の口調は滑らかだ。
彼らがはめた手枷・足枷がそう易々と外れるわけがないのは明白。
それを知っているが故に、彼女が苦悶する様が楽しいのだろう。
まさに彼らの筋書き通りに、はまり込んでいく様が。
「まったく、どうしようもない連中ね…」
「蘭子様はどちらにビットされましたか?」
隣に座っていた執事の岡本が小声で聞いてくる。長々とした思考が中断され、蘭子と呼ばれた女性は、我に返ったように振り向いて答える。
「失敗…のほうね」
「ほう…今回は名のある奇術団の女団長ということ。それで成功にビットした方が多かったと伺いましたが」
「でもそれはあくまでTVやショーの中の話でしょ。本当に抜け出せないように狡猾に考え出された拘束からの脱出となると素人ね。いえ、なまじ過信があるから素人以下かも」
手持ち無沙汰に綺麗にカールされた横髪をクルクル指で回している…これが蘭子のの癖らしい。
「はぁ…そんなものですかな」
40を過ぎたばかりだと言うのに、岡本は時折年寄くさい声を出す。
過信は禁物、か…それは私だから言えることかもしれないが…いや、ここで過去を振り返るのはやめておこう…
蘭子はそこで思考を中断し、再び壇上で繰り広げられるゲームに眼を移す。
「ぶおっ…ぐほっ…ふぐっ…むぐうぅ…」
あれから何度目かの息継ぎタイムとなったようだ。長いストレートの黒髪が、彼女の苦悶を物語るかのように、頬にべったりと絡みついている。
しかし水位は既に3分の2くらいのところまで上がってきてしまっている。
水没している時間と水上にいる時間はかなり前に逆転しているのだろう…しかも水から顔を上げることができたとしても、顔に絡みつく布が呼吸を執拗に邪魔するのだ。
体の隅々まで充分に酸素が行き渡らずに、あちこちから悲鳴が上がって久しいはずである。
「美人奇術師さん…あなたが今しなければいけないことは、エスケープなのよ。集中しなければ、出来ることも出来ないのよ」
男なら誰でも吸い付きたくなるような甘く濡れた唇から漏れ出た蘭子の独り言を、岡本だけは聞き取ったかもしれない。
全てにおいて、この麗しき主人に忠実な執事だけは。
確かに目の前の生命維持のために、酸素が必要なことはわかる。
しかしこの悪魔のゲームから逃れるためには、その拘束を解き放ち、エスケープするしか道は無い。
まずはどちらかの手枷をはずし、それから順番に四肢の枷を外していく…そういう冷静かつ当たり前な判断が今の彼女には失われてしまっているのだ。
それが、奴らの思うツボなのに…
『おおっと、大丈夫でしょうか? かなり苦しそうですねぇ… 水位も上がってきましたし、そろそろ、手枷の一つも外されたほうが…いや、それともこれも演技なのでしょうか? この場を盛り上げる演出! いや、きっとそうなんでしょう!』
わざとらしい口上を聞かされても、壇上の女性は、もはやどうすることもできない。
ただ、強張り気味に見開かれた目元からは、『演技なんかじゃないの!』という、悲鳴にも似た否定の意思だけが明確に汲み取れる。
『さぁ、再び愛しい水の中に戻る時間がやってきました。そのひんやりした感触を心行くまで味わってきてください!』
「ふぐぅ!!…ごふっ…ゴボッ…ブク…ブクク…」
再び水中に顔が沈んでいく。
彼女の目が『み、水なんて…もう…イヤァ!!!』と絶叫するように見えた。
しかし機械仕掛けの円盤が止まることなど無く、無情にも1分半近い水中遊泳に強制的に参加させられてしまうのである。
「グブッ…ゴボッ…ウグッ…」
顔を出している時間が短すぎて、充分酸素が補えなくなってきているのだろう。
水中深くに沈められた彼女は、苦渋の表情をありありと浮かべ、その苦しみを紛らわそうとでもしているのか、首を振りたてている。
その度に彼女の長い黒髪が、水の中に広がり、幻想的な美しさを見るものに与えている。
「あーあ…そんなむやみに力を込めても…枷はますます食い込んでいくだけよ…」
脱出しようと身悶えるたびに、その手首を締め付ける圧力がますます彼女をパニック状態に追い込んでいく…
酸素欠乏状態で満足に考えることもできなくなってきている…
そして沈着な行動が取れないことでますます窮地に追い込まれていく悪循環。
水面まで後少し…もうちょっと…
ザヴァッ…
ようやく水面に浮上する。
「ぶはぁ…フハァ…フハァ…ムグハァ…」
水位は着実に増しているので、呼吸が許される時間は後30秒を切っている。
眼を見開き、火の息に喘ぐ奇術師。
限られた時間で空気を貪ろうと涙ぐましい努力をするが、そうしている間にも刻一刻と水中に没する時間が近づいてくる。
胸を大きく上下するたびに、きっちりと締め上げられた大きめの乳房も合わせて跳ね上がっているのがうかがえる。
しかし、無残にも時計の針は回り、好む好まざるに関わらず、入水の時間がやってきてしまう。
「むぐっ……ひぃあ!…うぐっ…ブクク…」
水面下に引きずりこまれるとき、明らかに首を横に振り、イヤイヤをしているようだった。
肉体的にはそろそろ限界ということかしら…そう蘭子は冷静に分析する…経験者として…
一分強の息こらえをやれと言われれば誰しも簡単にできるだろう。
しかし、何度も何度もそれを繰り返すうちに、疲労が蓄積するように体の芯にまで呼吸困難のダメージが溜まっていくのである。
一定間隔で繰り返されても苦しい行為なのだが、注ぎ込まれる水により、息継ぎの時間が短くなり、息こらえの時間が長くなっているのだ。
余程特殊な訓練を受けたものでも、耐えられる時間が多少延びる程度であろう。
それに息継ぎの時間が、ここまで短くなってしまっては…
水中で両肩を揺さぶり、無駄とも思える足掻きを繰り返すだけの女エスケープアーティスト。
「脱出を忘れたエスケープアーティストなんて…見るに耐えないわね」
「はぁ…そうですなぁ」
「でも、本当に苦しいのは、これからなのよ」
「左様で?」
「ええ。私にはわかるんだけど… 彼女はそれに耐えられるのかしら?」
唯一自由になると言ってよい首を苦し紛れに振りたてているが、それでどうとなるわけでもない。
返って体内の酸素を早く消費するだけである。
ザヴァッ…
長すぎる水中散歩からようやく帰還する。
水が滴る顔を持ち上げた彼女は、悲痛な胸の内をストレートにぶつけるように、くぐもった声を張り上げた。
遂に崩壊の時がやってきたのだ。
「ぜぇ…ぜぇ…あぐぅ…く、苦しいの…お、お願い…助けて!!…ぜぇ」
どぉ…
その一言で、俄かに会場内の湿度がぬめりを増したような気がした。
どこか濁ったような、気だるい熱気が陽炎のようにそこかしこから舞い上がる。
決死のエスケープに挑戦する、いや肉体的に限界を越え、救済の悲鳴をあげる彼女の絶望の声を糧とするかのように。
『おおっと、少し息切れですかぁ!? では、たっぷり息を吸い込んでチャレンジを続行してください!』
「ぜぇ…ぜぇ…あぐっ…や、やめて…もう…これ以上は…」
『苦難を乗り越えて果敢に挑戦し続ける美人奇術師…感動ものの光景ですねぇ!』
彼女の訴えなど、全く無視だ。
それも、当然。一度始めたら誰も止めることはできないゲームなのだから。
『おしゃべりをする時間があれば、息をしておかないと…おや? もう水面が近づいてきましてねぇ』
「ひぃぃ…あぐっ……い、息が………もたないのぉ…」
水槽内に注ぎ込まれている水のせいか、随分水位が上がってきてしまっている。
彼女のすぐそこにまで再び水面が迫っている!
それが彼女の目にはどんなに忌まわしいものとして、映っていることだろうか?
「ぜぇ…ぜぇ…ごふっ……ごぼっ……ぶぐっ…」
これ以上無理!というところまで顔を仰け反らせ、何とか避けようとするが、回転する円盤に逆らうことなど所詮な無駄な努力。たちまち、水面下に沈められていく。
窒息寸前の苦しみに、半狂乱にわが身をうねり狂わせる女奇術師。
ギリギリとその身を締め苛む拘束具の軋みがこちらまで聞こえてきそうである。
もちろん、手枷、足枷が緩む気配は微塵もなく、彼女を懊悩の境地に堕としこんだままにしている。
遂には猿轡越しに口や鼻から気泡がゴボゴボと苦しげに漏れ出し始めた。
肺が空気を求め、焼け付くように痛み、自制が利かない状態にまで追い詰められているのだろうか?
「極限の酸欠状態…私は何度その辛酸を舐めたことか…」
眼前で身悶える女性を見ていると、再び過去の記憶が蘭子の眼前に蘇ってくる。
「もっとも私の場合、この状態から真の教練が始まったのだけど…」
逆さ吊りになった彼女の頭は、ようやく最深部を過ぎたところに位置している。
息継ぎをしようにも、水面までは分厚い水の壁が邪魔をしている。
しかもこれだけ水槽に水が溜まった状態だと、例え水上に顔を出せたとしても、呼吸可能な時間は10秒少ししか許されないだろう。
その時間は確実に減りつづけ、水中にて息を堪えなければならない時間は着実に増えつづける。
それは彼女の希望を少しずつ、じっくりと蝕み、絶望に置き換えていく作業でしかなかった。
柔らかな脚線美を誇った美脚を、足枷と外そうとして、筋肉の筋が浮き出るくらいにつっぱらせているのが痛々しい。
薄い水着越しにも鎖骨がくっきり張り出ているのが見て取れ、二の腕から手首にかけて形振り構わず手枷解除に取り組んでいるようだが、その全てが徒労に終っている。
しかし力任せに解除しようとしても、絶対外れないようになっているはずだ…冷静に活路を見出さなければ…もっとも今の彼女にできればの話だが…
「ここまで、かしらね」
単調かつ無益な動きを繰り返している女奇術師を前に、自然と言葉が出る。
蘭子の突き放したような冷たい物言いに驚いたのか岡本が彼女のほうに顔を向ける。
「あら? 驚いた?」
「いえ…でも、蘭子様ならそうおっしゃるのも当然のことかと。昔とった杵柄という諺もございますので」
「昔、ね」
そう、昔…今から4年ほど前になるだろうか。
蘭子は国の特務機関に籍を置いていた”名も無い”エージェントだった。
”名も無い”と言っても無能という意味ではもちろんない。
表向きは存在するはずもない機関である。国家試験を受けるわけでもなければ、公務員資格がもらえるわけでもない。そこで、名を名乗ることなど許されないからだ。
だが、選りすぐりの人材がどことなく集められ、国益のためにその身を投げ出すのである。無機質なコードネームを与えられて…
もっとも蘭子が国益のためになんかやろうと思ったことなど一度もない。あろうはずが無い。
全ては自分自身が正しいと思ったことをやっただけ。奉仕という精神には著しく欠ける蘭子の性格上、それは当然のことと言えた。
もちろん他国への潜入といったことも任務に含まれることはある。そのための訓練も一通りは受けらされた。
だが、それは決して通り一辺倒のものではない。全てが深く、熾烈を極めたのだ。
ホンの少しのスキルが我が身を守ることになる…この世界では当たり前の理屈だ。
その中に、万が一敵に捕縛された場合に用いる脱出術というものが含まれていた。
縄抜けに始まり、身体を締め上げる拘束具の解除…訓練といえども、時には制限時間が設けられ、時間内にエスケープできなかれば生命に危険が及ぶといった額に汗するような過酷な特訓を繰り返され、この身体に叩き込まれてきたのだ。
天賦の才かどうか知らないが、蘭子はメキメキと頭角を現し、数々の任務を遂行した。
海外のみならず、時には国内の犯罪組織の殲滅まで…ありとあらゆることを。
多忙な日々を送る蘭子に転機が訪れたのは3年前のこと。
御厨(みくりや)雄一郎との出会いだった。
忽ち恋に落ちた蘭子はそれから半年後には結婚し、この世界からきっぱり身を引いたのであった。
竹を割ったようなところが、いかにも蘭子らしい。
しかし幸せは長くは続かなかった。雄一郎が不慮の事故で半年前に早世してしまったのだ。
こればかりは、いかに蘭子とはいえ、どうすることもできなかった。
その後には、代々資産家の家系だった雄一郎の膨大な遺産が残った。
が、そんなものにどれほどの価値があるというのだ!?
こんなお金を残すくらいだったら、10分でもいいから戻って来なさいよ!と雄一郎の写真に向い、何度言葉を投げかけただろうか。
そういう辛い時期をなんとか乗り越え、今は広大な屋敷に、岡本を始めとする使用人と共に住んでいる。
そんな折だった。PECから招待状が届いたのは… なんでも雄一郎の祖父の代から会員になっているらしいのだが…
内にこもっていても滅入るだけ、それなら、と初めてやってきた蘭子であった。
そんなことを考えている間も、女奇術師の絶望的な苦闘は続いていた。
彼女を固定している円盤は、ほとんど大半が水中に埋まっている。
これでは、頭が頂点をかすめた辺りの、わずか3,4秒くらいしか息継ぎのチャンスはないだろう。
それも呼吸を妨げる、水分をたっぷり含んだ布越しに、だ。
『まもなく一服の時間ですが、全く拘束を解く気配すらありません…なんという悠然たる態度! その姿はまさに水中のマーメイドと呼ぶにふさわしい!』
青色吐息といった風の彼女の前で、そんな歯の浮くような台詞を平然と言ってのける進行役。
彼女がいくら窒息の苦しみにもみ抜かれようと、死の恐怖に打ち震えようと、泣き言を言おうが知ったことではないのだ。
逆にそんなどうし様もなく哀れで、無残な姿が見たいのだから…ここの連中は。
例え「成功」にBITした会員ですら、端金をいくらか失うよりも、これほどの美女が絶望に打ちひしがれ悶え狂う様を見たいに決まっているのだから。
「ひぁ…ゴボゴボ…た、助けて…お願い…!!」
『おおっと…水面に顎を突き出すように顔を出して…でも…嗚呼…はい、終了! また水の中へ…ズブズブ… しかし無限の肺活量を誇る彼女のことです。全く苦にすることなどなく、エスケープに集中してくれることでしょう』
ほとんど息継ぎらしい息継ぎも出来ず暗黒の水中に没した女奇術師。
それから1分近くも、水中で苦悶の喘ぎを泡と共に吐き出していた様子は、なんとも痛々しかった。
しかし手負いの動物のように、もがいていた彼女にも、唐突にその時は訪れた。
体中の関節がねじ切れんばかりに暴れぬいていた彼女が、一際大きな気泡を吐き出したかと思うと、ぐったりと力を抜いたように全身の筋肉を弛緩させたのであった。
コーヒーをすすって、ふと顔を挙げた瞬間に、彼女と眼が合ったような気がした。
深い悲しみと、苦悩に包まれた瞳。
ゾクリ…
それを見たとき、体の芯の奥深くで、何かが蠢くのを感じた。
暗闇の欲望…
震える手を気づかれないように、カップをテーブルの上に置く。
「ふぅ………」
ゆっくり気を静めるように深く息を吐き出す。
頬が熱を帯びたように紅潮しているのが分かる。
ステージ上の奇術師は、水中で静かに揺らめいている。
円盤は全て水中に沈み、顔を出すことはできない。
そんな中を彼女を縛りつけたまま、円盤だけが無機質に回転を繰り返している。
やがてそのまま5分が経過した。
『おや…もしかしてエスケープに失敗したのでしょうか? あれだけ自身満々でしたのに…今日は体調が悪かったんですかねぇ。 もっともこのままだと明日再チャレンジすることなんか出来ませんけどね…クク』
やがて、規定の時間が過ぎたことにより、よりゲームの終了が告げられる。
結果は「失敗」。それにより払戻金が清算される。
しかしそんな金額よりも、ざわめく会場内で語られているのは、先ほど見た美女の逝き様に関するものばかりだ。
「全く、どいつもこいつも…ろくな奴は居ないわね…」
「蘭子様、失敗した先ほどの奇術師はどうなるのでしょうか? 別室に運ばれ蘇生されるのでしょうか?」
「いえ、ゲームの説明を受けた限りでは、そういうことは無いみたいね。蘇生されると思えば手を抜く挑戦者もいるから」
「ほう…では、彼女の”身体”はこれからどうなるのでしょうか?」
「さあね…そういう冷たい体の女性が好きってディープな金持ちもいるらしいから、そんなところへ回されるのがオチじゃないかしら。ホント反吐が出そうだけど」
「もしそうだとすれば、救いようがありませんな」
しかし、蘭子のとっては、岡本の言葉以上に気になることがあった。
あの奇術師の断末魔の足掻きを見ながら、感じた感覚…あれは確か…この気だるいような微熱にうなされるような感覚は…いいや、そんなはずはないわ!
蘭子がエージェントから身を引いたのも、結婚以外にもうひとつ理由があったのだが…
そんな戸惑いを岡本に見透かされてはいないか、チラリと従者を見る。
彼はそんな蘭子の思いなど全く無関心というばかりに、無表情だ。
そんな様子に安心して、さてと席を立とうとしたところに、のっそりと巨体を引きずるように一人の男が現れる。
自らの肉厚で押しつぶされたような顔は醜悪そのものである。
「かねがね、亡くなられた雄一郎様には、お世話になっておりましたので、ご招待させていただきましたが…いかがでした? ゲームは楽しんでいただけましたかな?…御厨蘭子様」
「まあまあってとこ、ね」
確かこの男は主催者のうちの一人…会場に入るときに挨拶をした気がするが、名前はすっかり忘れてしまった。PECには、主催者として運営を取り仕切る特別会員と、来場し、ビットするだけの一般会員に分かれている。この豚のような男は前者だ。
その男が未だ御厨姓を名乗る蘭子に声をかけてきた。
のっぺりとした表情で、何を考えているか分からない奴ってどうも苦手ね…
「ほう…やはりあの程度の脱出劇では物足りませんでしたか? その昔、特務機関に御勤めになっていた蘭子様には」
「いえ、そんなことは言ってないけど…」
太っちょの男の眼が怪しく輝く。
どこで調べたのよ、全く…それに、なんなのよ、コイツは!?
「いえいえ、ご謙遜を。あれくらいの拘束からの脱出くらい、クラスAAAランクのエージェントの手に掛かれば、赤子の手を捻るようなモノ」
持って回ったような言い方をして…一体何が言いたいのよ!
「幸い仕掛けもそのまま残っております。どうです?…特別に飛び入り参加ということで、蘭子様、これからチャレンジいたしませんか?」
「はぁ?」
な、何を言っているの? 私にこの脱出劇を試せですって!?
「先ほどの挑戦者は失敗に終わりましたが…ここで蘭子様が華麗に脱出に成功すれば、いいお手本になると思いますし、意気消沈している会場の皆様も拍手喝采で気分よくご帰宅いただけると思いますが…」
「気分良く、ね…」
抜け抜けとよく言うわね…この会場にいる人間の誰が、沈痛な思いをしているっていうのよ! 最高の見世物が見れたと、随喜の涙を流しているような連中ばかりじゅない!
そんな蘭子の思いにもお構いなく、豚のような顔の男は、そこで一旦言葉を切り、そしてぐっと顔を近づけるようにしてしゃべり続ける。
「まさか…自信が無いってことは、ないですよね?」
「冗談よしてよ! 私を誰だと思っているのよ!」
「では、問題ありませんよね?」
「私がどうしてこれに挑戦しなければならない理由はないのよ? お金に困っているわけでもないし…そんなの当然辞退するわ」
「ほう…逆に挑戦できない理由がお有りなんでしょうか…例えば、絶望的な脱出劇に臨むと、その…感じてしまうとか…」
口元にイヤな笑いを浮かべながら、男が射抜くような視線を投げつけてくる。
ウッ…見抜かれているの!?
確かに先ほどのゲーム中も、無謀とも言えるエスケープに苦しんでいる女性を見ているだけで、怪しい火照りが身体の奥から湧き上がってきたのは事実。
機関の教練中、追い詰められれば追い詰められるほど、腹の下辺りがキュンっとわなないたものだけど…
しかしそれは…そんな感情は決して人に知られたらいけない部分。
「ふざけないで! 一体何考えているのよ! そんなことあるわけないじゃない!」
「では、挑戦していただけるんですね? 特に障害となるものがなければ、拒む必要もないわけですし…」
「やるわ、やってやるわよ! フン!」
「お、奥様…」
興奮気味の蘭子のやり取りに、心配そうな眼をした岡本が割って入ってくる
「いいのよ、岡本。下がってなさい。ここまで言われたら私も意地ってものがあるから。軽く脱出して、戻ってきてあげるから待っていなさい」
「ふふ…それでこそ蘭子様です。 ゲームのルールは既にご存知かと思いますが、規定に従い行わさせていただきます。いかに飛び込み参加とはいえ、ゲームはゲームですから…」
「一旦始めたら途中リタイアは認められず、自分の命を賭けて全力で脱出しろってことね。いいわよ、それで」
「結構です。では、ステージのほうへ…」
まんまと挑発に成功したと満面の薄笑いを浮かべながら、男が進行役に近寄り、なにやら言葉を交わす。
それを聞いた進行役は声高にアナウンスをする。
『ええ、会場内の皆様にうれしいお知らせです。先ほどの脱出にチャレンジするという新たな挑戦者が現れました。その名は御厨蘭子様です!』
帰り支度をしていた人の動きが、その一言で止まる。
一瞬の驚きが、やがて先ほどまで会場内を埋め尽くしていたような嫌な熱気に変わって行く…
こんな無謀なゲームに飛び入りで参加する人間が会場内に居たという驚きと、また先ほど以上の淫劇が見れるかもしれないという怪しい期待が錯綜する。
そんな場内を尻目に、蘭子は勢いよくステージ横の控え室に入っていった。
|