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. 2 明石標準時で深夜2時。オペレーションのスタートだった。照明の落とされている廊下を、玲子は音もなく歩いていた。 摩耶が言っていたように、研究所内には一切モニターがない。出入りは難しいが、そのなかで何をやろうと見つからないのである。もちろん、シークレットのかかっている部屋はたくさんあるが、玲子は全ての解除コードを教えられていた。 残る問題は、2つ。 @:どうやってここから出るか。 A:警備員をどうするか。 前者のほうは、外にいる組織の仕事である。 事前の打ち合わせでは――後2時間ほどで、研究所に環境保護団体のテロリストが侵入してくることになっている。その混乱に乗じて逃げ出す、という手筈だ。 後者のほうは、中にいる自分の仕事だった。 警備員たちの武装はスタンガンと警棒、そしてトランシーバー。この中で一番やっかいなのは――トランシーバーだ。仲間を呼ばれるのが、何よりも困るのである。 戦術としては、まずトランシーバーを奪い取る。続いて警備員をボコボコにし、相手の自由を奪った後、トランシーバーにACをつないで偽作動させる。これがセオリーだろう……。 (……準備万端、オール=グリーンね) 今の玲子は、昼間に想像した通りの黒レオタード姿だった。下品にたとえれば、「エロマンガに出てくるくノ一」みたいな格好だったのである。 身体のラインをピッチリ出したその容姿は、誰がどう見てもエロティックだった……警備員という職業者の、そのほとんどが男性であることから、「色仕掛け」的な部分も計算してあるのだ。 手にしている武器は、清掃室から取ってきたモップの柄。これがなかなか、いや、全くバカにできない武器であった――玲子は杖術のプロなのである。 意外と見過ごされることだが、人間にとって最初の武器は「棒」である。そして棒は、日常生活の至るところに氾濫しているものであった。 玲子のような杖術家にしてみれば、傘もホウキも、充分すぎる武器なのである。彼女が何も携帯せずに敵地へ乗り込めるのは、得物をそこで調達できると、そう確信しているからであった。どんな場所でも、手に握れるくらいの棒はある……。 つまり、玲子は完全武装の状態にあったのだ。 しばらく前進して右に折れる。その先に、玲子は人の気配を感じていた。 のぞいてみる――中年の、やや太った警備員が一人。警棒を両手で遊ばせながら、ブラブラと歩いてくる。 玲子は息を殺しつつ、その場で静止した。中段の構えのまま、敵が有効レンジに入ってくるのを待つ。 コツ…コツ…コツ…… 安全靴特有の、固い靴音が近づいてくる。警備員の靴先が見えたその瞬間、 玲子は「本手打[ほんてうち]」を繰り出していた。 モップの先が寸分違わず、警備員の水月[すいげつ]を突く。 「…………!」 警備員は声を上げる間もなく気絶した。 玲子はまず、その手からトランシーバーを奪い、ACを張り付けて警備員の発言をリフレインさせる。続いて彼の両手両足を縛り、近くの部屋に投げ込んだ。この間、わずか2分。見事な手並みであった。 その後、さらに2名の警備員を打ち倒す。行動に移ってから24分後に、女諜報員は目的地へたどり着いていた。 〈曲形動物科資料室〉。 防衛庁から教えられていたコードを打ち込み、ロックを外す。素早く潜りこんで、彼女は内側からカギを閉め直した。 くるりと振り返り、室内を見回す。そこには―― 何もなかった。完全に空っぽの部屋だ。 (…………どういうこと?) しばし呆然としていた玲子の耳に、揶揄に染まった声が届けられてきた。 『いらっしゃい、唯さん……それとも、「玲子さん」、のほうが良いかしら?』 スピーカー越しの女声。 それはまぎれもなく、摩耶の声だった。 * 『さすが、防衛庁筋ではベスト=テンに入る女性ストリンガーだわ。今は、えーと……25分か。こんな短時間でココまで来ちゃうとはねえ……』 どういうコトだ?……表向きは無表情を装っていたが、玲子の内心は――激しく動揺していた。 相手は“本名を口にしてきた”……というコトは、全てが露見していると見做しておいた方が良い。いったい、ドコで情報が漏れたんだ? いや、それよりも……これからどうすれば良い? (とりあえず、今回のミッションはリセットね……) 任務に失敗した――そんなときに彼女ら、ストリンガーたちが採るべき選択肢は、1つしかない。 逃げる。 捕虜になるのは、個人的にも戦略的にも、もっとも避けなければならぬ事態だ。 なぜか? 前者は――別に言うまでもないだろう(まして、玲子は女なのだ)。後者は――人類の科学力は既に、脳があって人権がなければ、たいていの情報を「取り出す」ことができるという、そういうレベルに達している。 とはいうものの、全てバレているとなると……逃げるのも難しいかもしれない。それに、場所が場所だけに、ただ逃げれば良い、というワケでもないハズだ。後日のコトを考えれば、色々とややこしい……。 『……あ、そうそう。逃げようとしたってダメよ。この部屋には、外からカギをかけてあるから』 「…………」 試す必要もなかった。恐らく事実だろう。 「……で、私をどうしようというのかしら?」 仕方がない。玲子はあっさりと割り切った。ココは別動隊の動きを待つしかない。この様子だと……彼らが突入してきてもムダ足に終わる、という可能性もあるが、一番妥当な選択のハズだ。 『あらあら……身体検査のときのお嬢さんとは、まるで別人ね。よく化けるものだわ』 「お褒めに預かって光栄ですわ」 玲子がそう答えた瞬間、電灯が灯った。 照らし出された室内は、ざっと20畳ほどだろうか。かなりのハイセーリングである。その高い天井に無影灯が吊るされていた。夕日よりもちょっと暗め、という程度の光量。 『……うふふふ。やっぱり、あのレオタードを着ているのね……テクタノイド型高密繊維製なんですって? ボブ=ラブレスでも斬れないのに伸縮自在、ってのは凄いわねえ……』 摩耶の言葉を聞き流しつつ、玲子は周囲に視線を走らせた。ドコから覗いている? ドコにスピーカーがある? ドコに集音マイクがある? 『……予想通り、男どもの情操には良くない格好ねえ……そういう点も考慮しているらしいけど……製作者の趣味が入ってんじゃない? 胸とお尻と、それから股間の土手とが、ロコツすぎるほどムッチリして見えるわよ。格闘ゲームの乳揺れキャラみたい』 ケタケタ、という笑いが続いた。 「で、揺れ揺れな私をどうしよう、って言うのかしら?」 『……うふふふ。協力して欲しいのよ』 腹にコールタールでも詰まってそうな口調。 「何を?」 『飼育を』 短い問いに、短い答え。 「何の?」 『……〈ペド〉の、よ』 〈ペド〉? あの触手怪獣のコトか……玲子は頭の片隅で考えた。飼育と言っても、充分に育っていたように思えるのだが……。 『うふふふ……昼間あなたが見たのは、〈ペド〉そのものじゃないわ。アレはトロコフォア型の幼生形態よ』 あれが幼生? では……成生はどんなヤツなのだ? 『話したわよね、「コイツは付着生物だ」って……あの幼生は基盤にイソギンチャクを置いといたんだけど……実はね、別の生物を与えてみたコトがあるのよ。イソギンチャクなんかよりもずっと、ず〜っと高等な生き物を、ね』 うふふふ。ブリザードのような冷たい笑い。 「ま、まさか……」 『そう、玲子さんが考えている通り。 ……ホ・モ・サ・ピ・エ・ン・ス……人間よ。日本人・28歳・疾病歴無し、っていう男性を与えてみたの。結果は大成功だったわ!』 ば、バカな……玲子は思わず、頭を振っていた。曲形動物のような下等生物と人間とを融合させた、だと? 進化の樹系図に楯突いた、まさに蛮行そのものではないか! それが功したのは、〈火星アミノ酸〉という「賢者の石」があったからだろうが……。 『ところがね……問題がひとつ、出てきちゃったのよ。〈ペド〉のヤツ、うま〜く成長してくれたんだケド……その過程でどういうワケか、大脳辺縁系が異常に肥大化しちゃってね……まあ、要は色情狂[ニンフォマニア]になっちゃったワケ。放っておくと、ストレスがたまってしまうらしくってね……』 輪郭が見えてきた。事件の背景が、ハッキリと浮かび上がってきた……。 『……それで、女性の皆様の「献身」が必要になっちゃったワケよ。もちろん、〈ペド〉とヤッても妊娠なんてあり得ないし、それに手荒な真似はしないわ……』 これから先に何が待っているか――それを、玲子は明確に悟った。手にした杖をギュッと握りしめる。 「つまり、化け物の伽をしろって言うのね?」 『……ま、古典的に言うとそうね』 現代的に言おうと同じである。 「お断りだわッ!」 杖を振り回して、右逆手に構える。闘気を帯びた腰切棒は、今や危険な凶器と化していた。 『……でしょうね。皆、始めはそう言ってたわ……』 うふふふ。底流に蔑みを隠し持った笑い。 『……でもすぐ、自発的に協力してくれるようになった……仕事を休んだり、辞めたりしてまで、ね……』 ガコン。 丑寅の方角にある壁が突然、左右に割れた。その裂け目の奥の暗闇から、何かが室内へ向かってくる。ペタン・びたん・ベタン・ぴたん。トリモチの上を歩いているような音。 (あの化け物……触手の化け物と人間の融合体……) 握りを絞りながら、玲子は杖の切っ先を割れ目に向けた。 来る。 出て来る。 化け物が…… 『……さあ、〈ペド〉……「おいしいお肉」ですよ』 * 「…………!」 思わず上げそうになった叫び声を、玲子は辛うじて飲み込んだ。胸中から迫り上がってくる嫌悪感を無視して、「敵」をじっと凝視する。 己の採るべき最適な戦術を判断するため、だった――敵はどういう武装をしている? 想定される攻撃レンジ(リーチなど)は? どういう動き方をする? しかし。 そのような下調べは何の意味も成さない……かもしれなかった。 (……なんて……グロテスクな……) 何故なら、姿を顕した相手は「人」では無く、更にまた、一般的な「人型」ですらも無かったのだから。「宇宙をまたいだキメラ」こと〈ペド〉が一体、どんな異形をしているのかというと、 ――エル=グレコの描いた悪魔 そう言えば良いだろうか? 頭部は、あった。摩耶が「大脳辺縁系」と言っていたことから推すに、そこには脳もあるのだろう。 しかし、その顔は……ゾンビそのものだった。 殆どの髪が抜け落ち、露になった禿頭がヌメ光っている。眼窩がくぼみ、鼻梁がひしゃげ、そして口唇が開き切っていた。獲物を丸呑みしている蛇よろしく開いた、歯無しの体腔からは、小ぶりの触手たちが飛び出している。粘液に塗れた肉の蔦どもは、そこで不規則にのたうち回っていた……。 続いて、その身体。ヤツのトルソは、異様なほど細長かった。まるで上下に引き伸ばされたかのよう。そんな変形のあまり、肉や皮膚が全体を覆うのに追いつかず、胴体のあちこちに切れ目が覗いている。その裂け目を繋いでいるのは、腐肉色した綱――走根であった。 (……骨と骨の間に、アレが潜りこんでいるのね……) つまり、全ての骨が数珠繋ぎにされていると、そう思えば良いのだろう。そんな特殊構造のせいか、ヤツの手足もまた、異様に長かった。リーチだったら2メートル、ストライドだったら3メートル近くはありそうだ。 そして更に、観察の視線を降ろしていくと―― 「寄生の証し」と対面する。股間からそそり出している、〈触手ハンド〉たち。サイズに差のある肉の捕食具たちは、そこでイソギンチャクのように蝟集し、濡れた擦過音を奏でていた。 『うふふふ……どうかしら、あたしの可愛い〈ペド〉は?』 それに重なる、生みの親の浮かれた声。 『ちょっと肌色が悪い……率直に言うと紫じみているんだけど、これは……まあ、しょうがないのよ。後、あちこちイボイボしている上に、ヘンな粘液で濡れているけど……どうもリンパ系が適合できていないみたいなのよね。これらは痘痕とそこから吹き出た体液、うん、そんなもんだと思ってくれればいいわ』 摩耶は、聞いてもいないことを伝えてくる。 『確かにちょっと気味悪いケド……うふふふ、良いわよぉ、〈ペド〉の愛撫は』 冗談じゃない。玲子は胸のなかで呟いた。こんな化け物にカラダを弄ばれるなんて……考えただけでも総気立つ。 「あら、あなたも下等生物とヤって悦んでいるワケ?」 おぞけを内側に押し込みつつ揶揄を投げかけると、 『……〈ペド〉は下等なんかじゃないわよ』 強い語調の反論が返ってきた。 『だって、とってもお利口さんなんだから。うふふふ……〈ペド〉はね、人間のこと――特に女のこと――を、色々と知っているのよ……玲子さんにはそれを、“身をもって”学んで戴く必要があるかしら』 くるか……玲子は腰を落として、構えを取る。 『〈ペド〉! 食べてもいいわよ!』 ヤツのひょろ長い足が大きくたわむと、走根が屈曲したのだろう、「ペチャン・ピチョン」と、イヤな音が響き渡った。次の瞬間、化け物は跳躍して、 (……速いッ!) 雷の動きで、One-sided Range――自分からは攻撃できるが、相手=玲子からは攻撃できない程の距離――にまで飛び上がっていた。そして、彼女の頭上から触手を撃ち落としてくる。 「……くッ」 一撃目を払う。髪を振り乱しつつ、力を込めて杖を繰った。ビチャン、という粘質の打音に続いて、肩へ負荷がかけられる。ぐっと圧された。想像以上に強烈なアタック。手首が返されそうになり、渾身の力を込めて抗う。 続いて、第二撃。体勢を整える間が無かったため、躱して距離を取った。床とブーツが擦れて、耳障りな悲鳴を上げる。 そんな音を奏でてしまうということ――それはつまり、「余裕が失せた」ということを意味していた。 すかさず、襲われる。ネトネトの化け物は、着地すると同時に、触手を2匹、弾丸のように飛ばしてきた。 (……平面的な攻撃だったら、なんとか防げるっ) 集中。杖先を「右本手」から右斜めに振り上げて、攻撃を受け止める。相手の力に抗うことなく、半円を描くようにして左斜め前方へ巻き落とした。これを繰り返して、ヤツの魔手を両方とも弾き飛ばす。 斜め捌きで移動すると、「右引落」に構えて待機。激しい動きで揺れていた胸の膨らみも、ようやく定位置に収まった。深呼吸をひとつ。 と、〈ペド〉も動きを止めた――ヤツにとっては、どうやら予想外の反撃だったらしい。いつも通りに行かないことに、少なからぬ驚きを感じているのだろう。 『へえ、凄いわねえ……「ゼロの女」か「チャーリーさんの天使」みたいだわ』 「お褒めに預かって光栄ですわ」 会話の領域では玲子と摩耶とが舌戦を交わし、視線の領域では玲子と〈ペド〉とが睨み合う。 数分後、触手怪獣が動いた。床の上に塗りたくられる粘液。ピタ・ペチャと音を立てながら、獲物に向かって突進する。鼻をつく酸い匂いも引き連れつつ、だ。 「体当たり」という〈ペド〉の改良策を前にして、女ストリンガーは密かに舌打ちした。 (……イヤな攻撃を採ってきたわね) 単なる体当たり――開き直った物量作戦――というのは、乱暴そうに見えてその実、もっとも正攻法な攻撃であった。ヴァーリ=トゥードが結局、「タックルの掛け合い」になることを思えば良いだろう。〈ペド〉と自分の体格差、彼我の相対重量差を考えたら、このような戦術には手のうちようがない。 仕方なく避けつつ、玲子もまた、打開策を考えた。 (一撃で殺[や]れそうな場所を狙うしかないわね……) やはり頭を、もっと詳しく言うと脳を狙うしかない。となると、確実な攻めとしては――目に突きを入れて、視床下部から頭蓋を貫く(彼女の流派では「目刺」と呼んでいる)のが、一番妥当かしら……。 『うふふふ……反撃を考えても、ムダよ』 見透かしたような摩耶の笑い。 うるさいわね、と思ったが……その通りだった。計算する時間は、あっと言う間に失われた。 化け物は突進が避けられたと見るや、いきなり倒れ込んで手をつき、それを軸として、玲子と正対するよう“回転したのである”。筋肉が限界まで引っ張られたときの、ギュッという奇音。ヤツは間髪を入れず急転し、突進してくる。 (くッ!……スキーやってんじゃないのよッ!) それまでの「千鳥捌き」を止めて、玲子は単純に走り始めた。「避けた」のではなく、「逃げた」のである。 追い打ちをかけてくるかの如く、触手たちも飛びかかってくる。風切りの音。空気が撹拌される感じ。どよめいているその空気には、鼻に残る異臭があった。イヤに甘ったるいくせに、どういうわけかもっとも嗅いでみたくなる、そんな誘引力のある香だ。 前回のように、しっかりと受け流す事など出来なかった。小手先の対応を余儀なくされる。逃げる・躱す・弾く、それらの繰り返し。情勢は、圧倒的にマズかった。疲労の汗に混じって、焦りの冷や汗が背筋を伝い始める。 そして――破局が訪れた。5度目の突進から逃げる際、彼我の距離を取るのが遅れてしまった。「しまった」と思う間もなく、触手に払い飛ばされる。 身体が宙に浮いたと思ったら、次の思考にはもう、背中の激痛が混じっていた。気づかぬ間に壁際へ追い詰められていたらしく、そこへめりこまんばかりに衝突させられたのである。 背面全体が痺れた。軽い呼吸困難を覚え、コフッと咳を漏らす。胸郭に湧き上がってくる痛みと苦みを押し殺して、再度逃げまわ、 (…………!) 濡れ手ぬぐいを叩き付けられたような音に、鼓膜を揺すられる。間髪いれず、両手首に湿った感触・生ぬるさ・圧迫感を覚えた。その正体が何なのか――確かめる必要は、万に一つもない。 ヌメ光る肉のロープ――「走根」と名付けられた、寄生のための拘束具だ。 『……はい、捕まえた』 縛られた・囚われた、触手に絡み付かれてしまった! グイッと引っ張られ、磔にでも処されているかのごとき格好を取らされる。まだ杖を持っていることが、なんだか一層、敗北感を煽った。 「……くッ!」 『うふふふ。たっぷりと……鳴かせてあげるわね』 |