ロビンマスクについて思いついたままにつらつらと。
ロビンは駒鳥の意味。
ロビン・フッドというイギリスの有名な英雄がいます。
そこから来ているのかもしれません。
騎士の鎧に身を包んでいます。
素顔は甘い美形だそうですが、謎のままです。
イギリス出身の紳士風プロレスラーは、プロレスのお約束でしょう。
アニメでは冷静さを出すためか、鎧が青かったロビンマスクですが、原作では白銀です。
けがれのない高潔さを表現するには、やはりこの色でしょう。
弟子のウォーズマンは漆黒、息子のケビンも漆黒でした。
おそらく対比する意図もあるのだと思います。
オリンピック編の、あらすじはこうです。
「主人公のキン肉マンが、友人のテリーマンと父親に助けられて、委員長の与える試練やキン骨マンの妨害を乗り越え、カレクックやラーメンマンを倒し、火事場のクソ力に目覚め、ロビンマスクを倒し、チャンピオンになる。」
オリンピックの前半は、ジャンケンの他は、瞬発力をはかる重量挙げとかとか持久力をはかるマラソンとかで、なかなか合理的です。
様々な試練を乗り越える、というのはメルヒェンに多いパターンです。
何も化け物を倒すだけが、英雄の試練じゃありませんよね。
ここにお邪魔虫のキン骨マンが介入するのが、まんが的ひねりなのでしょう。
後半は、主人公が残虐な敵と戦う話です。
敵対者と援助者の境があいまいなのが、このオリンピック編の特徴で、今回のラスボスのロビンマスクも、最初はキン肉マンを助けてくれます。
逆に最初敵だった、キン骨マンやラーメンマンは主人公を応援してくれます。
そういう意味では、温かみのある人間観ですよね。
残虐表現も多いですが。
ちなみにこのオリンピックに「月からウサギを連れ帰る」というレースがあります。
ロビンは「さあ ウサギをやさしく だいてロビン・マスクが地球へむかいます」と、アナウンサーにいわれるのですが、スグルは乱暴にもウサギの耳をつかんでいます。
「他者の肉体の扱い方」はこの頃から、人物の描き分けの手段として使われていました。
アメリカ編のうち、ロビンマスクに関連する部分は、「アメリカ超人界の全容の巻」から「グランドキャニオンの絶叫の巻」まででしょう。
この部分の物語は、だいたいこういったものです。
キン肉マンがその内部を探るため、敵対する団体に入り込みます。
キン肉マンはそこで、ロビンと再会します。
ランバー・ジャック・デスマッチ(地下プロレス)に出場するまでに、落ちぶれていたロビンを見て、キン肉マンはショックを受けます。
ロビンは、キン肉マンに止めを刺さなかった甘さを悔やみ、冷酷な行為をあえてするほどに荒んでいました。
アメリカ編のキン肉マンとロビンマスクの話は、この「冷酷さ」と「情け」の両方が対比される形で進んでいきます。
キン肉マンに挑戦したがっているロビンですが、牢獄にいるキン肉マンとミートに牛丼を差し入れてもくれます。
しかし、キン肉マンの無遠慮な一言で、両者には険悪なムードが漂います。
両者はリングで対決することになり、ロビンはリングから谷底に落ちかけます。
そこでミートが、キン肉マンにロビンを谷に落とせと言います。
しかし、キン肉マンはそんなことはできないと、ロビンを助けます。
その後、ロビンはキン肉マンを、飛行機からかばいます。
ロビンは落ちてくる飛行機に対して、手を広げています。死にたかったのでしょう。
キン肉マンも、自分を助けたロビンを助けようとします。
ロビンは、そんなキン肉マンに、自分の不幸なこれまでを語ります。
新しい職を見つけ、夫婦で穏やかな生活を送っていたロビンは、キン肉マンの活躍を新聞で知ります。
リングが恋しくなったロビンは、レスラーとして返り咲きを狙います。
しかし、ゆきだおれてしまい、悪人に拾われます。
悪の組織に利用されて捨てられることを、自分の運命として諦めようとするロビンを、キン肉マンはそれでも助けようとしますが、ロビンは谷底へ落ちていきます。
これで、敵方の組織はロビンマスクの仇となりました。
この短い話の中でも、「敵対者」→「援助者」→「犠牲者」という役割の変化があります。
敵でもあり、友でもあるというロビンとキン肉マンの距離の揺れが、この部分のドラマを作っています。助けたり、助けられたりするのですが、ひとつの栄光の座を争うライバルでもあるという、男らしい友情です。
栄光の座を失い、転落に転落を重ねていくというのが、アメリカ編のロビンマスクの物語です。
ロビンマスクは最期は文字どおり、谷底へと転落していきます。漫画として、印象的な場面です。
この話では部下であるロビンが、上司に裏切られます。
この次に、ロビンが登場する第二回オリンピック編では、今度はロビンがウォーズマンに裏切られます。
最初のオリンピック編では、ロビンは観客に裏切られます。
ロビンマスクは、つくづく孤独な男です。
ロビンマスクは父性的なキャラクターで、自他に厳しい男です。
ロビンマスクの役割は、大まかにわけてこんなんです。
「敵対者」(オリンピック編)
「敵対者」(アメリカ編)
「敵対者」(二回目のオリンピック編)
「援助者」(七人の悪魔超人編)
「援助者」(黄金のマスク編)
「犠牲者」(タッグ編)
「援助者」(王位編)
大筋では「敵対者」→「援助者」→「犠牲者」という、いつものパターンに沿っています。最後で逆転して、援助者として大活躍していますが。
多くの敵対的な超人が、キン肉マンに負けた後、あっさり仲間になっています。
でもロビンは何度も敵対しています。
最初は「援助者にして敵対者」で、次は「不幸な敵対者」で、その次は「敵対者の師匠」と、関係が変化していっているところは、話の面白さですね。
キン肉マンに倒された後に再び敵として現れる超人自体が、実は少ないです。
その意味でも、ロビンは希有ですね。
「弟子を使って復讐」を考えた超人、ということでは、2世のサンシャインが、ロビンの類似キャラです。
なぜ、何度も敵対するんだろうということを、素直に考えると「プライドが高いから」でしょう。
「自分は一流の正義超人だ」と思っているので、自分の敗北と他人の邪悪は許さないのがロビンです。厳しい人なんですよ。元から。
アメリカ編や第二回オリンピックでの敵対とかも、「悪に染まった」というのには、ちょっと微妙です。
悪人に従って、悪事を働く気は、ロビンにはないですよね。
だからこそ、すぐこの間まで弟子を酷使して、キン肉マンを殺そうとしていたのに、悪魔超人が現れると、一緒に戦おうというのです。
悪魔超人編からは、作品内で、正義と悪との対立構造が成立し、正義超人であるロビンは明確に「主人公側の人間」となります。
その後は、ずっと主人公を助けてくれる人なのですね。
元から正義超人でなので、他の敵のように「キン肉マンと出会って改心」というのでは、ありません。
「弱い」も「間違い」も基本的に認めないロビンマスクは、誇り高い戦士ですが、イヤな父親ですね。
ウォーズマン考で。
アリサは、「敗北したロビンマスクを、誰かが抱きしめてあげないと可哀想だから」という理由で、登場したキャラだと思います。ロビンマスクに対するテリーマンの敗北の際には、ナツコがテリーに駆け寄っていました。
二回目のオリンピック編で、敗北したウォーズマンにビビンバが駆け寄ったりするのも、同じでしょう。
二世のオリンピック編で、ケビンが敗北していたら、ジャクリーンがアリサと同じ役回りだったような気がします。
ですが、意地でも前作と同じようにはしないのが、ゆでたまご先生なのですね。
全く同じパターンを繰り返さないということは、ゆで先生のまんが家としての長所のひとつです。
『キン肉マン』と『キン肉マンII世』に、アリサは登場します。作品内の時間の流れに沿ってロビンとアリサの関係を解釈するならば、だいたいこうなります。
「獲得」前提としてのアリサとの友好的な関係
「敵対」アリサの父はロビンに敵対的である
「不幸」アリサの不幸をロビンは思いやる
「救済」アリサと結婚するために、超人をやめる
「献身」アリサがロビンの心配をする
「別離」アリサを捨てて、超人に戻る
「受難」アリサを含めたイギリス国民が相手の攻撃対象である
「試練」ロビンが苦戦する
「援助」アリサがロビンを泣きながら叱責する
「保護」アリサが守られる
さらに続けるならば、
「獲得」ロビン、アリサと結婚
「別離」ロビン、バラクーダ時代にアリサを捨てる
「受難」アリサ、不幸になる
「献身」それでもアリサはロビンを慕う
「犠牲」アリサ、時間超人に傷つけられる
「救済」究極のタッグ編でアリサの救済対象イベントが、進行中
「献身」アリサ、ロビンの子供を生み育てる
どうもゆでたまご先生が長いラブストーリーを描くと、これらの要素が出そろう形に進行していくようです。これまであまりこのキャラの「救済」を描かなかったから、今度は描こうとか、そういう方向に考えてイベントを増やしていくというか。
アリサは『キン肉マン』での初登場時はコンパニオンという設定で、『キン肉マンII世』の「倫敦の若大将編」では、それはフォローされなかった設定です。世界超人協会会長が何か誤解をしていた、あるいはスグルを旅立たせるために、嘘をついたと考えれば済むことですが。
そういうところが「ゆでたまご作品の完成度の低さ」や「破綻」と言われるのですが、ゆでたまご先生的には「完成度」とは、「脳内にある典型的なシナリオに近づける」ことで、得られるものなのではないかと思います。
ベタでない話は、破綻している、そう考える人なのだと思います。
普通は、作品内事実と矛盾しない範囲でセオリー通りにまとめようと、苦心するものなのでしょうが、そこを押し切るのが作風です。
ゆでたまご先生はルーカス(『スターウォーズ』の監督)のごとく、もっと遠慮なく、何度も自作を修正すればよいと思います。
小説家や評論家にとってそれは当然のことです。それは、それらが多少なりとも世代を超えて読み次がれることを期待しているからです。おそらくまんがもこれからそうなっていく気がします。
ちなみにこの「倫敦の若大将編」は、連載当時上映されていた、『スパイダーマン2』の影響があると思います。あれも主人公が恋のためにヒーローであることを一度捨てる話でした。
「倫敦の若大将」のラブストーリーとしてのラインは上記のようなものですが、より明確な全体の人物関係はこうです。
「主人公」ロビン
「敵対者」ギロチン・キング
「犠牲者」ジョンブルマン
「援助者」テリーマン
「対象」 アリサ
「依頼者」アリサの父
最後の「依頼者」というのは、主人公に目的や試練を与える人物です。
メルヒェンで「怪物を倒したら娘をくれてやろう」とか言う王様と同じ役割です。
誰かに「依頼」あるいは「強制」され、「援助者」の力を借りて、「主人公」が「敵対者」を倒し、「対象」の獲得や「犠牲者」の仇討ちをするのが、このまんがの基本です。
西洋のメルヒェンでも「犠牲者」は、存在します。ただ多くの場合「失敗例」なんですよね。姫を得ようと怪物に挑む王子の前に示される、怪物に倒された他の王子の死体とか、そういうものはメルヒェンのお約束なのですが、それは「他の誰も出来なかったことをする」主人公の勇気と勝利の強調であって、ほとんどの場合、仇打ちではないのです。
そういえば、グリム兄弟が嫌ったのかもしれませんが、「仇討ち」だけを目的にする「かちかち山」や「さるかに合戦」みたいな童話は、グリム童話にはほぼ収録されていなかったような。
やはりキン肉マンは、日本のメルヒェンですね。
神話ならば、西洋にも父の敵を討つ話があります。ハムレットの元ネタと思われるオレステスの物語は、父の仇としての母殺しの物語です。
もう少し具体的に語るなら、倫敦の若大将編の話の後半はこんな感じに進みます。
「死神である敵の出現」
「友が犠牲になる」
「主人公が二者択一を迫られる」
「アイテムを手渡してくれる援助者の出現」
「ヒロインが涙を流す」
「主人公が敵対者を倒す」
「世界が救われる」
「花嫁が獲得される」
ゆで先生のセオリー通りに話を組む能力はさすがです。セオリー通り過ぎる気もしますが、わかっておられるんでしょう。