万太郎についてつらつらと。
ウルトラマンタロウが、名前の元ネタです。キンニクマンタロウってことですね。長男なので太郎というのもあるでしょう。
ロシアのメルヒェンには「王女が、主人公に接吻すると、額で星が輝き出す」というのがあります。英雄であることの証明として、額に何か印がついているというのは、メルヒェンの典型パターンのひとつです。
ブッダやウルトラマンも、額に印がありますよね。
万太郎にも生まれながらの英雄の証として、額に輝く印がついています。
……漢字で肉とか書くのは、これが日本のメルヒェンだからです。
親のキン肉スグルに比べて小柄なのは、少年であることの強調でしょう。手袋をはめ、青や白で、肌の露出の少ないコスチュームは、都会の小学生のような清潔感にあふれています。
万太郎の修行と成長を描くこの物語は、師匠に何かを教わり、友人を見つけ、与えられた試験を突破して、一人前と認められると言う、テーマはとてもまっとうな話です。ときどき悪行超人が紛れ込みますが、正義超人同士で戦うというのがです。全体としては依頼主はロビンマスク、最後の敵はキン肉マン、援助者はキッドということになるでしょうか。
このシリーズは「正義と悪との戦い」をテーマにしています。万太郎が悪を倒して、正義のヒーローとして、地球の人々に認められるか否かというのが、この話のテーマです。しかし、チェックが悪のヒーローとして、観客に認められかかります。
もしかしたら、ロビンの依頼でセイウチンとガゼルマンとキッドを連れて、地球に向かった万太郎が、ミートに助けられて、三人の悪行超人と戦い、三人目で万太郎対ケビンマスクという比較的シンプルで、早く終わる話の予定だったのかもしれません。
二期生編は「正義超人同士が争う」シリーズです。
「正義に従い悪を罰し、秩序を回復する」というのがテーマです。
二期生編の物語は、ニーベルンゲンの歌で書いたように、ドイツの英雄叙事詩を元にしています。
もうひとつ、二期生編には組みあわさっているパターンがあります。
「道楽者が勝ちをおさめる」というパターンです。怠け者や、馬鹿者、悪人が主人公として、活躍するタイプの話は、昔話や民話にたくさんあります。
二期生編の万太郎は、未成年でありながら酒を飲んで、野球拳という女遊びと賭事を合わせたような遊びをして、全てを失いかける、ダメ人間の典型のような人物です。でも、そんな道化者の彼が思いつきで勝利をおさめます。そして、全然懲りていないで、話の最後の所ではまた遊んでいるという、どこかで聞いたような話です。
それでスカーが「暴力的な野生児」と「権威に従う優等生」の二面を持つことになったのです。
前者は、ジェイドやケビンと対比される者としてのスカーですし、後者は万太郎と対比される者としてのスカーです。
例えば、『グリム童話集』に「どうらくハンス<KHM 82>」という話があります。
賭事が大好きで一文無しになったハンスという男がいました。彼とその子供を憐れんで、神様が弟子を連れて天から降りてきました。
そして神様はハンスに、3つの願いを叶えてあげようと言います。
ハンスは、何でも勝ってとれるカードと、
何でも勝ってとれるサイコロと、
それへ誰か登ったら、ハンスが降りろと言うまで降りられない木を、望みました。
ハンスは神様に貰ったカードで勝ちまくり、死ぬと地獄で地獄の王様から手下の鬼どもを巻き上げました。
ハンスはその鬼どもを率いて、天国を攻め、困った神様はハンスを天国に入れましたが、ハンスは天国でも賭事三昧で大騒ぎ、とうとう神様はハンスを下界に投げ落とし、ハンスの魂は賭事仲間の所へとんでいきました、という所でこの話は終わっています。
飲酒運転で事故死し、天国で酒を飲みまくって、神様に天国を追い出されて生き返る『帰って来たヨッパライ』という歌みたいな話ですね。
今回は、グリム童話を参考にしましたが、ゆで先生は、道楽者が上手いことやって、勝ちをおさめるタイプのストーリーパターンをおそらく、日本の昔話や落語等から学んだのだと思います。
主人公を好きだと言ってくれる男ばかりで構成されるグループを、闘いによって主人公が築くまんが、それが『キン肉マンII世』です。
このまんがで主人公と戦ったあとで、主人公の強さと優しさを認めない男などいません。ヒカルドは例外でしょうが、彼も再登場したら万太郎をリスペクトする可能性があります。
このまんがでは万太郎と闘った男がその強さと優しさに惚れ込み、万太郎の闘いを見た女もまたその強さと優しさに惚れ込み、観客も最後には万太郎を応援するという物語が繰り返されます。
万太郎が世界のみんなに愛されるという結論が先走って「それだけであんな悪人があっさり善人になるか?」という疑問を読者が時に抱くのが、このまんがです。
また「知らない人はイヤなヤツだが、知り合いはみんなイイ人」という対人感覚がこのまんがを貫いているので、仲間になったとたん、みなさん丸くなりますよね。
しかしこのまんがが、それゆえに楽しいおとぎ話であることもまた確かでしょう。
逆にこんな主人公がどうして許されるんだ? という疑問を持つ人は、読者であることをやめていったのでしょう。
そしてこの世界の悪人には、みな信念がないのです。および不幸の深さがないのです。
彼らは悪の正しさ、美しさを信じてはいないし、彼らの不幸は彼らの人格に致命傷を負わせてはいないのです。
悪に走る誰もが、心の底では自分に情けをかけてくれ、愛してくれる仲間を求め、社会に受け入れられることを望み、その願いはいつか叶えられる、これはそういう世界なのです。
例外としては悪魔超人同士のつながりを信じる、はぐれ悪魔超人コンビでしょうか。しかし彼らも孤独ではありません。
このテーマが明確に立ち上がってくるのはKDD(ノーリスペクト)編です。チェック・メイトの再登場と彼の万太郎に対する応援を皮切りに、フォークもハンゾウもボーン・コールドも改心していくのが、このシリーズです。
悪魔の種子編はそのようにして改心した悪人達が、仲間として活躍する話でした。
この世界の悪人とは「かわいそうな人」なのでしょう。
実際犯罪者は恵まれざる者ですが、それで終わらないのが現実、終わらしてしまうのがこのまんがです。
そしてまた、万太郎は人生が辛くても、悪に走ってはいけないと諭します。
ただボーン戦を見ると、悪に走ってはいけない理由が、万太郎には明確に提示できていない気がします。万太郎は社会的な人ではないので、仕方がない気もします。「他人に迷惑をかけるから、悪に走るな」なんて説教は、迷惑かけまくりの万太郎が一番口にしたくない台詞でしょう。
農村マンの場合も、万太郎が自分は私利私欲のためではなく、みんなのために闘っているんだと言って、読者に「私利私欲まみれのお前が言うな」と突っ込まれていました。
ですが甘えん坊で弁護士志望だった万太郎が、いやいやながらもリングに上がったそもそもの理由は「みんなのため」でしかありません。
このオリンピック編は違うというのが、痛い所ですが。
道を踏み外した者を洗う涙と、後にかかる絆の美しさが、『キン肉マンII世』の感動なのですね。
バカな子でもかわいいと愛されてきた万太郎ですが「なんかボクって父親に期待されていないみたい……」という不満を14歳の年頃になって、抱くようになります。
それが彼の初期のシニカルさの理由のひとつでしょう。
子供の頃の万太郎は、父親の猫っかわいがりに対して迷惑そうな表情をしています。
彼は甘やかされましたが、いまいち幸せではなかったようです。
父親をオモチャ扱いしていた万太郎ですが、万太郎としては「パパと遊んであげているんだもの、感謝して欲しいくらいだよね」と感じていたのではないでしょうか。実につまらなそうな顔でボールを投げています。
また、秘密を共有する仲間として、父と息子は共犯関係を結びます。
この秘密というのは性的な秘密です。
大人のオモチャを父親に頼まれて息子が買ってきたり、裏ビデオを一緒に見ていたりするような親子関係ですね。
その大人のオモチャを見て、ビビンバがどこで使うつもりですか、と本気で怒っていたところからするに、どうやら、奥さんとそういうことをする関係ではないようです。
浮気するつもりでないのなら、そんなものを所有する理由は、「肉体の衰えが寂しいから」でしょう。
キン肉スグルは己の筋力の衰えをプロテクター(というか肉襦袢)でごまかしたように、己の性能力の衰えを大人のオモチャでごまかそうとしているのです。
キン肉スグルは年を重ねて賢くなった己を誇ることは、出来ませんでした。
成熟した大人になれなかった男は、若き日の筋力や性能力を懐かしむしかないのです。
自分の父親が父親らしくないことに失望した万太郎は、家の外に父を求めます。
ラーメンマンを師匠とした理由は、彼が万太郎に交換条件を出すなどして、対等に彼を扱ったからでしょう。
しかしだらしないと思っていた父親が、実は立派な人物であったことを父親との闘いの中で万太郎は知ります。
そして万太郎はシニカルさを捨てます。この世には信じるに値するものがあるという気になったのでしょう。
実は子供の万太郎が母親に抱かれていたり、ほおずりされている場面はありません。
他のキャラもそうです。
ナツコがキッドに対して、何か台詞らしい台詞を言っている場面はありません。
アリサとケビンもそうです。そして、母殺しの物語なのに、イボンヌのシバに対する台詞は「おめでとう、シバ」の一言です。
涙の叱責でも論じましたが、この世界において母親とは「子供を叱る存在」です。そして家事をする人なのです。
MAXマン戦の万太郎の回想を引用しましょう。
「おおーそういえば ちっちゃい時 靴のかかとの部分を潰して履いたら よく母上にしかられたな」(『キン肉マンII世』 単行本 2巻)
何だか王家とは思えない生活感あふれる話ですね。他にはキッドが汚れた靴を母親に洗ってもらったとか、万太郎がリングコスチュームを縫ってもらったとかいうエピソードがあります。
ところが、キン肉マンにとってキン肉王妃は何者か、という答えはかなり明確です。
かつて自分に冷たかったけれど、その後自分を認めてくれた、賢く優しく美しく、誇り高い母親です。
初期のキン肉マンでは、養子をとって実の息子を捨てたり、逆に息子に化けて活躍してくれたりしていました。王位編では、このキン肉王妃は火事の混乱の中で、息子を「母親のカン」で正しく選び出したことになりました。
王位争奪編で理想の母親となったかつてのキン肉王妃は、『キン肉マンII世』では亡くなっています。
友人達はみんな万太郎の世話係状態なのが、このまんがです。
万太郎グッズ売りから特訓の相手まで、一期生のみなさまは、本当にお疲れさまです。
普段の万太郎の友人たちに対する態度は「甘え一辺倒」です。相手に迷惑をかけてそれを許してもらうというのが、基本となります。
なぜ、万太郎は甘えまくるのでしょうか。
「手間のかかる子ほどかわいい」と思ってくれることを期待しているからではないでしょうか?
親、特に父親が息子が甘えてくれるのを喜ぶような人だったからですね。
甘えてねだる、それが万太郎の基本なのです。
「依存による支配」ですね。
また、服など身につけるものを贈る人間は支配欲が強いと言われます。
万太郎Tシャツとか、チェックに洋服とか、万太郎からの友情確認アイテムとしての服はよく登場します。
手間のかかる子でも愛してもらえる、むしろ手間のかかる子だから愛してもらえるんじゃないかと、万太郎は思っています。
また万太郎は、いざとなればがんばりやさんで、「強さ」と「優しさ」という素晴らしい長所がありますので、周囲も許してしまうのですね。それに万太郎は何かをしてもらったことに対するお詫びやお礼はちゃんと言っていたりするので、相手も納得するのでしょう。
万太郎は常に周囲に献身と許しを求めます。
これが最も顕著に表れているのは、ミートとの関係においてでしょう。
万太郎のことをよく理解し、一緒に暮らし、家事をこなし、叱り、指導し、育てる、ミートはまさに世話女房です。同時にミートは万太郎がその力で保護すべき対象でもあって、それゆえに彼の父のミンチはボーンの人質になり、ミートは毎回のように悪魔超人の人質になります。
なので、理想の他者であるミートの不在の際に、万太郎がチェックやキッドや農村マンやTeamAHOやケビンや米男と友情を築くのは、当然ですね。
「自分がいないと万太郎はだめだ」と思えるのは、II世で「最も頭のいいキャラ」と設定しなおされたミートの特権でしょう。
キッドやチェックも万太郎を支えますが、彼らにはそこまで思うことはできません。
それは彼らにはそれぞれ「己もリングに上がる者」としての立場や自負があるからでもあります。原則としてリングに上がれず、セコンドとして間接的に自分の力を発揮するしかないミートには万太郎が全てなのです。
ある意味ミートは万太郎の自立を阻む存在なので、始終セコンド不能に追い込まれるのでしょう。
ミートがイリューヒンのセコンドにでもなれば、万太郎は自立できるのかもしれません。
ミートは万太郎の世話係と言うより、キン肉マンの女房で、万太郎の継母というべきかもしれません。新世代超人にお説教するミートをみていると、そんな気もします。
誰かに依存されるのが生き甲斐、というのを共依存と言います。
II世になってからの始終何かにいらだっているようなミートを見ると、もう16歳の万太郎をもう少し気楽に放置してもいいのにと思わなくもありません。
叱ることも含めてあれこれ心配して世話を焼くから、万太郎が余計にミートに甘える気がします。