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第八章 オパールのブローチ

 デミトリはベッドの天蓋を見上げて息をついた。さっきまで寝ていた女はカミーユだったかマドレーヌだったか、などとぼんやり思いながら裸の上半身を起こす。
 女は帰され、今はベッドの上には彼だけだった。
 カーテンから手を差し出して、テーブルのガラスコップを取る。
 冷たい水で喉を潤すと、頭が少しはっきりしてくる。
 血の方がいいか、とも思ったがとりあえずグラスを干した。
 乱れて額に落ち掛かる髪をかきあげて、思い回らす。
 そして、そういえば、先程抱いた女たちの中に文字どおりの意味で「力ずく」で下僕にした者はいなかったな、ということに気づく。(金で買いとるのは彼にとって正当な手段だった)
 みんな彼に言い寄って来たか、彼の誘いに同意した者たちだ。
「闇の貴公子」と呼ばれる彼にとって、女は常に「苦労しないで手に入るもの」だった。
 もちろん、デミトリが「我が僕にならないか」と誘った全ての女が、彼の誘いに応じた訳ではない。
 夫がいるから、愛人じゃいや、吸血鬼の下僕は遠慮したいの、何となく気が乗らないわ、ごめんなさい好みじゃないの、などなどと断った女たちも多かった。
 そういう場合は、彼はあっさり引き下がって別の女を口説いた。
「しつこくしないのが御婦人に対する礼儀」というのが、彼の決まり文句だった。
 だが、実のところ、それは女に対する情熱がないだけの話だった。
 「いい女」など彼のまわりにはたくさんいる。それなのに、「この女でなければ」と思うような理由など彼にはなかったから、特定の女に執着などしなかった。
 カミーユの場合も彼女が「やはり婚約者を捨てられません」と言ったなら、「そうかね、それではお幸せに」とさっさと立ち去って、他の女の手を引いて踊っていただろう。
 いつから自分は「しつこい男」になったのだ? とモリガンのことを思い出して憮然とする。
 そういえば、と彼は思い出した。
 たった独りだけいたな。
 遥かな昔、彼がまだ少年の頃、「嫌」と言ったのに、血を吸われ、今もこの城で彼に仕えている女が。
 イザベラ。
 そう、彼女だ。
 かつて他の男の愛人だった、自分の片腕。
 デミトリは300年以上前の古い日々のことを回想した。

 デミトリには父親の記憶が無い。マキシモフ家当主の継承権をもってはいたが、幼い頃に近くのクロイツ家に人質に出され、彼が戻った時には父親は死んでいた。少年の頃、再び彼は兄の手によって人質に出された。今度はアーンスランド家。いわば、魔王が彼の師であった。
 強きものが己の一族にいないことを嘆いていた魔王は、一時期デミトリを養子にと思いもしたらしい。しかし、その話が固まらないうちにデミトリはマキシモフ家の当主となり、その後、彼に魔王の後継者はサキュバスの娘らしいという噂が伝わって来た。
 自分のものになったかもしれない玉座が、夢魔の小娘に投げ与えられたと聞いて、彼は内心で嫉妬した。
 しかし、彼はこうも思った。
 魔王の座を与えられなくても気にすることはない。いずれ実力で奪ってみせる。
 それは、「奪ったものこそが本当に自分のものだ」という吸血鬼特有の所有感覚によるものだろう。純血種の吸血鬼である彼にとっては、支配と被支配こそが最も理解しやすい関係であった。
 もちろん、デミトリの冷ややかさは、彼の生い立ちによる所も大きい。
 彼の母親は、反抗的な弟ではなく、落ち着きのある兄に期待をかけ、その兄を当主の座につけるべく奔走していた。
 しかし、その母親は恐らく彼の兄をも愛していなかった。
 そのことを今でもデミトリは確信していた。
 彼女の望みは権力だった。
 彼がそう信じる理由の中には、兄だけが愛されていたなどとはさすがの彼も考えたくはなく、また自分の母親なのだから、そうあって欲しい、というような彼自身の望みや恐れも多分にあった。
 実際には、人質生活の長かった彼はそう長い時間を母親と共には過ごしていない。
 そして彼の母親も、幼少の彼に露骨に冷たくあたるような女ではなかった。
 だから、今となっては彼が母親の真意を知る術はない。ただ、母親亡き後の周りの者の証言によって、彼女が二番目の息子を、いざとなったら切り捨てることのできるコマと考えていたらしいと推し量るのみだった。
 何しろ、母親が彼の兄にそう助言した結果として、デミトリは選りにもよって魔王ベリオールのもとへ、人質に行かされることになったのである。
 代々のマキシモフ家当主の隠された悲願は、魔王ベリオールを倒すことであるのに、だ。
 もし、兄かその息子がいつの日か、かねてからの願いどおりに魔王に反逆したら、自分は殺されるのだ。デミトリは己の一族の野心をよく知っていたから、人質に出された時点で死を覚悟した。
 魔王の城の城下町にデミトリの居場所と定められた館はあった。
 昔から使われてきた建物は、マキシモフ家当主の弟の住まいにしては質素だったが、必要な家具はちゃんと揃えられていた。
 まだ富や美や快楽というものに、さほど関心を抱いていなかった少年のデミトリには、高価な美術品が置いていないことや、豪華な家具がないこと、色気のある美女が住んでいないことは嘆くことではなかった。
 マキシモフ家に仕える数名の従者が、彼の世話をし、アーンスランド家に仕える数名の兵士が彼を監視していた。
 時々儀礼的に城での宴などにも招かれたが、よそよそしいアーンスランドの一族の顔など見たくもなかった。ただ、若いながらに彼は魔王ベリオールに対しては畏怖と敬意を抱いていた。反抗的な彼をして、さすがと思わせるだけのものが魔王にはあった。
 異郷で友人もいないデミトリは、日の多くの時間を読書と武芸の鍛練で過ごした。
 そしてアーンスランドの一族の者は、彼に対して反抗的で他者に馴染もうとしないという評価を下していた。

 そんなある日、彼は魔王の城のロビーで美しい女性に会った。
 彼女は蜂蜜色の金髪に、澄んだ青い瞳をしていた。整った顔立ちで、背は高め、胸は豊かで、手の指は長かった。かなりの美人だったが、華やかさよりも、落ち着きのある女らしさを感じさせる女性だった。
「あら、あなたは噂のマキシモフ家のご子息ですね。私はイザベラ・レムですわ。あなたのことはこの前のパーティーでおみかけしましたの」
「その通り、私はデミトリ・マキシモフですが、『噂の』とはどういう意味ですか」
 不審そうに聞く彼に女は優雅に微笑んだ。
「ふふ。……知りたいでしょう? なら、今度私のうちにいらっしゃいな。私は最近退屈なのですから」
「ご遠慮します」
 デミトリは女からの気まぐれな誘いとみて断った。
 どうせどこかの貴族の有閑夫人だろう。あるいは愛人か。
「聞かなくていいのですか? 『あいつはいずれ背く』というような「貴い一族」のあなたに関する噂ですのよ」
 デミトリははっとした。
 この女は陰でアーンスランドの一族にどんなことを言われているかを、教えてやろうと言っているのだ。
 それは是非とも知りたかった。
「……聞かせていただきたい」
 その言葉にイザベラはふわりと笑った。

 イザベラは、「魔界哲学者」と呼ばれるギルマン家の分家のレム家に生まれた。
 いわば、下の方の「貴族」である。
 かつては、一睨みしただけで相手を呪うことのできる「邪眼」を持つ一族として名高かったが、代を重ねるごとに魔力が衰え、現在ではその目もたいした力を持たなかった。
 彼女の母親は政治に優れ、趣味人の父親の代わりにレム家を取り仕切っていた。
 そのため、彼女は娘に早くから政治等についての英才教育を施した。
 しかし、母親の死によって、全てが悪い方向へと向かっていった。
 政治には無能な父親は、家臣たちの利権争いに踊らされて、家の財政を破綻させた。
 その後始末はギルマン家が引き受けたが、代わりにレム家の領地というものはなくなった。一族は散り散りになり、あちこちの縁者を頼っていった。
 まだ少女の年だったイザベラは美貌と家柄のお陰で、アーンスランドの一族のマリウスの愛人となることが出来た。だが、その境遇は彼女の本意ではなく、愛人となった最初の頃は、イザベラは夜にひっそりと泣くことが多かった。
 マリウスは最初は容姿が好みだからという理由で、イザベラを囲った。だが、彼女が女としては最高水準の教育を受けていることがわかってくると、徐々に自分の家の事を彼女に任すようになった。
 イザベラも、床のお相手や連れ歩くためのお飾りよりは、女執事として力を発揮出来ることを好んだ。だから、ちょっとしたパーティーを開くための物資や人員の手配などは彼女が引き受けることが多かった。
 しかし、マリウスはいつまでたっても、イザベラに雑用以上の仕事をさせようとはしなかった。
 イザベラはある晩訪ねて来た愛人に、ベッドで「もう少し難しい仕事をさせて欲しい」と頼んだ。
「イザベラ、確かに君の母親は優秀だった。でも、君の父親はレム家をおしまいにした人物だからね。その娘に重要な仕事は任せられないよ」
 イザベラは、マリウスが帰った後、裸のままベッドで声を殺して泣いた。
 彼女がデミトリに気を引かれたのは、そんな頃の話だった。

 イザベラの家は、街の外れにあった。小さな館で、女主人の手で小ぎれいに整えられていた。
 デミトリは優雅なティーカップに注がれた紅茶を、落ち着かなそうにすすっていた。
「あまり女の家にはこないのね」
「それも噂になっているのですか」
「見ればわかるわ。でも、女よりも本や武芸に興味があるらしいという噂は、聞いたことがあるわ」
「そうですか」
「ていねいな言葉を使う必要はないわ。まだ女に興味はない? 」
「どうでもいいという気がするので」
 もちろん、彼はすでに童貞ではなかったが、その体験は「やったことがある」という以上のものではなかった。
「あら、まだ恋をしたことがないのね」
「子供扱いだね」
 実際この女の方が自分よりも年は上だろうと、女の年はよくわからないながらも見当をつける。
「ごめんなさいね。きっと貴方が恋を必要としていないだけのことなのだから、それで大人とか子供とかいうのも変かもしれないわね」
「その通り。別に女がいなくても不自由はしていない」
「ふふ」
 イザベラは楽しげに笑った。
「そもそも、君は誰の女なんだ」
「私はマリウス・アーンスランドの愛人よ。その彼は、貴方に反感を持っているわ」
「別に恨まれる覚えはないが」
「あなたが、武芸や学問に打ち込んでいるのが悪かったのね」
「なぜ?」
「評判の学者、ガーシュ教授が貴方の家庭教師になったでしょう」
「……そうだが、それで?」
「マリウスは彼を息子の家庭教師にと願っていたのだけど、叶えられなかったの。ベリオール様が、これまでの貴方の先生達からあなたの優秀さについて話を聞き、優秀な生徒に優秀な教師を、とガーシュ教授を貴方の教師にしたのね」
「かなり優れた教師だとは思っていたが、そんなに評価の高い人物だったのか」
「そう。武芸の先生やダンスの先生も超一流よ。そして、そのお金は大半アーンスランド家から出ているの。もちろん、貴方の家からもそれなりの生活費がアーンスランド家に送られて来ているのだけれど、魔王の支持で教育費がかなり上乗せされているのよ。だから、アーンスランド家の一族の中から、金の無駄だと反発が起こっている訳ね」
「確かに、人質として来ている他家の子息に金を出すのは、私だって無駄だと思うな。なぜ、そんなことをする。恩を売ったつもりか」
「魔王様には、才能のある者を身分や血のつながりを問わず、好まれるような所があるわ。そういう話を聞いて、私も魔王のお気に入りの少年吸血鬼とやらに会ってみたくなった訳」
「……しかし、アーンスランドの一族に、そういう疎まれ方をしていたとは思わなかった。その通りなら、私が教育費を辞退すればよいのかな」
「それはやめた方がいいわ。何しろ魔王様のご厚意だもの。また高い教育はその個人の財産よ」
「人質に学があっても、たいした意味をなさないだろう」
 勉強熱心な割には、そんなもの無意味だとデミトリは矛盾することを言った。
「本当に人質で終わるつもりなの? 貴方がそれを望んでも、やがて貴方はマキシモフ家に呼び戻される可能性があるのよ」
「それは、その通りだろうな……」
 デミトリは現在の自分の当主継承権の順序が、たったの二番であることを思った。
「だから、アーンスランドの一族は貴方について噂をしているの。『敵に回すとなかなか厄介そうな相手だ』『彼がマキシモフの後を継ぐことがなければ良いが』とね」
「たぶん、継がないだろう。安心しているがいい、という感じだ」
「投げやりなことをいうわね。この境遇じゃ仕方のないことかもしれないけど。でも私はアーンスランドの一族が恐れる貴方が帰国後、高い地位についたら面白いな、と思っているのよ」
 滅んだ一族の末裔、将来に望みのない女はくすっと少年貴族に笑いかけた。

 その後、たびたびデミトリはイザベラの家に招かれるようになった。
 ある日、イザベラは部屋着に乳白色の石のブローチをつけていた。それは台座の細工こそ豪華だったが、石自体はまるで透明度の低い水晶だった。
「その石は石英(水晶とははっきりとした結晶を示す石英である)なのか」
「いえ、オパールよ。かつては、ね」
 デミトリは虹色のきらめきの見えない石を、不審そうに眺めた。
「でも、石英で正解ね。オパールは水晶の一種なのだもの。オパールの輝きは、石の中の水分によるものなのよ」
「割ると中から水が出るのか」
「ふふっ。違うわよ。細かいひび割れがたくさんあって、そこに水分が入り込んでいるの。だから百年もたたないうちに、石は乾いて光を失ってしまうの。……これはまだ少女のころに、お母様にプレゼントされた思い出の品なのよ」
 イザベラは少し悲しそうな表情になって、指でもはや輝かないブローチをまさぐった。
「そうか……」
 何を言ったらいいのかわからず、デミトリは黙った。
「でも、それで貴方まで暗い顔をする必要はないのよ」
 イザベラは軽くデミトリの額にキスをした。
「キスなら、唇にして欲しいな」
 デミトリは答え、イザベラは笑ってその通りにした。
 その日から何回か彼らは会う度にキスをした。しかし、その先にはなかなか進まなかった。
 イザベラはアーンスランドの一族の愛人。そして、デミトリはマキシモフ家当主の弟。
 それが深い仲になったら、かなり問題だ。
 また、イザベラが「女友達」でありたがる姿勢を見せていたこともあった。
 デミトリは内心では「年下のおれを従兄弟か弟のように、思っていないか?」と不満もあった。しかし、この関係がスキャンダルになったら、とても鬱陶しいとも思ったので、あえて手を出さなかった。「いい体だな」とふとした時に、思わない訳ではなかったが。
 そんな関係が崩れたのは、デミトリが外出した帰りに、少し遠回りしてイザベラの家のそばを通った時のことだった。
 暗闇の中で、イザベラは玄関に立っていた。男と抱き合いながら。
 デミトリも顔は知っていた。マリウス・アーンスランド。
 イザベラの正当な主人である。
 あわてて物陰に身を隠すデミトリの前で、マリウスを載せた馬車は走り去って行った。
 デミトリはイザベラが彼に気づかず扉を閉めるのを見て、そのまま帰った。
 最初からわかっていたことなのに、彼女が他の男のものであると実感すると、悔しいのは何故だろう。その夜デミトリは眠れなかった。
 それから数日間、彼はイザベラからの招きを待った。
 こちらから訪ねては行けない。マリウスと鉢合わせする可能性があるからだ。
 何日かぶりに会った女といつものように話をした後、彼は少し気後れしながら、こう言った。
「その……君はきれいだ。抱かせて欲しい。……もし、迷惑でなければ」
 迷惑でないはずがない。魔界一の名門貴族の愛人としての地位を、捨てるはめになるかもしれないのだから。
 デミトリは後年の彼からすると、とても気弱に思える言葉で頼み込んだ。
 イザベラは微笑んだままで表情を止め、デミトリを見た。その目は笑っていなかった。
「……いいわ」
 沈黙の後、デミトリを安心させるように、イザベラは笑い、柔らかく彼を抱きしめた。

 他の男の愛人であるイザベラとの関係は、それ自体未来のないものだったが、自分の将来に絶望に近い思いを抱いていた、デミトリの慰めになった。
 愛人暮らしの長いイザベラは、男に心身両面で奉仕する術を知っていて、若いデミトリの自尊心と情欲を多いに満たしてくれた。
 だが深い仲になってからの彼らの関係は、長く続かなかった。
 ある日彼らが、半裸でベッドで抱き合っていた時、マリウスに合鍵を渡された、彼の部下のエリックが入って来たのだった。
「やはり、こういうことでしたか」
「何者だ!」
 デミトリは慌てて服を整えながら言った。
「エリック!」
 イザベラは全てを理解して、青ざめた。
「知っているのか」
 デミトリは聞いた。
「私は、マリウス様にお仕えしているものでございます。ここへは主人の命で参りました」 軽装の鎧を身につけたエリックは、慇懃無礼に答えた。
「マリウスは、私の浮気を疑っていたのですか」
 イザベラは胸元をかきあわせて言った。
「いえ。怪しいと思っていたようですが、マリウス様はそういうことは大目に見る気でした。監視がついていたのは、男の方です」
 デミトリの眉間に悔しげなしわが寄る。
「人質に監視がつくのは当然でしょう。デミトリ殿。貴方を見張る役目の兵士たちが、貴方が何度も彼らをまいて何処かへ行くので、隠密行動のプロに行き先を突き止めて欲しいと、申し出たのですよ。もし、アーンスランド家に対して良からぬことをしているのなら、大変ですからね」
「そして、探ったらこういうことだとわかった、と」
 デミトリはエリックを睨んで言った。
「その通りです。違う意味で見過ごしにできない、アーンスランド家に対する裏切りでしたね。おふたりの処罰は、後程マリウス様ご自身が帰られてから決まります。イザベラ様の処分はマリウス様が決められますが、デミトリ殿のは他のアーンスランド一族の者とも相談して決めねばなりません。ですが、おそらくこれはかなり重い罪になるでしょう」
「アーンスランド一族は間男に厳しいのか」
 デミトリは皮肉に言った。
「もちろん、スパイ容疑です。イザベラ様。まさかこの男にマリウス様をはじめ、アーンスランドの一族の情報を、全く話さなかったとおっしゃりはしませんね。たとえそうでも、誰も信じませんよ」
 エリックが嫌みたっぷりに言う。その言葉が終わるか、終わらないかといううちにデミトリはその顎を思いっきり蹴り上げた。
 不意をつかれ、エリックがバランスを崩すのを逃さず、みぞおちに拳をたたき込む。
 エリックが壁に背中を打ち付ける。彼の鎧ががしゃんと音を立てた。
 エリックが、近づくデミトリを狙って拳を繰り出す。それをかわしざま、兜を被っていない無防備な頭の毛を引っつかんで、壁に後頭部から叩きつける。
 さらに顎にもう一発お見舞いして、デミトリはイザベラを振り返った。
「逃げるぞ!」
 イザベラは一瞬躊躇したが、彼に続いた。
 デミトリは、イザベラの手を引いて往来に飛び出した。近くで馬車を拾う。
 それで郊外の森の近くの宿場町までひとまず逃げ、そこに宿をとった。
 だが彼らに行くあてはなかった。人質であるデミトリが勝手にアーンスランドの領地を出て、マキシモフ領に帰るのは、アーンスランド、マキシモフ両家に対する裏切りにほかならない。もしマキシモフの領地に足を踏み入れれば、魔王を要する一族の怒りを恐れた、彼の血族に捕らえられることは確実だ。
 ではどこに? ドーマの領地にでも、さすらい者として?
 そもそも、アーンスランドの領地から出られるのか?
 実際彼らに悩む間などなかった。
 人質と一族の者の愛人に逃げられた、アーンスランドの一族の追求は厳しかった。
 一夜明けると共に、彼らの泊まっている宿にも追っ手が踏み込んで来た。馬車で一日で行けそうな町という町に、追っ手は放たれたようだった。
 人相書きを携えて、兵士たちが宿の主人に質問をしている。
 それを見て、デミトリはイザベラを連れて、窓から逃げた。逃げるしかなかった。
 町中をうろつく、兵士たちの目を必死に逃れて、デミトリ達は森へと入った。
 襲い来る魔界獣をあっさりなぎ払い、彼らは森の奥の粗末な小屋にたどり着いた。
 それはそこらの木を切り倒して作ったらしい、丸太小屋だった。風雪に色あせた外見の割に、中の作りは手が込んでいた。本棚に並んだ本は一昔前の名作で、背表紙の文字はかすれていた。それらのことから、教養ある世捨て人が住んでいたのだろうと、デミトリは思った。
 ともかく、今夜はここで過ごすほかなさそうだった。
 デミトリは、イザベラとともに質素なテーブルに座り、井戸水を白い陶器の椀で飲んだ。 かなりの間、ふたりはこれからどうするかと話し合ったが、事態の打開の方法は見いだせなかった。
 アーンスランド家は、魔界最強である魔王ベリオールを当主とする一族。
 デミトリはそれを身一つで敵に回しての、己の無力が悔しかった。
 敵には、強大な権力がある。自分たちがいる小屋の土地も含めて、この辺りの土地全てがアーンスランド家のもの。街道という街道を兵士に見張らせることも彼らは出来、実際そうしているのだ。
 自分には何もない。強い魔力に恵まれ、多少武芸を学んでいたところで、女ひとりを自分のものとして守りきることも出来ないのだ。
 無力感に苛まれる彼の目の前で、イザベラはため息をついた。
「帰りたいわ。このまま逃げても惨めな思いをするだけよ。いずれ捕まるわ」
 デミトリに対し、優しくなだめるような調子で、イザベラは言った。
「あなたもこのまま逃げても、それはマキシモフ家当主の弟という地位を、投げ捨てることでしかないわ」
「帰るしかないのか。あの男に頭を下げに。ひざまずいて許しを請うために」
「貴方には辛いでしょうけど、このまま逃げても自体を悪化させるだけよ」
「そうなると、君には二度と会えないのかな」
「それは仕方がないわ。私はマリウスのものだもの」
 女は静かに微笑んでみせたが、デミトリはその言葉に逆上した。
「あの男には渡さない!」
 デミトリはイザベラの手首をつかみ、飛びかかるようにして押し倒した。
 イザベラの座っていた椅子が大きな音を立てて倒れ、床に転がる。
「いや、いやあっ」
 耳障りな悲鳴をあげて、あらがう女の頭を押さえ付け、首筋に力を込めて牙を突き刺す。「ひ…やめ…」
 牙を抜くと血が傷から溢れ、木の床に小さな血溜まりを作る。
 そこに唇を押し当てて、血を啜る。
 焦っているので味はよくわからなかったが、デミトリは流れ出す血をひたすら飲んだ。
 やがて、イザベラの体は冷え、顔色は雪を固めたように白くなった。
 頃合いだと思って自分の血を与えようとしたデミトリは、自分の手を見て、自分の姿がその本来のものにいつの間にか戻っていることに気が付いて、愕然とした。
 部屋の隅のひび割れた鏡に目をやる。
 血まみれの口に鋭い牙。背中には爪の突き出た、大きな蝙蝠のものに似た翼。全身の肌は青黒く、目は真紅に燃えていた。
 上品とも優雅とも言われぬ、彼本来の姿がそこにあった。
 彼は一瞬言葉を失ったが、次の瞬間、自分の腕に牙を突き立てた。
 そこから流れる血を、鋭い爪の生えた指でこじ開けた、イザベラの口に滴らす。
 しばしの時が経ち、自分の血が止まると彼は、その傷痕を長い舌で嘗め、すでに意識のないイザベラの血塗られた唇に接吻した。
 下僕となることを拒んだ女を無理やりそうしたのは、それが最初で最後。
 一夜明け、デミトリの魔力に呪縛されたイザベラは彼の「この先どうしたらいいか」という問いに従順な調子で答えた。
「引き返すのが、あなたの将来のためにはよいと思うわ」
 変わらぬ答えではあったが、その言葉からは昨日までの男をあやすような調子は消えうせていた。少し青ざめた男の前でひとり安らかな笑みを浮かべ、イザベラは言った。
「でも、すべてはあなたの望みのままに。私はそれに従います」
 冷たい水のような孤独感が彼のうちに溢れた。
 彼は今、得ようとした女を失ったのだった。
 しばし沈黙した彼は、歪んだ笑みを浮かべて言った。
「それでは戻ろう。すべては我が野心のために」

 森を出たところで、彼らが何者かを問わぬ怪しげな馬車を拾い、デミトリはイザベラとともに、魔王の城の城下町の外門を目指した。
 そこで門番に名乗ったデミトリを、兵を引き連れたマリウスが迎えた。
「待ち兼ねたぞ。この放蕩者が。さあ、私のお気に入りを返してもらおう」
「それは無理だな」
 デミトリは冷笑して、イザベラの喉を示した。
「この……貴族の子息だからといい気になって! 他の男のものに手を出したらどうなるかわからせてくれる」
 マリウスは無理やりイザベラをデミトリから引き離した。
「そいつを閉じ込めろ」
 デミトリは城の一室に監禁された。
 しかし、彼は妙に平静だった。人質である自分を殺すことは出来ない。ただ、この事件の結果、彼の兄が後始末に追われ、自分はマキシモフ家の名誉に傷をつけた好色な若者ということになるのだろうとは思った。
 だが、敵を作ることはもはや怖くなかった。周囲は敵だらけ。当然のことだ。
 その中で生き残るには……力だ。
 強くなりたい。
 彼は心の底からそう思った。
 一週間後、彼は外に出された。
 連れられて行った所は、なんと魔王の応接間だった。
 魔界中の贅沢品を集めたと思われるような、その調度の見事さに、彼はここには「力」があると感じた。
 ベリオールは何を考えているのか掴めない笑みを浮かべていた。
 その場にはベリオールの他に彼の「懐刀」たるアーミッシュとマリウス、そしてイザベラがすでに控えていた。
「少しは反省したかね」
「はい、私が愚かでした」
 自分の無力も顧みず女のために大騒ぎをして、と内心で彼は続けた。
「マリウス、彼もこのように反省している。若気の至りとして許してやる気はないか」
「魔王様のお言葉でしたら……しかし、私も大いに名誉を傷つけられたのですから、その償いはマキシモフ家当主殿にしていただかないと」
 デミトリは兄が自分について好意を抱いているという期待は持っていなかった。しかし、兄とてベリオールの一族の者を怒らせたくはないだろう。だから、何らかの賠償をすることはするだろう……。
 そんなデミトリの考えを魔王の一言が破った。
「デミトリよ。お前の兄は死んだ。戦場でな。母も毒殺された。寝室でな」
 はっ、と彼は顔をあげた。
 魔王は告げた。
「すんなりとはことは運ばないだろうが、今やお前こそがマキシモフ家の当主の座を一番に継承する権利を持つ者だ」
「私が……それでは?」
「そう。さすがにお前を人質として、このままこの城にとどめる訳にもいかない。すぐ帰れ。そして当主の座につけ。このことは先にマリウスとも話してある。イザベラは連れて行くがよい。もはやこの女の主はお前以外にない。その代わり当主としてちゃんとマリウスに償うのだ」
「はっ、かしこまりました。それでは私は帰らせていただきます。ご厚意感謝致します」
 その時、デミトリの胸の野心は冷たいものから、熱くたぎるようなものへと変じた。
 彼は続けた。
「もちろん、私としては当主の座に着いてからも、アーンスランド家に対して臣下として親密な関係を持ちたいと願っております。ですから、誠に申し訳ないのですが、私が無事に領地へ帰り、当主の座につけるようお力添えを願いたいと思っております。まずは、少しばかりの兵をお貸しいただきたいのですが」
 ベリオールはほほうという感じに笑った。
 彼は何かいいたげなマリウスを制し、こう言った。
「わかった。我が力を貸そう。吸血鬼の長として名を馳せるがよい」
「光栄に存じます」
 デミトリは深く頭を下げた。
 そして彼はイザベラを伴って領地に帰り、当主の座に着いた。
 数年もたたないうちに彼は冷酷で狡猾な領主として、周囲の貴族達に恐れられるようになる。
 権力の座に付くとともに彼の元には、彼の寵愛を得ようとする女達が群がった。
 彼はその中から選りすぐって、自分のまわりにはべらしていたが、300年の年齢の割に彼の愛人の人数は少なかった。短期間関係をもった女達の数は相当数にのぼるが、しもべとされた女の数は意外な程少ないのだ。彼はある貴族の男にこう語っている。
「一度吸血鬼にしたら、戻すことはできないのだよ」
 彼の「下僕にしたら、その後ずっと面倒を見る」という姿勢は、非常に女の受けがよく、彼のしもべとして一生を安楽に暮らしたいという女、一時期でもよいから彼の寵愛を受けたいという女は後をたたず、「私は無理に女を従わせている訳ではない。女達が喜んで私に喉を差し出し、体を開くのだ」というデミトリの言葉は、多くの者に真実として受け入れられていた。
 また彼は貴族の女を食用にすることはなかったので、身分ある女達は賞賛の意を込めて彼を「闇の貴公子」と呼んだ。
 そのような状況があったので、デミトリはモリガンに対しても、「大切にしてやろう」と囁いていた。
 が、「あなたのいう『大切にする』の前提は独占。そんなのごめんだわ」と断られ続けたのである。
 今の今まで、礼儀正しくしていたのは自信があったからだ。しかし、夢魔たるモリガンはおそらく男など愛さないだろう。
 ならば、力の行使あるのみ。
 デミトリはぐっと拳を握り締めた。
 彼自身は気づいていなかった。ずっと彼がモリガンに無理に牙を突き立てようとしなかったのは、少年時代にイザベラに対してそうした時に感じた、あの孤独感と喪失感がまだ記憶に残っているからだった。
 ……すべてはあなたのお望みのままに。

                     第九章に続く


 2000.6.22.脱稿

 作者 水沢晶

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