英雄の誕生

『キン肉マン』と神話の共通点について、生い立ちから考えます。

キン肉マンの誕生

赤塚賞に応募された読み切り作品としての『キン肉マン』は、こういう話でした。

キン肉マンは、ウルトラの父が酔って、優しいがブタに似て醜い水商売の女と浮気して出来た私生児。父親の家に引き取られるが、その醜さとダメさから、兄弟や父の正妻である継母に蔑まれ、虐待される毎日。別れた優しい実母を慕いつつも会うことは叶わない……。
そして、その継母は
「わたしという妻がありながらあなたって人は!」と夫を責め、継子を叱りつけ、マッチ売りをさせるのです。
そして、キン肉マンは自分も立派なウルトラ一族の一員であることを証明しようと、怪獣オカマラスを倒しますが、暴行罪で逮捕されます。
参考 『キン肉マン 特盛

さて。
このどこかで聞いたような話と似たような話は、いくつも思い浮かびますね。

酔って子供を作ったというネタはとても古く、フロイトの「エディプス・コンプレックス」の語源であるギリシャ神話の「オイディプス」もそういう「望まれなかった子」です。

妻との間に産まれた男子は父殺しになると予言されていたため、王は妻との交わりを避けていた。だが、酔って妻と交わって子供が出来てしまったため、父親は牧人にその子を捨てるようにと言って預け、子供は捨てられる。この子がオイディプスである。そして牛飼いに拾われ、他国の王の子として育てられる。その後、父と知らず父を殺し、母と知らず母と結婚する。 
参考 アポロドーロス『ギリシア神話

ただのエロネタかとも思われますが、オイディプス王ぐらい余裕で知ってそうなのが、ゆでたまご先生です。このオイディプスがスフィンクスにかけられた謎が、「朝は四本足。昼は二本足。夕方は三本足の生き物とは?」で、答えは「人間」というものです。この「人間」を「超人」に替えれば、『キン肉マン』で、銀のマスクが黄金のマスクにかけた謎となります。

また、ギリシャ神話において主神であるゼウスは、非常に私生児の多い神です。
有名なヘラクレスもその一人で、彼はゼウスの正妻のヘラに散々虐められます。

人間の王妃がゼウスと通じたとかいう神話もあります。王の立場はありませんが、王子にはいいかもしれません。自分の本当の父親は人間ではなく、神ということになりますから。
父と息子のつながりの根拠が「血」であった頃は、父なる神が私生児を量産する時代でした。

父なる神が人間の娘に生ませた子ではあっても、その母は「処女」であるという点に、キリスト教の特徴が現れていると思います。処女生誕は神話のベタでもあります。日本の天照大神も、夫がいて子供が産まれたのではなく、剣をかみ砕いた息から子供が生まれたとか、その子孫が天皇とか、そういうことになっています。
日本の天皇は古式ゆかしい「神の子孫」タイプの王ですが、ローマ教皇は「キリストの弟子の後継者」ということになっています。

王族の家系図が神話です。

プロレスと格闘技を語った本は、男しかいない家系図であり、現代の歴史書です。
前田と高田は兄弟分とか、桜庭は高田の弟子とか、グレイシー一族にはどんなのがいるかとか、そういう話を延々とするのがプロレスや格闘技のファンです。

血によって力を伝えるという生まれをめぐる神話と、教育によって教えを伝えるという宗教的物語が一体化した形で、現在のキン肉マンはあります。
そんなことをつらつらと考えてると、『キン肉マンII世』29巻の帯の「格闘界の神の子、山本徳郁推薦!」とかいう煽りもたまらなく気になってしまって、この人の父親は誰なんだろうと思って調べたら、ミュンヘン五輪代表の山本郁栄という、実績のある方だったんですね。まあ、神話のように「ゼウスの子」とか「ポセイドンの子」とかいいたいわけではないんでしょうが。
とりあえず、現在でも「とても強い」の表現として「神の子」=「英雄」とかいう主張をする人はいるということですね。
神(宇宙人)の子で、王の子のキン肉マンや万太郎は、つくづくベタなご身分といえましょう。

 

英雄神話のパターン

ゆで先生のようによくある話を、元がわかんないくらい変えてしまえば、もしかして大衆作家になれるのかもしれません。

この「ありがちな話を独自に書く」ことを小説家志望の人に、基本として叩き込もうと言うのが、大塚英志の『物語の体操』です。彼はオットー・ランクというフロイド派の研究者が、エディプス(オイディプス)からモーゼ、イエス、ヘラクレス、ジークフリートといった人物を主人公とする古今の英雄神話から抜き出した共通の構造を紹介します。

a 英雄は、高位の両親、一般には王の血筋に連なる息子である。
b 彼の誕生には困難が伴う。
c 予言によって、父親が子供の誕生を恐れる。
d 子供は、箱、かごなどに入れられて川に捨てられる。
e 子供は、動物とか身分のいやしい人々に救われる。彼は、牝の動物かいやしい女によって養われる。
f 大人になって、子供は貴い血筋の両親を見出す。この再会の方法は、物語によってかなり異なる。
g 子供は、生みの父親に復讐する。
h 子供は認知され、最高の栄誉を受ける。

大塚は手塚治虫の『どろろ』や自作の『摩陀羅』も、これと共通の構造を持つと述べています。

なんか説明する気も起きない位、『キン肉マン』ですね。ついでにサイヤ人で尻尾があって、じっちゃんに育てられて、ラディッツを倒した『ドラゴンボール』も、だいたいこの流れに沿います。
では、一応『キン肉マン』を説明します。

aの「王の息子」は読み切り版の「ウルトラ兄弟の末っ子」あるいは連載版の「キン肉王家の息子」ですね。王子というのは『キン肉マンII世』でも受け継がれた設定です。

bの「誕生の困難」は、桃や処女から生まれてくるといった異常誕生、あるいは何らかの奇形によるハンディキャップというのが、童話や神話によくあるパターンです。グリム童話では、上半身がハリネズミで下半身が人間の『ハンスぼっちゃんはりねずみ』<KHM 108>とか。
『キン肉マン』ではブタ顔のマスク(容姿の醜さ)がこれに相当するのでしょう。

cの「親に望まれない」は、読み切り版では私生児なのですから当然です。連載版では、王位編での父親の「あまりの醜さに絞め殺そうと思った」という回想が、これに相当する設定なんでしょう。

dの「捨てられる」は、読み切り版では「捨て子プロット」ではなく、eともつながる「私生児プロット」が採用されているため、妾の子として生まれながらに半ば捨てられた存在です。連載版ではご存じの通り、「ブタと間違えて地球に捨てられ……」です。

eの「卑しい者に育てられる」は、連載版では牛丼愛好会とか、庶民との交わりが深かったキン肉マンですが、特定の養父や養母はいなかったようです。読み切り版では、いうまでもなく父の愛人である庶民の母が、これにあたります。

牝の動物によって養われるというのは、カオスとブタの話を思い出していただければ、よろしいかと。
ギリシャ神話では、こんな例があります。

アテナの神殿の巫女だったアウゲーはヘラクレスに犯されて、子供を生み、その子を神殿で隠れて育てたが、処女であるべき巫女の身でそういうことになってしまったということで、父である王に奴隷として売られ、他の国の王に買われて妻となりました。その子テーレポスは山中に捨てられ、神の配慮により、牝鹿が乳を与え、牛飼いに拾われ、神に教えられて、母のいる地に赴き、母の夫となった王の養子になり、その後を継いで王となりました。 参考 アポロドーロス『ギリシア神話

英雄の私生児であり、捨て子であり、獣や卑しい者に育てられ、後に王となるというパターンが、まさに神話レベルのベタであることが、よくわかりますね。
カオス考で書いたように、25年たっても、ゆで先生はベタです。
しかし、カオスとブタの話を読んで「ああ、英雄伝説によくあるパターンね」と、どれだけの人が思うでしょうか。
ゆでたまご先生は、『ゆうれい小僧がやってきた!』の前書きで「『どろろ』を読んでいた」といっていますし、『ライオンハート』の前書きで、主人公が獣に育てられる『ターザン』が好きだった、とコメントしています。きっと、心の底からベタを愛しておられるのでしょう。

fの「親との再会」は、連載版では、あっさり再会してますね。この再会は、ダメ王子を強調する再会なのですが。

gの「父に復讐」は、『キン肉マン』『キン肉マンII世』『闘将!拉麺男』では、存在したことのないパターンです。『グルマンくん』などを含めた、他のゆでたまご作品にもありません。
読み切り版のキン肉マンの父は、息子の不幸の原因には違いないので復讐されてもよさそうですが、「実の父に復讐」はかくも多彩な親子関係が展開する『キン肉マンII世』にすら存在しません。

hの「認知される」は、連載版『キン肉マン』のエンディングがまさにそのもの。読み切り版ではあえて「犯罪者として投獄されて、最低な屈辱を受ける」という逆パターンにしています。こういうオチは脳内に「よくあるパターン」が、しっかり入っている人ならではでしょう。話を神話的にまとめる力は、デビュー時点でゆでたまご先生の中にあったのです。

読み切り版の『キン肉マン』とは、ウルトラマンという既成の作品の世界観とキャラクターを借りて、皮肉としてのパロディを成立させ、童話などから設定を借りて、どうしようもなく典型的な話を展開し、最後で崩してギャグとしてまとめるという、赤塚賞の選考委員が「新鮮味がない」と言ったのもよくわかるような作品です。

では、どこにゆでたまご先生のオリジナリティはあったのか、ということですが、
子供の悩み、つまりあの時代の家族の歪みをストレートに反映していたことでしょう。

この時代に大ヒットした『スターウォーズ』は同じく、「実の父親に復讐しない」タイプの英雄物語です。
ここに、「時代性」あるいは「国民性」あるいは「作家性」が、存在するのではないかと思うのです。
ゆでたまご先生の世代は、父親像が厳格な父とダメな父に分裂しがちなのかもしれません。「父親というものは、強くて立派な権力者だ」という前提がないと、この「父の打倒」パターンは成立しません。

父に対する復讐が、志されないということは、親を恨んでいないのでしょうか?
おそらく「母(女性)に対する復讐」が、密かに志されているのだと思います。
読み切り版の『キン肉マン』は女性(正確にはオカマ)に暴行を働いた罪で、投獄される話です。
様々な親子が『キン肉マン』と『キン肉マンII世』には登場しますが、実父を殺した息子はいません。
ですが、実母を殺した息子は一人います。

 

ファミリー・ロマンス

ファミリー・ロマンスという言葉があります。
これは、児童期から思春期にかけて比較的多くの子供が抱く「自分は両親の本当の子供ではないのではないか」という空想のことです。

『キン肉マン』や『キン肉マンII世』は、このパターンに満ちています。
日本のまんがでこれを取り扱ったものの傑作は、『ドラえもん』の「ぼくの生まれた日」でしょう。

親に叱られたのび太が、自分はこの家の本当の子供じゃないんだ、と思いこみ、タイムマシンで自分が生まれた日にさかのぼって、自分が実子であることと、親が自分に期待をかけてくれていたことを知ります。そして家に帰ったのび太は、少しでも両親の期待に応えようと、勉強を始めるという物語です。

ファミリー・ロマンスはフロイトの用語で、マルト・ロベールは、子供が両親の性の違いを認識するのを境に、前段階を「捨て子プロット」、後段階を「私生児プロット」とします。
読み切り版のキン肉マンは「私生児プロット」で、連載版のキン肉マンは「捨て子プロット」ですね。
セックスをまだよく認識していない小学生を読者に想定するなら、連載版の「捨て子プロット」が正しいと思います。読み切り版キン肉マンを支持した小学校低学年の皆様はませていたんですね。
『キン肉マン』は、自分が親から愛されないのは、わたしがダメで醜い私生児だからなんだ、という物語から始まり、わたしは強く美しい王の実子なんだという物語で終わる、正統派のメルヒェンです。

王位編は「王の実子であると妄想する庶民」と「王の実子である捨て子」の争いでした。
ちなみに、統合失調症の患者などに出現する、自分は実は皇族などの高貴な血筋である、という血統妄想は、「高貴な血筋」の社会的な価値が低下するに従って減ってきたそうです。
この種の出生幻想が生じてくる背景には、「みじめな今の自分を否定したい」「親に幻滅した」「親に愛されたい」などの心理があるとされています。

実の両親とは以前に別れてしまっていて、現在の両親は単なる養父母にすぎないのだ、という妄想を抱き、統合失調症の疑いがあるとされた26歳の未婚の男性に関する記述を、木村敏の『自覚の精神病理』から引用しましょう。

この患者は頭の良い子で、小学校中学校を通じて優等生だったが、高校入学後、成績は下降線をたどり、高校三年の9月、「周りの人達から注目されている」等と言い出し、その年の12月から精神科医の治療を受けるようになりました。
25歳の12月、患者は両親に対して極度に反抗的になり、母に対して「本当のお母さんではない、ぼくを軽蔑している」と言って暴力を加え、病院に入院しました。
入院時はかなり反抗的であったが、病室に入ってからは女性の看護士に対して馴れ馴れしい態度をとり、病室内をやたらに歩き回ったり、空手のような動作をしてみたり、急に思い出し笑いのような表情を浮かべたりして、全体的な態度にすでに明かな異常が認められました。
この時の入院時にこの男性は、こんなことを語りました。

「子供の頃から本当の母を探していたように思う。探しあぐねて疲れてしまった。母に叱られたりしたとき、甘えたい気持があったのに甘えられなかった。ぼくの考えていることとと母の気持ちがいっしょだったらいいのに、と思っていた。」

他に彼は自分に父がいるとしたら、それは不動明王だと思った、と語りました。
この患者の場合、年齢の接近した二人の弟の誕生によって、乳児期から幼児期にかけて母の愛情を十分に得ることが出来ず、母の代役としての叔母に養育されたことが後の病的体験の原因になっていることは容易に考えられると、主治医だった著者の木村敏は、分析しています。

キン肉マンの最後の敵、フェニックスマンは母親が慰めのつもりで口にした「あんたは本当は王子なのかもしれない」という言葉を信じ、母と喋らなくなり、部屋の隅に座って、ときどき不気味な笑みを浮かべるようになりました。
そして、みなさんご存じのように、ある日「神のお告げだ!」と言って、自分が大王になるために家出してしまうのですね。

もし、『キン肉マン』の世界に神が実在しなければ、これは統合失調症でしょう。

自分の中の攻撃的な部分が、自分の一部ではなく、他人として感じられるのが、この病のメカニズムだという考えがあります。
普通の人なら、もう一個ケーキを食べたい、と思ったときに「ダメ、太るから」という矛盾した考えが浮かんできても、それは自分の考えであり、自分の内心の声です。
でも、それが精神病的な状態になると、「ケーキ屋を見る度に、おまえはブタだ、と宇宙人が電波で罵る」ということになったりします
彼らが聞く「自分に命令する声」や、彼らが感じる「自分を乗っ取ろうとする何者か」は、自己に統合されていない自己の声なのです。
それは元をたどれば、自分を否定する親の声が内面化されたものだったりする、と精神科医は言います。
子供はしていいこととわるいこと、なすべきこととそうでないことの区別を幼いとき、保護者から学びます。なので、時として大人になってからも「ああしろ、こうしろ」という親の声が、この世ならざるものの声として聞こえる人がいるのですね。

親が心地よく自分を保護してくれることを、期待しない子供はいませんが、24時間365日、子供を安心させ、快適な状態にしてやれる親などいないでしょう。そして、教育やしつけは子供にとって不快な側面を必ず持ちます。
なので、全ての子供の期待は裏切られます。

「親は期待するほど自分を愛してくれない。それでは親の期待に応えて、立派な人間であることを証明しよう。そうすればきっと親も自分を認めてくれる」
というのが、神話化されると、「捨てられて、成功する」パターンになると思います。それは、永遠のメルヒェン。

たとえ話の方が話が早いというのは、人の心に関わる問題ではよくあることです。
子供は児童心理学の講義を受けても、それが子供である自分に関わる話だなんて実感できませんが、「ある王子様はブタと間違えられて地球に捨てられてしまいました。そして、みんなからあいつはダメだといわれていました」という話し方なら、わかる子供も多いのでしょう。そして、「親に叱られたり、友達に仲間外れにされたことが、とても辛かった少年時代、キン肉マンは自分のヒーローだった」ということになるのだと思います。

小学生以前の悲しみを実感を込めて思い出すことができたのは、ゆで先生の才能であると共に癒されざる傷だったのでしょう。

ゆでたまご先生の「オリジナリティ」というのは、その「立派な人間」の定義が「キン肉マンみたいに立派」というものだったということでしょう。
やはり、それは個性だったと思うのです。


初出2006.1.23 改訂 2007.8.7

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