序章その1:暗闇の始まり
| その男は薄暗い森の中をさ迷い歩いていた。 うっそうと生い茂る樹木は完全に日の光を遮断し、今が昼間だとは全く感じさせない。 ジットリと辺りを包む湿気と、どんよりヨドんだ空気は息苦しくさえあった。 その中をひたすら歩みを進めていく男。 長年積み重なった真っ黒な腐葉土は足音すら吸い込むようで、踏みしめてもただ鈍い音を上げるだけである。 不気味なほどの静寂。 森の遠くのほうからは、得体の知れない獣の遠吠えが聞こえてくる。 いったい何の鳴き声だろうか? まるで記憶に無い。 すり抜け様に樹木の影から幽鬼のたぐいでも踊りかかってきてもおかしくない不安感。 そして、気持ち悪さ。 そう、ここは「空かずの森」。 近隣の村人は決して近づくことのない場所。 森の奥には魔が居付いているとの噂が広まってから、入ることを禁じられた場所。 しかし男は構わず足早に歩を進めていく。 真っ直ぐに前を見据えた男の表情からは、普通ではない何か切迫したものが感じられた。 一人でこんなところに入りこむとは、余程差し迫った事情でもあるのか? 男の額には粒上のネットリとした汗が浮かび上がっている。 よく見るとそこには、まだ新しい刀傷らしき傷跡が生々しく付いていた。 かろうじて傷口が塞がっている程度に過ぎぬ。 いつ再びパックリ裂けて鮮血がしたたり落ちるかもしれない。 しかし男はそんなことには一向に構っている様子ではない。 まるで何かに取り付かれたかのようだ。 ふと、歩みを緩め、今来た道を振り返る。目の前の道というより遥か彼方を見通すような遠い視線。 「そう。俺は、国王を殺した反逆者だ。」 口元を歪めて、男は確かにそうつぶやいた。 これよりさかのぼること5日前。 漆黒の森をさ迷う薄汚い男は、このときまだ聖王国パルマの国防大臣という地位にあった。 聖王国パルマ。 マー大陸に君臨する仁愛と正義の王国である。 この大陸も今から1000年以上前は魔族が人を支配する地獄の釜の底のような悲惨な世界であった。 魔族はその強靭な肉体と、禁呪と呼ばれる独自の精神攻撃によって、はむかう人間はことごとく処分していた。 中でも淫魔と呼ばれる高級魔族は、女体をトロけさす淫呪を用いることができた。それで気に入った女を快楽を求めることしか考えない性奴におとしめ、自らの子をはらませては魔族の数を増やしていくのだった。 その暗黒の支配に業を煮やした一部の人々が遂に武装蜂起した。 その頃には人間の中にも魔族に対する憎しみからか、聖魔法の使い手が現れていたのだ。 自然界に存在する4つのエレメントの力を自在に引き出す聖魔法。 これにより禁呪ともほぼ互角に戦うことが出来るようになった。 物理的な弱さは剣や鎧で身を固めることで対抗できた。 怒涛の大群衆は、建国の父オスカーT世のもとに集結し、魔族との間で熾烈極まりない戦闘を続けたのだが、やがては数に勝る人間側が勝利し、魔族は死滅したのだった。 歓喜の中で、オスカーT世は人々の薦めのまま即位し、聖王国パルマを建国した。パルマ建国に呼応するかのように各地でも次々と民衆が蜂起し、その結果魔族が敗れ去っていった。 世界は再び人々の手に。 安息の時代の到来である。 そのときから剣と魔法が力の二つの象徴となった。 平和であることを求めるパルマは、その力を国の秩序維持と民の暮らしの安定に充てたため、国内は繁栄を極め、国土はますます美しく豊かになっていった。 現在のパルマは、若き王オスカー37世が治めている。 まだ28歳の王は、甘いマスクながら強い精神力と博学で知られ、よき為政者として民の人望が極めて厚かった。国のカリスマ的支柱だといっていい。 それにもまして人気が高かったのは王妃ランシングである。 天性の気品あふれる美しさ。 23才という年齢はみずみずしいながら成熟した大人の色香も漂わせてくる微妙なバランスの年頃である。 凛とした美貌に加えて、そこからにじみ出る知性からも国民に圧倒的な支持を受けていた。 更にその2人の政道を支える正しき力の根幹をなす存在が、聖騎士レオナと大魔導師エリスだった。 忠実な僕にして隣国にも轟くレオナの勇名は、女であることは知っていてもその名を聞くだけで他国の騎士を充分に震え上がらせるのであった。 聖剣ザッツ・ハルマーを操る電光石火の剣技は、見るもの誰をもうならせる。 鍛え上げられた肉体ながら、充分女性的に発達している肢体はパーフェクトボディと言って間違いなく「戦う女神」の名を欲しいままにしているのだった。 一方大魔導師エリスは柔らかで細身の体つきをしていたが、聖魔力は甚大であり、一旦その力が解放されれば、屈強な戦士が束になってかかろうとも到底勝ち目は無かった。 この美しくやさしい王と王妃、それを守る2人の力の象徴がいれば、パルマは磐石のものであることを疑うものは居なかった。 そう、そのときまでは、誰も... 国防大臣として王宮に入っていたザベロも国王と王妃に心酔していたのは間違い無い。 国の運営に反感を持つことなど、微塵も思ってなかった。 しかし正確に言えば、微妙に異なる表現になるかもしれない。 彼が心底好きだったのは、王妃の美貌だったからだ。 その憂いを帯びた碧眼。 すっきり通った鼻筋。 魅惑的な唇。 形のいい耳。 たとえ衣服を着ていても隠しようが無い身体のライン。 胸のふくらみ。 そして.... 彼女の全てがあまりにもすばらしかった。 理想的という言葉自体が陳腐に聞こえるくらいに。 彼女のことを考えると日増しに胸が痛むのだった。 ふと、国王とランシング王妃が床を共にしている姿を想像すると、肺腑がえぐりとられそうになるのだ。 遠くから見つめるだけでもつらい。 ただ思いつづけるのもつらい。 それならいっそ自分の物に...そういう暗黒な考えが浮かんでは消えるのをザベロは苦笑するのだった。 そんなこと出来るはず無いじゃないか。 しかし自分でも日に日に抑えが利かなくなってきていた。 確かに彼には人には言えない性癖があった。 それは、美しいものを見ると無残に踏みにじりたくなるのだ。 プライドが高いものほど、地位が高ければ高いほど「高貴」という仮面を剥ぎ取り、己の無力さを思い知らせた挙句に屈伏させたくなるのだ。 ザベロは大臣という地位を利用し、数多くの女を陵辱してきた。 大抵の女は、いかに評判の街娘だろうが、お高くとまった女官であっても縛り付けて陰湿に責め嬲れば最後は弱音を吐き、彼に泣いて許しを請うのだった。 女なんて所詮こんなものか。 こんな下等な生き物か。 失望と共に、この次こそは違うかもしれないという微かな希望にすがり付いてしまう。 そして更なる陵辱に手を染めてしまう。 当然の挫折。 その繰り返しだった。 もっと、もっと過激にという暗黒の要求が次第に自分の中で膨れ上がるのを感じる。 その矛先がランシング王妃へと向けられたのはむしろ当然の結果だったかもしれない。 大陸一といわれる美貌。 たぐいまれなる豊かな肉体。 それにこの国で最も気高い精神。 彼女は、あの女どもとは違うかもしれない。 いや、きっとそうだ。 そうに違いない。 ランシングなら肉体に加えられる、いかなる卑劣な責めに対してもその気高い精神で耐え切ることだろう。 簡単に陥落したりはしないだろう。 しかし、しかしだ。 その王妃を俺はとことんおとしめてみたい。 あらゆる手段を講じて肉体と精神を限界まで追い詰めていき、屈伏させる。 その瞬間こそ俺が求めていた邪念が満たされるかもしれない。 最愛の王妃を地の底に引きずり込んだ瞬間に。 ランシング...俺は...俺は.. そう考え始めると、ザベロは夜もろくに眠れず、身体はみるみる衰弱していった。頬の肉はこそげ落ち、目ばかりがギョロギョロ異様に光るのであった。 あまりの変貌に、心配した王妃に声を掛けられることもあった。 「どうしたのですか。ザベロ。具合がよくないのでしたら宮廷医にでも診てもらいなさい。」 「申し訳ありません、王妃。心配はご無用です。」 ランシングの物憂げな表情を見ているだけで、ザベロの脳髄はトロけだすようだ。 お前さえ手に入れば... 言いたいのをグッと我慢してその場を辞した。 このままでは俺はきっとダメになる。 既に廃人同然じゃないか。 鏡を見ながらザベロはつぶやく。 思い焦がれたまま死ぬのなら、いっそ我が物に... ランシングが、おれの物に...? 次第に彼の理性の歯車は、狂い始めていくのだった。 国王と亡き者にし、この国をのっとる。 大胆極まりない謀反を企てるまでに、満たされぬ想いは暴走していった。 |