第九章 ダイアモンド・リング
デミトリは鉄のワゴンを注意深く押しながら、地下牢への通路を下りて行った。
その途中の段差があったり、階段になっているところは、人並み外れた力でひょいとワゴンを宙に持ち上げ、それが帽子の箱でもあるかのような軽い足取りで降りていく。二段になったワゴンには、食事と大きな水瓶、箱型トイレの替えと下着を含む衣服の入ったカゴが乗っていた。
牢の前につき、強固な扉と複雑な錠を次々に開けて行く。すでに慣れたことだった。
デミトリは食堂と玄関の間のカーテンを開けた。食堂にはモリガンはいなかった。
錠をしっかりと降ろし、ワゴンを押して寝室に行く。
ベッドのカーテンは厚く降りていた。
静かに声をかける。
「起きたまえ、モリガン。食事の時間だ」
「……いらないわ」
「飢え死にする気かね。ならば、そうするがいい。私としては君が死んでもよいのだ。魔界の扉は何としても手に入れる」
「……」
「ここで私の野望の犠牲になって、死ぬというならそれもいいだろう。だが、死んだら君にとって全てが終わりだ」
モリガンは黙って、カーテンを引いた。
包帯で巻かれた腕をのばし、デミトリからスープの皿とスプーンを受け取る。危なっかしい手つきだった。
一日食事抜きだったため、モリガンは黙々と食べて残さなかった。
何も言わず食器を返して、ベッドに横になって、デミトリに背を向ける。
「お行儀が悪いね、モリガン。こういう時は『ごちそうさま』だろう」
「……」
ぱちん、と頬を打つ音が高く響き渡った。
「あっ!」
モリガンが頬に手をあててデミトリを睨む。
「忘れてはいけないな。ここにいる限り、私が君の主人だ」
「……ごちそうさま」
小さな声で言う。
「それでいい」
満足そうに言って、すっとベッドに座ったままのモリガンを抱き寄せた。
モリガンは反射的に身をこわばらせたが、逆らわなかった。ここで抵抗しても傷が増えるだけだ。
デミトリは唇を重ね、舌を差し入れた。医師の言葉を思い出したが、自分が欲情して悪いことはないと思い、そのまま舌をからめた。長いキスの後、まだ身を固くしたままのモリガンの耳元で囁く。
「恐れる必要はない。抗わなければ、傷つけない」
そう言って寝間着と下着を手早く脱がせる。まだ傷の癒えていない肌と包帯が露になる。
モリガンは顔を背けて、されるがままになっている。
「私の顔を見ろ。これは命令だ」
デミトリが強く言うと、ひどく無感動な目が向けられた。女の凍りついた瞳は、男を拒絶していた。
彼女の感情としては当然ながら、デミトリはむっとした。唇の両端を吊り上げ牙を剥き出し、首筋をつかんで宣告する。
「もはや、君の命も君の体も私のものだ。心だけは自分のものと思ってはいけない。この牙でそんなものはいつでも奪える。ただ気まぐれで君に預けているだけのことだ」
無言のモリガンに彼は命じた。
「わかりました。デミトリ様、と言いたまえ」
「わかりました。デミトリ様」
その声は、ちょっと聞いたところ愛に満ち溢れているかのように甘かったが、デミトリの鋭い耳はその中に殺意に近いほどの怒りを聞き取った。
「……わかった。ならば見せかけの情愛や口先だけの服従などなくてもいい。こっちも勝手にやらせて貰う」
言い捨てて、彼はモリガンの腰に手を回した。
「どうせ淫魔の君は抱かれれば感じるのだろう? 」
その皮肉に、女は男の唇に人差し指を当てて言った。
「一緒に楽しみたいというのなら、その意地悪な口を閉じて頂戴」
「ほう。言葉でいたぶられるのには、慣れていないのかね」
「私は、ベッドの上ではあまり侮辱されないの」
男の優位に立つことに慣れた美女は、ふっと笑った。
「なるほどな。ならば、ほめてやろうか」
デミトリはくっくと笑った。嫌みを承知で甘く囁く。
「君は美しい。肌も滑らかで、寝床での声もいい、実に素晴らしい女性だ」
「そんな女を、モノにしている自分はさらに素晴らしい……といいたいのでしょう」
モリガンの辛辣さに軽く眉を顰める男の胸に、女はしなだれかかった。
「言葉はいらないの」
たくましい背中に長い腕をまわす。その指は優雅にそして淫らに彼の肌をはった。
「何も言わずに、して」
目を閉じて、頬を冷たい肌につけてささやく。
その挑発を文字通りに受け取って、デミトリはものも言わずにモリガンを押し倒した。
銀髪を乱したまま、傍らに寝そべっているモリガンに彼は言った。
「望むなら、もう一度抱いてやろう。私が欲しいだろう?」
モリガンはその声に、初めて自分を抱いていた男が誰だったかを思い出したように、デミトリを見た。
物憂げに上半身を起こして答える。
「別にあなたが欲しいんじゃないの。でも、男の体は欲しいかもしれないわね」
その言い方は、デミトリの甘い気分に水をかけた。
「男なら、誰でもいいのかね」
皮肉に言う。
「最低最悪の男しかいないのでも、男がいないよりはいいわ」
モリガンは、ふっという感じに微笑んでデミトリを見る。
「肉体欲しさかね。それに私がろくでもない男だと?」
軽くモリガンを睨む。
「体目当てはお互い様よ。そして少なくともあなたは、他にたくさんの男がいるときには、私に選ばれなかった。それだからこそ、私をここに閉じ込めたんでしょ」
冷ややかな笑みと手厳しい言葉。デミトリはカッとなったが、ここでひっぱたくのも、女の指摘の正しさを認めるようなものだと思って抑えた。
「君を閉じ込めたのは、君が余計なことを知ってしまったからだよ。しかしその冷めた調子からすると、『もう一回』はいらないな」
「そうね。それじゃ、さよなら。また次の食事の時にお会いしましょう。デミトリ様」
モリガンはもうお互い用はないでしょうとばかりに微笑んで、デミトリを自分のベッドから降りさせた。
その次の日の晩のモリガンの食事が終わった後、デミトリはさっさとモリガンを寝室に連れていこうとした。だが、「食後すぐはさすがにいや。食べたものを吐きそう」と言われてしまった。
食堂での会話が弾まなかったので彼は、居間でピアノを弾いてモリガンに聞かせた。
曲は甘い感じの夜想曲。
手の大きい彼が爪先で軽く触れるだけで、ピアノは美しい音を奏でた。
「昔、教養として習ったにしては、上手いわね」
さして感心したとも思えぬ口調で彼女は言った。
「お褒めいただき、恐縮だ」
「あら、そのダイアの指輪は新調したの?」
デミトリの右手薬指には、大粒のダイアモンドの指輪が輝いていた。
「魔王陛下からの賜り物だ」
モリガン争奪戦の残念賞のダイアである。
「ダイアがお好きなのかしら」
「好きだな。昔から戦士の護りとされた石だ。硬く、他の石では傷つけられないことから、『征服されざるもの(アダマス)』という言葉を名の語源にしている。これは君も承知だろう」
「ええ。でもあなたの指輪の石なら、アダマスより婆娑羅という名の方がふさわしいわね」
「バサラ?」
「人間界の『東洋』に行った時に知った言葉よ。元は仏教用語だったみたいね」
モリガンはふふと笑った。
「ダイアモンドの名のひとつでもあるけれど、『一方的で強引』を意味する言葉でもあるわ。他に砕かれず、他を砕く。そのことからね」
「なるほどな……」
デミトリは少しだけ唇を歪めて、笑って見せた。
「でも、ベッドの上では石のついた指輪は外してよ」
「中指ならともかく、薬指ではたいした危険もあるまい」
といいつつ、指輪を外す。モリガンは「ちょっと見せて」と手を差し出した。
その手に指輪を転がす。指にはめてみてモリガンは「やっぱりデミトリ、指太いわね」と言った。
「でも、このダイア、本当に上質ね。石自体が光を放っているよう」
「もらったダイアはほかにもある。おそろいの指輪を作ってやろうか」
「いいわ」と、モリガンはデミトリに指輪を返した。
「そのダイアはあなたが、その思い出と共に大切になさったら」
魔王から賜ったダイアの思い出とは、モリガンに打ち砕かれた記憶である。デミトリは指輪を上着の内ポケットに入れながら、少し不機嫌な顔になった。「そうだな」と答えて、モリガンをぐっと抱き寄せる。
「もう、いいだろう」
「……いいわ」
モリガンがうなずくと、デミトリはそのままモリガンを抱え上げ、ベッドへと運んだ。
デミトリがモリガンと連日性交渉を持つようになってから、五日程が過ぎた。
デミトリと激しく体を重ねた後、いつもモリガンは「終わったんなら、さっさと帰って」といわんばかりの冷ややかな態度をとった。
だから、彼の方も、
「楽しかったよ。では、私は忙しいので、これで失礼する」
とか言って、一度の交渉で寝室を出るのだが、その日彼女はこう言った。
「あら、もうお帰り?」
「忙しくてね」
「仕事? 他の女? そんなの忘れて、一日中いいことしましょうよ」
寝乱れた姿のまま女は微笑んだ。
「…………断る」
「どうして? 気持ちいいじゃない?」
とモリガンはすっと彼の方へ手をのばしたが、彼は後退りしてかわした。
「君は私を操ろうとでも考えているのかね」
「別に。独りでこの部屋にいるのが、つまらないだけ。あなたと一緒にいたいわ」
「その手で何百の男を堕とした? とにかく、今日は帰らせて貰う」
「あら、淋しいわ」
デミトリはモリガンを振り返って、ちょっと言いよどんだ後、
「また、来る」
とだけ言い残して去った。
彼自身の執務室に帰ったデミトリは、書類に目を通しながら苛々としていた。
書類は多く、彼がなさねばならぬことは山のようにあった。
ガルナンが死んでからデミトリの仕事は、二倍以上に増えた。
ベリオールを倒すためには、誰と協力し、誰を打ち負かし、どこの土地をとり、どんな物資や人員を確保すべきなのか。
最終的判断をくだす者は彼以外にいない。
なのに、ここしばらくは、彼が普段より長く女と時を過ごしているため、仕事は滞りがちで、その分イザベラや参謀のキーツたちが必死で働いていた。
報告書を手にしたまま、ほおづえをついて考える。
先ほどのモリガンの誘いは、どういうことだったのだろうと。
冷静に考えれば、「淫魔の誘惑」以外の何物でもあるまい。
地下牢に閉じ込められているモリガンにとっては、自分を手なずけたり、騙す以外に、そこから出るチャンスはない。なら、今モリガンが「貴方が好き」と言ったところで、それは寝首をかこうとしているのだと思うのが正しいだろう。
しかし、「つまらないの」という彼女の言葉にも真実味はある。
ならば、もう一回ぐらい体を重ねた所で、悪くはなかったのではないか。
「……などと、考える男はすでに、サキュバスに惑わされている……」
と、デミトリはつぶやいて、自嘲の笑みを浮かべた。
そうしながらも、つい先ほどのことであるモリガンとの行為を思い出してしまう。やはり、あの肉体はいい。彼女自身の具合のよさもさることながら、あの態度がそそりにそそる。
モリガンは相変わらず彼との時に言葉を発しなかった。だから彼も言葉は使わない。
闇の中で互いの肉体だけが睦み合う。聞こえるのは互いの喘ぎと、肉体のこすれ合いや打ち合いによって立つ音。
話している時の冷ややかさと絡み合っている時の激しさの落差が、余計に彼を駆り立てていた。それでもう最近はほとんど会話もしないで、さっさと始めてしまっていた。女もそれを望んでいるようだった。
ことの最中だけは、互いに求め合い、それぞれの存在を喜び合っているような気がする。いや、肉体面に限ればそれは事実だ。
だが……。
彼は舌打ちして、イザベラを呼びつけ、寝室にカミーユとマドレーヌを待たせて置くようにと言った。
イザベラは何かいいたげだったが、彼女らを呼びに出て行った。
「デミトリ様……」
寝床の中でカミーユが彼の名を呼んだ。
「どうした? 」
滑らかな肩に指を這わしながら聞き返す。
カミーユは彼の愛撫を受けながら、ひどく真剣な目で彼を見て囁いた。
「もしかすると、地下牢に閉じ込められている女性というのは、モリガン様ではありませんか」
「な…!」
デミトリは驚いてカミーユを見た。
そのことを知る者は、この城には彼以外いないはずであった。
いかに彼の下僕たちが口が固いといえど、情報というのは何処から漏れるか解らない。だから閉じ込められている女の名は、側近にも伏せられていた。
「なぜそれを知った」
「匂いです。この前も同じ匂いがデミトリ様からしました」
「……鼻がいいな。マドレーヌ、部屋へ戻れ」
デミトリは彼の背中に胸を擦り寄せていた女に命じて下がらせた。
モリガンを抱いた後、体を洗わずに他の女をベッドに連れ込むようなまねをしたのは、自分の油断だったとデミトリは思い、勘の鋭さで知られる一族の女を見た。
「詳しくそう思った理由を話したまえ」
「私があの方の匂いをかいだことがあるのは、あの舞踏会ですれ違った時位のことですが、よく覚えています。その特徴はまず、香水です。今流行っているのは百合の花の香水ですが、あの方は薔薇の花でした」
「その香水をつけている女は他にいるのではないかね。そもそも、私が焚いている香も薔薇の香りがするが」
「あの香水、『薔薇のまどろみ』は最高級品で個性があります。それから、あの方の夢魔独特の体臭は、他の種族の女のものではありません。それを嗅いだものを陶酔の境地に引き込む、動物的で甘ったるい匂いは、どんな調香師もこれまで合成できなかったと言います」
カミーユはそこで一旦目を伏せた。
「それにそう考えれば、デミトリ様の最近の言動の揺れも納得が行くような気がして……」「言動の揺れ?」
「機嫌がよくなったり悪くなったり、苛立ったり。特に地下牢から帰った後に。そして……ここしばらく、変に盛んでいらして……」
「よくわかった。カミーユ、君の勘の鋭さには脱帽する。その通りあの牢にはモリガンがいる。そしてこのことは絶対に秘密だ」
「仰せのとおりに」
忠実そうに答えるカミーユをデミトリは、もう話は終わったとばかりに押し倒した。「他の女の匂いのする男に抱かれるのは嫌かもしれないがね」
「……いえ、デミトリ様。喜んで」
女は一瞬切なげな目をしたが、求められるままに主人に体を開いた。
「まったくもう。デミトリ様も変に意地になって」
その晩アデュースは地下道を探りながら、人間の姿で肩の闇鼠の話を聞いていた。
地下道も下の方となると石組みの通路ではなく、天然の洞窟に手を加えたようなものになってくる。ひんやりと湿った空気が両者の頬を撫でる。蝙蝠の住処にふさわしいような場所だったが、元人間のアデュースには今ひとつこの静けさが好きになれなかった。
闇鼠はベッドの下で盗み聞きしていた、デミトリとカミーユの話を彼に聞かせた。その中の「機嫌がよくなったり悪くなったり」という件を鼠から聞いて彼はため息をついた。
「どんなに手を尽くしたって、あのモリガン様が『あなたには負けたわ。本当に強いのね』とか『あなたを愛しているわ。ずっと一緒にいたいの』とか『あなたって凄くセクシーね。もう離れたくない』とか言い出す訳がないんだから、さっさとあきらめればいいのに」
「確かにその方がお互いのためかもねえ」
とアンナが応じる。
「だいたい、始終サキュバスの体臭なんて嗅いでいたら、精神のバランスが崩れて当然なんだし。……でもこの場合あきらめるというのは、モリガン様に止めを刺すとか言うことになってしまうんだろうね。ふぅ」
再びため息をついたアデュースの耳に、微かなピアノの音が聞こえた。曲はかつて自分がモリガンに教えた曲のひとつ。
立ち止まったアデュースに、アンナが不審そうな顔をする。
「もしかしたら、デミトリ様はピアノ付きの牢獄にモリガン様を閉じ込めているのかな? ……優雅な男だね」
独り言のようにつぶやき、アデュースは音のする方へと、耳を澄ましながら進んだ。
第十章に続く
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