Sorry,this fanfiction was written in Japanese.

第七章 ダイアとルビーの首飾り

 モリガンは夜中に目を覚ました。
 起き上がろうとする。が、そのとたんに激痛が走った。
 暗い中に目をこらし、体をなでて見ると、自分がほぼ全身に擦過傷や打撲傷を負っていることがわかった。そして大きな傷には薬が塗られ、湿布が張られていた。
 あの高さから落ちて、この程度で済んだのなら幸運だったのだろう……。
 おそらく、一週間ほど寝ていれば、動けるようにはなるはずだ。
 幸運?
 モリガンは眉をひそめた。 自分の運の強さや肉体の丈夫さには自信があったが、あの高さで骨一本折れていないのはあまりに不自然だ。
 それに、コウモリたちはどこだろうか?
 アデュース達コウモリも地に落ちたはずだ。彼らは生きているのか?
 そもそも……ここは、どこかしら?
 見慣れないベッドと嗅ぎ慣れない香り。
 天蓋付きのベッドは豪奢な代物だったが、レペの一族やアーンスランドの一族の館ではおそらくあるまい。
 調度のセンスが違う。モリガンはベッドのカーテンや柱を眺めて思った。レペ家の支配する地方の織物は、もう少し地味な色合いで幾何学的な模様のものが多い。
 もちろん、輸入品という可能性もないではないのだけれど、これは……あの男の治める地方の織物だ。華麗な花柄のドレスを送られたのでよく覚えている。
 部屋に立ち込めている、官能的な薔薇の香もそうだった。以前近づいたとき、あの男自身の体臭にまじり、この香りがした。
 まさか……私をここに連れて来たのは……。
「デミトリ! いるの! いるんならでていらっしゃい!」
 モリガンは、大声で叫んだ。
「おや、お目覚めかね」
 まさかいるとは思わなかった、本人の声がした。
「気分はいかがかな」
 大きな手がカーテンをばさりと引いた。
「やはり、あなた……でもなぜ?」
 デミトリの唇には面白がるような笑みが浮かんでいた。
「君が空から落ちて来たので、通りがかりに拾っただけだが」
「それはどうもありがとう」
 警戒心を隠さないまま、型通りのあいさつをする。
「私のケガが浅いのは、あなたが受け止めてくれたからなのね」
「そうだ。傷が治るまでゆっくり休むがいい」
 デミトリは優しげに微笑んだ。
「お気遣いありがとう。それで、いつごろ家に帰していただけるのかしら」
「そのつもりはないな」
 男はあっさりと言った。
「え! ……それは私を監禁するということなの?」
「そういうことだ。私としてはこの幸運をふたりの運命と思っているよ。君が魔界の扉をくぐりぬけそこなったのは、君にとっては失敗だったが、私にとってはまたとない機会だった」
 モリガンはその言葉にぞっとした。
「……なるほど、ね。レペ家に金を積んだか、脅しをかけたかして、あの場所を借り切ったのはあなただったのね」
「怒った顔も魅力的だ」
 デミトリはきつい目で自分を睨むモリガンの顔をしばらく笑って眺めていたが、こう言った。
「そう。君がしょっちゅうあの扉を通っていたのは知っていたからね。あそこに罠をかければいずれ君がひっかかると思っていた」
「随分なご苦労をなさったものね。女一匹を捕まえるためにわざわざ他の国の領主に話をつけて」
 ベッドに上半身を起こした状態で、モリガンはデミトリに皮肉な一瞥を投げた。
「そのおかげで、魔界一美しい女が手に入ったのだ。満足しているよ」
 デミトリはモリガンの肩を抱き寄せると、強引に口づけをした。
「いやっ」
 男の肩をモリガンは必死で押しのけた。
「何よ。このまま監禁して毎晩玩具にしようとでもいうの」
「それもいい考えだな」
 楽しげに微笑んで言葉を続ける。
「だが、それはもはや、いつでもできることだ。お供のコウモリのいない君は剣を持たない名剣士のようなものだからな。まず、素手では私には勝てないだろう」
「そんなのやってみなければわからないわ」
 モリガンは言ったが、デミトリは余裕たっぷりの笑みを浮かべただけだった。
「このまま一週間も閉じ込められれば、退屈にたえられない君は私の前にひざまずき、自ら喉を差し出すだろう。『あなたのものになります。だからここから出して下さい』と」
「ここからって…」
 モリガンはデミトリの背後を見た。窓枠に彫刻を施した窓が開いている。窓の外には月と星、夜の森が見えた。
 だが、よく見るとその窓の外の風景は絵だった。
「まさか、ここは閉ざされた部屋なの?」
「その通り。調度は整えてあるが、実は地下の牢獄で、寝室と食堂と居間、そして浴室だけがある」
「トイレは?」
 見当はずれとも言えるが、深刻なモリガンの質問にデミトリはくっくっと笑った。
「浴室の前に蓋付きの箱型トイレが置いてある」
 つまり、おまるの高級なやつである。水道も下水道もつながっているとは思えない、地下牢には水洗もくみ取り式も向かないだろう。
「もしかして、おふろも水浴のみなの?」
「ここで薪や油を燃やしたら、君が酸欠になってしまう」
 どおりで明かりが3本立ての燭台ひとつきりだ。
「それでは、もしかしてあなたが、毎日私のおふろの水を上から運んで来て下さるのかしら」
「召し使いに運ばせたいところだが、この牢に私以外の者を立ち入らせるつもりはない。だからそれは、仕方がないな。やはり、女性には身ぎれいにして欲しいものだ」
 皮肉なモリガンの言葉に、デミトリは涼しげな顔で応対した。
「文字通りの監禁ね。卑怯者」
 デミトリは声を低くした。
「君はアーンスランド家の後継者だ。もしばれれば、私とてただでは済まない。命懸けのこの思いをわかって欲しいものだね」
「……」
 モリガンは無言でつんとそっぽを向いた。
「それではこれで失礼する。食事は食堂に鳥料理が用意してあるから、冷めないうちにどうぞ」
「男は用意してくれないの?」
「お望みならば」
 とデミトリは再びモリガンを抱き寄せた。
「あなたは男のうちに入らないわよ! 今すぐ出て行って」
 再度の拒絶にもデミトリの笑みは消えなかった。
「おやおや、つれないことを。以前あんなに熱っぽく抱擁しあった仲だというのに」
「私を閉じ込めるような男は大嫌いよ。顔も見たくないわ」
 モリガンは激しい調子で言ったが、デミトリはさらりと受け流した。
「また来てあげよう。逃げようとしても無駄だ。七つの扉、三つの封印、十二の錠が君を閉じ込めているのだから」
 そう言って、彼はマントをなびかせて立ち去った。
 そして、錠を外す音が聞こえて来た。その音からするに、彼の言うとおりいくつもの複雑な錠や結界がモリガンをここに閉じ込めているらしかった。
 モリガンはベッドにどさりと寝転んだ。
 さすがにすぐに鳥肉なんて食べる気にならなかった。あの男のことだ。最高級の品を用意したのだろうが。
「そういう所にばっかり心を込めないで欲しいわね」
 あまりにも静かすぎるので、つい誰もいないのにしゃべってしまう。
「でも、おかしいわね」
 声に出すと、ますますおかしく思えてくる。
「私を誘拐してあの男に何の得があるというのよ」
 はっきり言って、秘密のうちに監禁したところでデミトリの手に入るものは、モリガンの肉体のみだ。
 もちろん、デミトリがそれを欲しがっていることも感じているが、彼が肉欲のために魔王を敵にまわすような真似をするほどの愚か者とも思えない。
「私の美しさがあの男を狂わせたのね……」
 と口に出してみて、モリガンはやはり嘘臭いと思った。
 モリガンは自分の女としての魅力に絶大な自信を持っていたが、ナルシシズムのために他者に対する認識を根本から誤るほど愚かでもなかった。
 デミトリは、「君が好きだから、扉を借り切って罠を仕掛けた」とか言っていたが、それはあまりにもおおがかりな話だ。
 証拠、証言が残り過ぎる。
 モリガンは救出の手が来るとしたらどこからだろうか、と考えた。
 まず、執事のペジだ。
 モリガンの行く先が人間界という見当は彼ならつけられるだろう。
 そうなれば、真っ先に捜索されるのは、レペ家の所領の「扉」付近のはずだ。
 「扉」をその時借り切っていた人間が何か知っているはずだ……というのは誰でも考えつく。
 もちろん、番人もレペの当主もすぐには口を割るまい。だが、魔王の権力の前にいずれ白状するはずだ。
 特に、「二週間後にまたおいで下さい。その方の部下がお帰りになるので通れます」などと言った番人が何も知らないとは思えない。誰かが彼に嘘をつかせたに違いないのだ。
 ならば、犯人がデミトリであることは容易にわかるだろう。
 ……しかし、その程度のことに考え及ばぬデミトリだろうか。
 わからないわね……。
 モリガンは頭をふって、気分転換に食堂に行った。
 さすがにまだ体が痛むので、そろそろと壁伝いに歩いた。
 食堂は、そこそこ広かった。小さなテーブルに椅子が二つ。
 そして扉を開くともうひとつ小部屋があった。これが「居間」だろう。隅にアップライトのピアノが置かれていた。退屈しないようにとの心くばりだろう、その上の釣り棚には楽譜がぎっしりと並んでいる。そのほかにも小さな本箱に、何十冊かの本が置かれていた。みな多少古く、デミトリ自身のものを持って来たのだろうと思った。
 居間の壁には窓がわりの風景画と並んでデミトリの肖像画がかけられていて、モリガンはうんざりした。
「落書きしてやろうかしら」
 食堂のテーブルには香辛料の利いた鳥肉の料理とポテトのサラダ。年代物の赤ワイン。ドーマ家の治める地方の名産、キュービー印の蜂蜜と白いパン。紅茶とアップルパイ。簡素な食事だったが、美味しかった。ただ、ワインは少し甘すぎるような気がした。女性向けに甘いものを選んだのだろうが、もう少し重みのあるものがいいと彼女は思った。
 モリガンはテーブルの上に飾られた一輪の深紅の薔薇をぼんやりと見ながら、よくもまあ細かいところまで気の回る男ね、などと思った。
 しかし、ここまで準備を整えているということは、モリガンをここから出さないという彼の決意の表れでもあろう。
 モリガンは紅茶を飲みながら再び思い回らした。
 時間が経ち過ぎた紅茶は渋みが出ていたので、モリガンはパンに塗る蜂蜜を垂らして飲んでいた。
 なぜ、私を誘拐したのか?
 デミトリの言う通りなら「恋心」のためだが、これは怪しすぎる。
 ほかに考えられる理由があるとすればまず、身の代金である。モリガンの後ろ盾がもう少し弱ければ、もっともな誘拐の理由だろう。
 しかし、よりによって魔王の養女を誘拐して身の代金……命知らずの盗賊一味ならともかく、マキシモフ家当主の考えることにしては荒っぽさも度が過ぎるというものだ。
 金でも、体でもない……そもそもデミトリがモリガンに熱心にプロポーズしたのは、彼女に魔王の後継者という地位があるからである。そこから考えて行くべきではないか?
 今、モリガンが死ねばアーンスランドの一族は大騒ぎ……にはなるまい。
 どうせ他に後継者にふさわしい人材もいないのだ。
 そしてベリオールが健在な今、彼の鶴の一声で新たな後継者が決まる……それだけだ。
 いや、もしかしたらデミトリは、モリガンの後継者に指名されるような魔力の強さにこそ用があるのかもしれない。アデュースが、「優秀な戦士が欲しいところでしょう」と言ったように。
 しかし、モリガンを戦士として前線に出したら、一発で誘拐がばれてしまう。
 喉に傷のあるモリガンが「私の自由意志でこの男の妻になると決めたの」と言っても、誰も信用するまい。
 やはりデミトリが自分をさらったのは、「手に入れそこなったのが悔しくて、意地でもものにしたかった」というような、精神的な利益のためなのか?
 ふう、とモリガンはため息をついた。
 そういう理由なら、あの男は思ったより莫迦ということになる。
 けれど、そうなのかしら?
 あの男が自分に執着しているのは事実だが、デミトリは女好きである以上に野心家だ。
 そんな男が女一匹のために自らの野心を投げ捨てるような、危険な真似をしでかすだろうか。
 野心家……そうだわ。
 これまで、モリガンはあくまでデミトリは自分に用があるのだと思っていた。
 だが、違うのではないか?
 もしかしたら、彼の本当の目的は「扉」それ自体なのでは?
 彼の野望を達成するために、あの「扉」が何らかの意味をもつのではないだろうか。
 あの「罠」は別にモリガンを捕まえるためではなく、「扉」を独占するための「結界」なのではないか?
 そう考えた方が筋が通るような気がする。自分はたまたまひっかかっただけなのだ。
 そう、自分を監禁した本当の理由は、「口封じ」なのではないだろうか。
 モリガンはとっくに冷めた紅茶をすすりながら考えた。
 つまり、デミトリは何らかの理由があって、あの扉を借り切った。そしてその使い道は他者に知られたくないようなことだった。
 ところが、モリガンが「扉」の周囲に結界が張られていることに気づいてしまった。
 もし、モリガンの口から「扉」を利用した何らかの計画の存在がばれてしまっては大変である。
 それでとりあえず、彼はモリガンを閉じ込めてしまうことにした。
 デミトリがモリガンを殺さなかったのは、モリガン自身の利用価値を考えたのか、それともそれこそ恋心かはわからない。
 そこまで考えてモリガンはつぶやいた。
「でも、そもそもあの扉を何に使うのかしら」
 人間界に遊びに行って乙女の生き血をすするためだけに、扉を独占したいなんてことはありえないだろう。
 まず考えられることは、何かを人間界から持ってくるということだ。
 しかし、力のあるものでなければ通れず、二週間に数秒間開くだけの「扉」だ。そう大量の物を持ち運びなどできない。
 宝石を人間から奪ってかき集め、いっぱいの宝石箱を抱えてあの扉から帰ってくるような荒っぽいまねをすれば、かなりの財産が得られるはずだが、それも何か違うような気がする。
 後は、「扉」が開く時に大量に人間界の空に浮遊している「魂」が流れ込んでくる。それが目当てだろうか。
 ある種の魔物にとって「魂」は食物だ。
 だから、「魂」の売買は実は相当な利益を生むのではないか。
 あの「扉」付近に漂う「魂」を器か何かに封じ込め、「食料」として売りさばけば、「扉」を独占する者は巨万の富を得ることができる。
 そして、その富は必ずデミトリの野望に役立つはずのものだった。
「そうに違いないわ」
 モリガンはつぶやいた。今度は筋が通っていそうだった。
 だから、彼は「扉」のことを秘密にしたかったのだ。
 しかし、そうなるとモリガンが解放される可能性は低い。
「何も言わないからおうちに帰して……無理っぽいわね」
 モリガンはカップを置いて、席をたった。
 食堂のカーテンをひくと、玄関が現れた。
「やっぱり……デミトリ自身でなければとても開きそうにないわね」
 その扉は頑丈な鋼鉄製だった。試しに思いっきり蹴とばしてみたが、びくともしない。魔力による強化が施されているのだろう。
 モリガンは天井を見上げた。ここが地下牢なら、壁に穴を開けるのは危険だ。
「ここで生き埋めはさすがに御免だわね……」
 一枚目の扉についているものは、簡単な鍵を差し込むタイプの錠前だったが、その扉の小さな窓から見える二枚目の扉には四個も錠が付いていた。その錠の種類は多岐にわたった。普通に鍵を差し込むもの、数字を合わせるもの、パズルになっているもの、鍵で開くと思うのだが、ややこしく彫刻がされているため鍵穴が簡単にはわからないもの。
 とりあえず、一枚目の扉を開けようとして、やたらに頑丈そうな錠にアップルパイ用のナイフを突っ込んでみたが開かなかった。
「これじゃ、三枚目あたりを開けようとしている内に、あの男がまた来ちゃうじゃない」
 モリガンはいったんあきらめて、ベッドに戻った。
「こんな退屈な所、一週間もいたら、衰弱して死んじゃうわ」
 ともかく、他にすることがないのでモリガンは眠るしかなかった。

「デミトリ様、お願いですからここから出して下さい……」
 天井から鎖でつるされた、鳥籠のコウモリが哀れっぽい声を出す。その部屋はマキシモフ家当主の居城の執務室だった。
 重量感のある木の机の前に腰掛け、羽根ペンで書類にサインをしていた主は、籠の蝙蝠に目を向けて言った。
「出す訳にいかないのはよくわかるだろう、アデュース君」
「せめて、もう少し大きい籠にして下さい。私は本来人型なんですよ!」
「安心したまえ。おとなしくしていれば、ペットとして飼ってやる。餌には不自由させないぞ」
「……どうせ、お嬢様にも似たようなことを言っているんでしょう。従順であれば大切にしよう、てなことを」
「その通りだな」
 椅子に座ったままで、にっと笑う。
「ああ可哀想なお嬢様。せめて、私をお嬢様の側に置いて下さい」
「だめだ。彼女には当分私以外の男など見せない」
「お嬢様が私を男の部類に入る者と思ったことがあるだろうか、いや、ない……と思うんですが」
「あきらめたまえ。彼女が私の妻になったら君を再び彼女の従者にしてやろう」
「それって、監禁状態で口説くってことですか。それは脅すって言いませんか。それとも、吸血しちゃうってことですか。それは妻じゃなくて下僕っていいませんか」
「少しは口を慎みたまえ」
 デミトリは平手で、アデュースの籠をぱしんと叩いた。
「キイッ!」
 籠の内側にたたきつけられたアデュースが、蝙蝠の声で悲鳴を上げる。
 さすがにこたえたらしく、しばらく黙り込む。
 だが、やがて遠慮がちに口を開いた。
「あの、すみませんが、ひとつだけお聞かせ下さい。あの時、墜ちたお嬢様に襲いかかって来た者達は何者ですか?」
 アデュースはモリガンと共に空から墜ちた。
 その時デミトリが何処からか現れて、空中でモリガンを抱きとめた。
 アデュースは、運よく即死は免れたが、大怪我を負い、そのまま蝙蝠の姿で地に伏していた。
 その彼の前に、モリガンを抱いたデミトリが降下して来た。
 だが、その時扉を見張っていた者達が、デミトリに襲いかかって来た。
 デミトリはやむなくモリガンを少し下の茂みに放り投げて、そいつらを一瞬の内に惨殺した。
 そして、モリガンのお供の蝙蝠たちの中で息がある者……アデュースだけだった……を拾い上げ、再びモリガンを抱えた。
 気絶してしまったので、アデュースは後のことは知らない。
 しかし、デミトリが彼らを殺したということは、あの者たちはデミトリの部下ではない。
 ならば、あの「扉」を監視していた者達は誰なのか?
 それがアデュースの疑問だった。
「ジェダの部下だ」
 デミトリはあっさりと答えた。
「ということは、デミトリ様はジェダ様の動きを探るためにあそこに?」
「察しがいいな。もちろん、モリガンを助けるために控えていた訳ではない」
「モリガン様は貴方様とジェダ様の争いに、巻き込まれたのですね……」
「犬も歩けば棒に当たる。姫君はあまり外を出歩くべきではないな」
「デミトリ様……ぜひ、デミトリ様からもモリガン様にそう言って下さい。そうなれば少しは私も楽になるんです」
 アデュースは深いため息をついた。
「安心したまえ。当分彼女は出歩くことなどできない」
「それは安心出来ません…」
 アデュースは片翼で目の辺りを覆った。
 しかし、少しの間考え込むと今度はこう聞いた。
「それにしてもなぜ、モリガン様を生かしておくんです。まずいことを知られた訳でしょう? もしかして、人質ですか。ベリオール様に宣戦布告する時、モリガン様を交渉の道具になさるおつもりですか」
「ほう。ただの泣きまねコウモリではないようだな」
「ということは、それに近い事情があるんですね」
「さあな」
 デミトリは頬杖をついたまま、薄く笑った。
 その笑みを見た籠の中のアデュースは、戦乱の予感に血肉が冷える思いだった。

 ジェダは、オゾムからの報告に続いて送られてきた、監視の者からの報告を読んで眉をひそめた。
 それはこういう内容だった。
 何者かが、魔界の扉をくぐろうとしたが封印に阻まれ墜落した。
 悲鳴を聞いたが、女のようだった。
 そして、その生死を確かめに行った三体が惨殺死体で見つかった。
 だが、女の死体はなかった。
 「扉」をくぐろうとした女の素性と目的は不明ながら、高いところから落ちても死なず、さらに戦士達を惨殺していることから相当な力のある者と見られる。
 それだけが暗号で記されてあった。
 これには、普通の文字で書かれた嘆願書が同封されていた。
 女の「扉」への接近を許し、さらに逃げられたという失態についての処罰を軽くして欲しい、というものであった。
 ジェダはそれには興味を示さず、そのままくずかごに捨てた。
 そして、考え込んだ。
 その「女」とは何者か、と。強い女と聞いてすぐに思い浮かぶのは、モリガン・アーンスランドだが、なぜ彼女が「扉」に関心を示すのかがわからなかった。
 あの遊び好きの女がより強い力を求めているなどとは、思えなかったのである。
 とりあえず、ジェダは監視の人員の増強をオゾムに命じた。
「もし、モリガンであるならば、この計画が直接ベリオールの耳に入る可能性もあるね。計画の実行を急がねば」
「はい。ジェダ様」
「まずは、扉の封印の場所をレペ家から聞き出すことに全力をあげて欲しい。レペ家もこちらを警戒しているらしいが、君の交渉能力には期待している」
「お任せ下さい、ジェダ様」
 ひざまずくオゾムの伏せられた顔に、不気味な笑みが浮かんだ。

 アデュースが籠に入れられて3日目の夜。デミトリは今夜もモリガンを訪ねていて、執務室には誰もいなかった。捕らわれの楽士は、美女の肖像画にでも聞かせるつもりで、通る声で歌っていた。

  若者見たり   荒野の薔薇
  色鮮やかに   咲く花に寄りて
  喜び愛でる
  薔薇 薔薇 紅薔薇
  荒野の薔薇

  君を摘み取る  荒野の薔薇 
  貴方を刺すわ  薔薇は答えた
  折らせはせぬと 
  薔薇 薔薇 紅薔薇
  荒野の薔薇

  若者手折る   荒野の薔薇
  薔薇は叫んで  刺で刺したが
  花はその手に  
  薔薇 薔薇 紅薔薇
  荒野の薔薇

 蝙蝠の口から、人の声、それも美声と呼べるほどのものが流れ出すのは、魔界と言えども神秘的な光景ではあった。
 ぱちぱちぱち、と微かな拍手があった。
 アデュースが床を見下ろすと、それは艶やかな黒の毛皮の、闇鼠だった。
「上手いもんだねえ。あたしは感心したよ」
「貴方はどなたでしょうか」
「私はアンナ。この城に長いこと住んでいる鼠だよ。あんたこそどこからきたんだい?」
 アデュースは本当のことを言っていいものかと一瞬ためらったが、ここに捕らわれている事情を含め、正直に打ち明けた。
「ふ〜ん、モリガン様って方もお気の毒に。まあ、この城に住んでいるとひどい話なんざいくらでも聞くけどね」
 うんうんという感じに腕組みして鼠はうなずいた。
「やっぱり?」
「でも、なんせご主人が吸血鬼だから、食事以外にひどいことはそう起こらないみたいだね。鳥の連中の噂によると他の城では、女の浮気と男の裏切りは当然のことらしいからね。それで平和があるわけないさ」
 ゴシップ好きらしく笑って、鼠は言った。
「なるほどね」
 男も女も全ての者が主人に絶対服従する城、それはとても平和な城だろう。
「ねえ、暇だったらもう一度歌っておくれよ」
 暇でないわけないだろうとばかりに、籠の蝙蝠にねだる。
「いいですけど、その代わりこの籠を開けてくれますか?」
「そう言われてもね……。もし、あたしの仕業ってばれたら、城中で鼠狩りが行われちまうよ」
 鼠は困った様子で、肩をすくめて見せた。
「そこを何とか。ちょっと様子を探ったら、また籠に戻りますから」
 手の変わりに翼を合わせて、アデュースが頼み込む。
「わかったよ。その代わり、三日後に行われる娘の結婚式で歌っておくれ」
「喜んで」
 闇鼠はデミトリの机を器用によじ登ると、引き出しから籠の鍵をとりだした。
 それをくわえ、籠の側のカーテンから籠を吊るす鎖に飛びつき、籠の扉にたどり着く。
 カチャッと微かな音がして、扉が開いた。
 アデュースはするりと籠を抜けると、人間の姿に戻って腕を挙げて伸びをした。
「うわ、あんた実は大きかったんだねえ」
 闇鼠は、目を丸くした。

 モリガンが閉じ込められて一週間近く経過した。
 暇を持て余したモリガンは、ピアノを弾いたり、デミトリとおしゃべりしたり、彼の持ってくる本を読んだりして日々を過ごしていた。
 デミトリはモリガンのために、彼女が望む香水や化粧品などをそろえた。
 モリガンが化粧したとて、デミトリの他に見る男などいないのだが、やはり素顔でいる気にはなれなかった。
 きれいに化粧したモリガンを見て、デミトリは
「君は今日も美しい。特にその口紅の色合いが艶やかで、よく似合っている。まるで冷たい月光を浴びて咲く、薔薇の花のようだ」とか褒めるのだが、モリガンは内心で
「あなたのために化粧しているんじゃないわ」と思っていた。
 また一昨日は、モリガンは高価なダイアとルビーのネックレスを贈られた。金と銀の合金の台座に、デミトリの瞳の色のような鮮やかで深い色のルビーがはめ込まれ、そのまわりを無色の小さなダイアがかざる、とても美しいものだった。それで喜んで
「ありがとう」と頬にキスしたら、そのまま抱きすくめられ、ベッドに連れて行かれそうになった。それで
「まだ、いや」と言ったら、昨日はドレスを贈られた。
 贈り物攻めにして、自分を陥落させようという魂胆が見え見えだとは思ったが、プレゼントはありがたくもらっていた。
 この牢獄で自分が着飾っても、デミトリが楽しいだけだとは思ったが、モリガンは毎日、ドレスもアクセサリーも香水も化粧も、「今から舞踏会に行ける」という位に決めていた。
 それほど、暇だったのである。
 彼らが会話をするのはたいていモリガンの食事のときだった。デミトリが自らワゴンを押して彼女の食事を運んでくるのだった。
 その食事もモリガンが「グラタンが食べたいわ」とか「チョコレートボンボンをちょうだい」とか「ブランデーが欲しいわ」とか言うと、次の食事にはちゃんとそれが出てくるのだった。
「すっかり、召使ね」
 というモリガンの皮肉もさっぱり通じていない様子で、デミトリはモリガンが食事をするテーブルに向かい合わせに座って、食後のワインをご一緒しているのだった。
「美女を目の前にして飲む酒は美味い」とか涼しげな顔で言うデミトリに、モリガンは「本当は私よりあの扉に用があるんでしょ」と問いただしたが、最初の頃は「君以上に大事なことはないが?」と、はぐらかされ続けた。
 だが、やがて口を割った。それはモリガンをここに閉じ込め続けようという、決意の表れだったかもしれない。
「その通り。あの扉が私は欲しい。それで君に邪魔されたくなかったので、仕方なく君をここに閉じ込めた。かわいそうだとは思っているよ」
「ねえ、デミトリ。私は別にあなたの邪魔なんかしないわ。だからここから出して」
 モリガンは甘ったるい声で言ったが、男の返事は冷たかった。
「口先だけならなんとでも言えるからな」
「じゃあ、どうしたら出して下さるの」
「君が下僕となり、永遠に私に逆らわなくなるまで。さもなくば、死体となって出るほかはない」
 どちらもごめんだとばかりに黙りこくった、モリガンを見てデミトリは微笑した。
「退屈なら、刺激的なことをしてあげようかね」
 と、すばやくモリガンの手をとってその甲に口づけをする。
 モリガンの背をおぞましさを含んだ官能的な感触が走った。
「だから、やめてよ。こういうことは」
「なぜ、そんなに嫌がる。どうせここからは出られないのだ。ならばせいぜい地下牢暮らしを楽しんだらいかがかな」
「あなたも、一度抱いたら自分のモノと考える、愚かな男の一匹なの? ……手を放してちょうだい」
 聞こえないふりでデミトリはモリガンの手首をつかんだまま、もう一方の手でそれを撫でる。
「いい感触だ。だいぶケガも良くなったようだね。痣や傷も消えてきれいな腕だ」
 モリガンはその手を振り払った。
「私を力ずくでものにして、ただで済むと思っているの。アーンスランド家に宣戦布告する気だとでもいうわけ?」
 モリガンは腕で男をガードしながら、きっと睨みつけた。
「その通りだ」
「まさか……あなたじゃ、ベリオール様には勝てないわ。自殺行為よ」
「ご心配ありがとう。だが、君は知らない。あの『扉』を手にした者が魔界をも手中に収めるのだということを」
「それは、どういうこと?」
「私のものになったら全てを教えてやろう。だが、これだけは言っておく。いずれ、君が頼みとする魔王さえも我が手にかかって果てることになるのだ」
「何を莫迦なことを言って……んっ」
 デミトリはモリガンに強引にキスをすると、すぐさま後ろに下がった。思いっきり平手打ちをしたはずのモリガンの手は空をきった。
「それでは、また来よう」
 デミトリはすばやく、一枚目の扉の錠を開けて向こうへと滑り込んだ。
 モリガンが急いで駆け寄っても、すでに扉は閉ざされていた。
「莫迦……どうせなら最後までやりなさいよ」
 感触の残る唇を撫でてモリガンはつぶやいた。
 とりあえず、寝室に戻ってベッドに寝転がる。
「魔界の扉……もしかしたら、私が考えている以上にこの事件には裏があるのかしら」
 デミトリがベリオールに勝てるというのはあり得ないことのように思えた。
 だが、デミトリが何の根拠もなしに「勝てる」というはずもない。
 わからない……何もかもわからない。

 その日デミトリは執務室に掛かり付けの医師を呼び寄せた。何か体の不調でも、と問う医師に、彼は軽く手を振ってたずねた。
「女と遊ぶときに使いたいのだが、いい媚薬か催淫剤はないか? 相手の女に飲ませてみたいのだ」
 意外な質問をされて、医師は不審そうな目でデミトリを見た。が、事務的に答えた。
「催淫剤でしたら、手持ちで強力なものがございます」
 医師は鞄の中を探り、透明な液体の入った小瓶を取り出した。
「ほう、これか。何という薬かね」
「サキュバスの唾液でございます。彼女らが獲物を捕らえやすくするためでしょうが、淫魔の体液や分泌液などには強い催淫効果があります。これは男性に対して絶大な効果がありますが、女性にもよく効きます」
「……ふむ。これはサキュバス本人にも効くのかね」
 デミトリは眉をしかめて言った。
「は? おそらく効かないでしょう。いかに彼女らといえど日がな欲情している訳にもいきますまい」
 医師は冗談と受け止めて説明した。
「では、サキュバスに効く催淫剤というのはないのかね」
「あまり淫魔に催淫剤を投与するという話は聞きませんな。実験して見れば、キノコや草の中に効くのが発見できるかもしれませんが、どんな副作用が出るやら」
「……」
 デミトリは怪しいキノコを食事に入れて失敗した時のことを考えた。もし、腹痛や嘔吐などを引き起こして、「私を毒殺する気なの」と警戒されたら元も子もない。
 医師は考え込む主人に続けた。
「それに、彼女らがもっとも冷静なのは、男の床にいる時と申します。欲情はさせられても、それで好き放題できるかどうかはわかりませんな。むしろ、淫魔を欲情させたら襲われてミイラにされそうな気がいたしますが」
「それは、サキュバスにもよるだろう」
「まさか、媚薬を盛る相手というのは、あの魔界一有名なサキュバスではございませんね」
 医師も「魔王の後継者」を巡る騒ぎは知っていたのである。
 デミトリは一瞬返事につまったが、医師のその質問は無視して小瓶を手にとった。
「……わかった。では、これを貰おうか。支払いは月末に、他の薬の代金などと共にイライザに請求してくれ」
「では、こちらにサインをお願い致します」
 デミトリは薬を受け取った証しに万年筆で名を書いた。
「それから、使用上の注意ですが、女に盛る場合は一晩にひとさじにして下さい。男でも、同じくらいです。多く飲ませると、泥酔したのに近い状態になって、脳が麻痺し、意識不明になります。それよりさらに多くの量を与えると死ぬ場合もございます」
「ほう。では、サキュバスと何回もキスしたりすると、命が危ないのか?」
「理屈の上ではそうですが、普通は先に昏睡状態に陥ります。ただ、そうなるとそのまま夢魔に精気を吸われる可能性が高いですね」
「それでは、サキュバスを相手にキスする時は、舌をからめてはいけないのかね」
 医師はちらりと主人を見た。
「デミトリ様なら、そう何度もなさらない限り、意識不明にはならないでしょう。多少理性を失うくらいですむと思われます」
「そうかね」
 この前洞窟で体を重ねた時に随分燃えたのは、ひとつにはそのせいか。
 実に、油断のならない相手だ。たった三回のキスで意識不明になったりしたのでは、たまらない。
「それから、直接飲ませるほかに、香に染み込ませて、香炉で燃やし、その煙を嗅がせるという方法もあります。これは、乱交パーティーで使われることがあります」
 デミトリは、モリガンの部屋にある香炉を取り上げないと、うっかり部屋に入れないなと思った。
「それから、生物ですので、開封後はお早めにお使い下さい。説明としては以上でございます。他に何かご質問はございますか」
「いや、下がっていい」 
 独りになったあとデミトリは柄にもなくため息をついた。
 医師が怪しんでいる様子なので、つい買ってしまったが、どの女に使おう。
 モリガン本人には効かないだろう。そうだな、いつもおとなしいカミーユにでも飲ませて楽しむか。
 彼は小瓶を引き出しにしまって、もの思いに耽った。

 闇鼠のアンナの案内でアデュースは、夜こっそりと城のあちこちを探りに出掛けた。
 しかし、昔から城に住む鼠といえども、隠し扉の向こう側までは知らない。
 何しろ鼠の力では、隠し扉は開けられないのだ。
 デミトリが開けたときに一緒にもぐりこむというのも、見つかる危険が高い。
 ということで、アデュースは人間に戻っては隠し扉を開けて潜り込んで、迷路のような通路の地図を作っていた。
「また、ワナに引っ掛かりそうで嫌だなあ」
 などといいながら、手製のダンジョンマップに書き込んでいく。
 鼠も機を伺ってはデミトリの後をつけたが、地下牢へと続く通路の隠し扉はどうもひとつではないらしい。怪しい通路を探った所、延々と歩き回ったあげく、愛人の部屋に通じる扉に出てしまったりした。
 もっともそれはそれで収穫で、鼠はこっそりと愛人のソファーの下に潜り込んで愛人同士の会話などを盗みぎいた。
 しかし、それでわかるのはとりあえずモリガンがまだ吸われても犯されてもいないらしいということだけだった。
 そんなある夜、鼠と蝙蝠は死体置き場、つまり吸血鬼たちの残飯置き場で密談していた。
 ここは闇鼠たちの食事場所でもあった。アンナ達は死肉を糧としていたのである。
 ふと、ものの気配に気づいて振り向く。
 するとそこには、小柄な夜がらすが瞳を光らせていた。
 彼は漆黒の羽根に鋭い銀色のくちばし、枯れ木の枝のような足をしていた。
 その鴉は声を出さず、直接アデュースの頭の中に話しかけてきた。
「ヤレヤレ。苦労シタ。まきしもふノ城ハ、ハイリヅライ所ダ」
「君は何者だ」
「三日前、コノ死体置キ場デ君達ノ話ヲキイタ。主人ニ報告シタ。私ノ主人ハどーまノじぇだサマ」
 ジェダ……アデュースは驚いたが、確かに彼ならマキシモフの城に間者を放っていて当然、いや放っていない方がおかしい。しかし、まずいことを知られた。アデュースは警戒し、鋭い視線で鴉を見た。
「主人ハイッタ。でみとり、ジャマ。ダカラもりがんノ逃亡ニ、私、手ヲカス」
 その言葉にアデュースは驚き、その意図を探ろうと、鴉をまじまじと見た。
 
 そして、十日目。
 デミトリがいつものように食事を運んでくると、モリガンはけだるそうな様子でベッドに横たわっていた。
「最近、食欲がないの」
「おや、それはいけないね。私が食べさせてあげようか」
「そんなのより、あなたの精気が吸いたいわ」
「それは駄目だね」
「とっても美味しそうなのに」
 冗談とは思えない目でデミトリを見る。
「少しでいいから頂戴」
「少しで済ます訳がない」
「じゃあ、いいわ。その食事持って帰って」
「ハンガー・ストライキかね」
「そ。このままじゃ、私本当に死ぬわ。知っている? サキュバスを独りで狭いところに閉じ込めた場合、彼女は2日で死ぬの。退屈のあまり、ね」
「それでは、君が今日まで生き延びているのは私の訪問あってのことだな」
「……それはそうね」
 認めたく無さそうに言う。
「それでは、今日辺り私と刺激的な時間を過ごさないかね。退屈も紛れるし、いい運動にもなると思うが」
「嫌よ。それ位なら飢えて死ぬわ」
 モリガンはきっぱりと拒絶し、両者の間に少しの間沈黙が流れる。
「君が私と一夜を共にしたのは、君にとっては気まぐれの行為だったかもしれない。だがそれ以来、いや最初に会った時から、私は君が好きだ」
 その吸血鬼の声は低く、絹のしとねのような、艶のある柔らかな声。心の隙間に忍び込んでくるような、魔力のある声だった。
「貴方が好きになった女はどれだけいるのかしら。この城にいる愛人の数が知りたいわ」
 モリガンは、「やはりこの男には色気があるわ」と思いつつ、冷静に聞いた。
「たった四十名だ」
「四百年生きてるにしては少ないわね。暇を出された女は?」
「いないな。最近可愛がってやっていない女もいるが、捨てはしない。吸血鬼の下僕となった女に第二の人生などないからな。さすがに一度ものにした女に『死ね』と命ずるほどの憎しみを抱いたことはない」
 モリガンはそれを聞いて、彼の命令に絶対忠実な女達が、彼に憎まれることは確かにないだろうと思った。
「みな、あなたのしもべなの?」
「その通りだ」
「もし私があなたを好きだと言ったら、私のこともそうするつもり?」
「私のことが好きなら、私のものになるのは喜びではないのかね」
 モリガンは、やれやれという感じに首を振った。
「もちろん、私はただ単に自分の欲望から君と血の契りを交わそうとしているのではないよ。私は君を死なせたくない。美しい君があと200年の命なんて、あまりにも切ない話だ。私は永遠の命を君に与えたいのだ」
 デミトリの声は甘やかであり、誘いの内容も負けず劣らず甘美だった。
 モリガンは少し沈黙したが、やがてこういった。
「でも、実際に永遠を生きた吸血鬼などいないわ。皆、誰かに殺されて死んでいった。あなたが誰にも殺されないという保証などありはしないもの」
 今度はデミトリが沈黙する番だった。
 しかし、モリガンはぱっと表情を変えると、とびっきり甘い声で囁いた。
「喉に口づけをしないで、ここから出してくれるなら、あなたを魔王の座につけてあげてもいいわ。別に私はそんなものいらないんだもの」
「悪くない話だが、どのみち君をこの城からだすことは出来ない。君がベリオールに何も話さないという保証はどこにもないからな」
「私のことが好きなら、私を信用してよ」
 デミトリは少し冷ややかな目になった。しかしその言葉は相変わらず流暢だった。
「確かにこの部屋に閉じ込められているのは、君にとって辛いことだろう。それゆえに君が私を憎むのもわかる。だが、私は君を苦しめる目的で閉じ込めた訳ではない。だから私は君が楽しく暮らせるように、できるだけのことをするつもりだ。私は君を可愛いと思っているよ」
「それはつまり、私がこの部屋から自由の身として出る方法は、あなたを倒すしかないということね」
 モリガンはいいざま、デミトリに毛布をばっと投げつけた。
 そのまますばやくベッドから降りて、壁を後ろに身構える。その全身から瞬間的に殺気が吹き出す。
 顔にかかった毛布をばさりと下に落として、ゆっくりとした調子でデミトリは言った。
「そうか。君には紳士的に口説いたって効果がないのだね。ならば、力ずくで肉体に所有者の名を刻んであげよう」
 その声の変化は、柄や鞘を金銀宝石で飾り立てた剣が引き抜かれ、よく研がれた刃が姿を現すのに似ていた。
「正体を現したわね。けだもの」
 モリガンが構えたまま、ふんと睨みつける。
「もう一度聞こう。私に抱かれる気はないのかね」
「しつこい男ね! お断りよ」
 というと同時にモリガンは足先で、デミトリの急所の辺りを蹴り上げようとした。デミトリが気づいて後ろにとびのく。
 その隙にモリガンは身を翻して走りだした。
 すぐさま、デミトリも後を追う。
 モリガンは寝室から食堂に駆け込み、玄関の所までたどり着いたが、扉には堅く錠が降りていた。
「どうした。逃げられるとでも思ったか」
 デミトリのあざ笑う声が響く。
 モリガンは振り向いた。それと同時にテーブルを投げ付ける。
「頭に来るわね! いい加減その紳士面をやめて、本来の姿を現したらどうなの」
「お望みならば」
 テーブルを受け止め、部屋の隅に転がすとデミトリはバサッとマントを翻した。
 そのマントが見る間に翼に変じる。手足の爪と牙が長く伸びる。皮膚が青黒く変色する。
 色鮮やかな包み紙が燃えて、鉄の人形がその下からあらわになるような、一瞬の変化だった。
 その間にモリガンが姿勢を低くして、デミトリの向こう脛辺りを狙って突進する。
 デミトリが蹴ろうとするより速く、モリガンがタックルするようにデミトリの足にぶつかる。
 バランスを崩してデミトリが、背中から倒れる。急いで翼で受け身をとる。
 すかさずモリガンが腹の上にひざから飛び降りるようにしてのしかかり、首に右手をかけて締め上げる。と、同時に左手で思いっきり平手打ちする。
「うぐっ!」
 とデミトリの喉から苦しそうな声が漏れた。
「きゃああ!」
 しかし、次の瞬間悲鳴をあげたのはモリガンだった。鋭い魔物の爪がひと掻きで服を裂き、肉を抉ったのだった。
 デミトリはもう一方の手でモリガンの腕を掴み、それを首から外そうとしながら、続けてモリガンの左脇腹に再び爪を突き立てた。
「あうっ!」
 モリガンは左手でデミトリの腕を押さえようとしたが、その左腕の皮膚をデミトリの爪が裂いた。モリガンの腕から血が滴り落ちる。
 そしてデミトリは力ずくで、自分の首からモリガンの腕を引き剥がした。
「げほっ、げほっ!」
 デミトリの呼吸が整わないうちにと、モリガンが傷ついた左手の爪で、デミトリの目を狙う。が、デミトリが掴んだままのモリガンの右手を強く横に引いたので、モリガンは転倒し、デミトリの左肩に頬を強くぶつけた。そして、デミトリは右手でモリガンの二の腕を掴み、爪を食い込ませた。そのまま横に押しやるようにして、モリガンの体を床に落とし、転がってその体を自分の体の下に敷いた。
「いやっ!」
 モリガンが足をばたつかせるが、そのままのしかかられてしまう。
 デミトリは左手に力を込めた。
「うあっ!」
 モリガンの右手首に激痛が走った。
「たぶん、骨にヒビが入ったはずだ。このまま抵抗するなら、左腕も折る」
 デミトリが首を絞められたがための、しわがれた声で言う。
「う…」
 デミトリは呻くモリガンの右手首から手を離した。
 途端にモリガンはヒビの入った右手の指で、再びデミトリの目を突こうとした。
「小賢しい!」
 デミトリはその手を払いのけると、モリガンの左肩から鳩尾辺りまでの肌を爪で裂いた。そして、左腕にも爪を立て出血させた。止めに平手打ちを一発食らわせる。
「ついでに、足も血塗れにしてやろうかね」
「うぅっ」
 さすがに抵抗をあきらめたか、モリガンはおとなしくなった。
 モリガンの両肩辺りを押さえながら、デミトリは四つん這いに近い姿勢になった。
 そのまま見下ろすと、彼の目にモリガンの姿が敵ではなく、絵として映った。
 髪は乱れて床にうねり、目を閉じて苦痛にたえる表情はとても悩ましげで、服は胸元と脇腹の辺りを大きく裂かれて、乳房はむきだしになり、腰から臀部にかけてのくびれも露になっていた。何よりもデミトリをそそったのはいくつもの爪痕とそこから滲み出る血だった。
「このまま、ここで頂くことにしよう」
「何を……」
 怯えるモリガンの両脚の間にデミトリは自分の腰を割り込ませた。
「いやっ、いや…! 卑怯者!」
 モリガンはデミトリの肩を押しのけようとしたが、もはやささやかな抵抗でしかなかった。
「卑怯? 力で解決しようとしたのは君の方だろう。君は自分が勝ったら私をどうするつもりだったのだ? 力で挑んで負けたのなら、魔界の掟に従い大人しく食われるがいい」
 それはモリガンにとっても、絶対の掟だった。ただ、彼女はこれまで常に食う側だった。
 自分が恵まれし者であったことを、こういう形で実感するとは!
 押し黙るモリガンの傷口をデミトリの長い舌が嘗める。
 モリガンは絶望に眼を閉じた。

 ようやくことが終わり、デミトリは少し休んだ後で、軽く水浴びをした。
 乾いた布で体を拭いてから、戸棚の上の薬箱をとった。
 そして、泥の様に眠っているモリガンを浴室に抱えて行ったが、その傷痕は凄惨の一言だった。
 完璧な美しさを誇る肉体の背中、胸、脇腹に大きな爪痕が残り、白い肌のあちこちに咬み傷や引っ掻き傷があった。痣になっている所もあった。
 とりあえず、全身を冷たい水を含ませた布で拭いた。生傷のまわりにこびりついている血や唾液を拭う。だが、そのはずみでその傷からまた出血した。そっと布で押さえて血を吸い取らせる。
 太ももや尻に流れた体液も拭う。
 美女は愛でるものであって、傷つけたりするのはもってのほかだなどと語っていた男のやることではないな、と内心で自分のやったことを苦々しく思った。
 だが同時に、この自分によって満身創痍となった肉体こそ、愛でるに値するものかもしれないと女の無力を証しだてる傷を眺めて思った。
 そして、傷口は薬を垂らした綿で消毒した。
 薬が沁みたのか、モリガンは「う…」と呻いて薄目を開けたが、デミトリのしていることを見てまた目を閉じた。
 軟膏を擦り込むために肌と傷に触れると、再び蒼白い欲情の炎が身の内に灯るのを感じる。それは脚を開かせてこの場でもう一度、というものではなく、このまま血の流れ出す女の体を、丹念に撫で回したいというものだった。
 それが一度負かされたがゆえの復讐心からか、それとも支配欲や所有欲の変形したものかはわからなかったが、デミトリは薄く微笑んでモリガンの髪を手ですいた。
 どれほど痛かっただろうと想像して楽しみながら、さらに白い包帯を巻いていく。だが、それにも血の華が咲く。
 いい香りだ、と思う。血の匂い以上にデミトリを陶酔させる匂いなどない。このまま喉に牙を突き立てたら、どれほどの美味があじわえるのだろう。
 しかし、その誘惑をすんでの所で退ける。
 と同時に、彼は自分でも驚くほどに冷静になった。
 なぜ、このままこの喉に牙を突き立ててはいけない?
 もはや、自分とこの女の間に他の選択肢などないのではないか?
 自分が空から墜ちたモリガンを助けた時すでに、ふたりの運命は決定していたのではないか?
 魔界の扉のまわりでは、ジェダと自分が共にそれを用いての魔王への反逆の準備を進めている。
 そのことを知った魔王の養女をそのまま家に帰すことなど、どうしたって出来ない。
 ならば、自分が選ぶべき道は助けた時点ですでに2つしかない。
 自分の手で止めを指すか。自分に逆らわぬよう下僕とするか。
 殺さぬなら、道はひとつ。このままこの牢獄に閉じ込めていても、モリガンの精神が荒むだけである。それに独りで狭いところに閉じ込めれば二日で死ぬというサキュバスを二月、三月と閉じ込めるのは結局殺すことになる。
 一度力ずくで犯した以上、これ以降どうしたってこの女は自分に心を開くまい。
 ならば、片をつけるのは早い方がいい。その方がこの女も余計な苦しみや退屈を味わわずにすむ。
 悪く思うな……。
 デミトリはモリガンの上半身を抱え上げて、牙をむいた。

 次の日デミトリは彼の執務室で、不機嫌な表情で書類に目を通していた。
 モリガンに対する昨日の自分の行為について彼が感じているのは、いわゆる「罪悪感」ではなかった。
 吸血鬼である彼の一月の生は、十の女の棺桶の上になりたっている。
 閨の場合の話でも、女を嘘や金、権力などの強引な手段でものにしたことは、少なくはない。
 人間の場合にたとえれば、こんな話になるだろうか。ガチョウの丸焼きなどの鳥料理が大好きなくせに、きれいで珍しい鳥を何羽も飼っている金持ちが、ある日高い金を払って、色鮮やかで、鳴き声が特に美しいという鳥を買った。しかし何週間も気を使って世話をしたのに、鳴かない。あるとき腹を立てて鳥籠を思いっきりたたいたら、鳥籠は床に落ちて転がり、ショックで高価な鳥は死んでしまった……。
 デミトリは見終わった書類をぱさりと置いて、ほおづえをついた。
 こちらが手負いだったとはいえ、かつて自分を負かした女だ。手加減無しで闘うこと自体は当然のことだった。しかし、その後こともあろうに食堂で押し倒すという、理性のかけらもないような振る舞いに出たことについては、我ながら下品なことをしたと思う。
 そして昨日は結局気絶しているモリガンの喉に、牙を突き立てることが出来なかった。
 理性的に考えるなら、それが最善、いや唯一の選択だというのに、なぜ自分はためらったのだろう。あの女に惑わされたか? まさか。
 だが、手出しが出来なかったことに変わりはない。
 だから彼は今日は眠っているモリガンのベッドの側に、食事を乗せたワゴンを置いてそのまま逃げるように立ち去って来た。
 目が覚めたらあの女はどんな風に振る舞うだろうか。
 抵抗の無意味を知って自分に身を委ねるか。
 憎悪の目でこちらを見るか。
 絶望のあまり自殺するか。
 拒絶されて、その白い体を引き裂きたくなった時の凶暴な気分についてはよく覚えている。血の匂いを嗅いだ時の全身がぞくぞくするような甘い興奮も、肌の滑らかな感触がどんなに官能的だったかも、そして普段不敵な瞳に脅えの影を見て取った時の残忍な気分も。
 覚えている……というより忘れられない。
 苛立ちを感じて、トントンと指の先で机を叩く。
 落ち着かない。なぜか、落ち着かない。
「デミトリ様……お言い付けの通り、冷たいお水をお持ちしました」
 扉を半ば開いて、カミーユがグラスの乗ったトレイを手に立っていた。
「ここへ置いてくれ」
 机の上を指し示す。カミーユは静かにグラスを置いた。
 と、次の瞬間カミーユはデミトリに手首を掴まれて、抱きすくめられた。銀の盆が床に落ちて音を立てる。
「あ、デミトリ様……」
 いきなりの抱擁に戸惑ったカミーユの耳に、欲情に乱れた息が吹きかけられた。
「君はいつも可愛らしいな」
「……ここでなさるのですか?」
 カミーユが聞く。
「執務室ではさすがにな。さあ、寝室へ行こうか」
 机の引き出しから例の小瓶を取り出して片手に持ち、書類もそのままに女の肩を抱いて、デミトリは部屋から出た。

 その夜、死体置き場で蝙蝠、鴉、鼠の三者は柩の陰に隠れながら、城主の言動について語り合っていた。
「昨日、地下牢から帰ってくるのがやたらに遅かったし、今日は地下牢からすぐ帰ってきて、自室のベッドのカーテンの中に女を次々に引っ張り込んで出て来ないし、とうとう手を出しちゃったみたいだね。ふう。お気の毒なモリガン様」
 アデュースのおどけたような口調にそぐわず、その表情は暗かった。
「とうとう、あの旦那もサキュバスに取り憑かれてしまったんだねえ」
 アンナがうんうんという感じにうなずいて見せる。
「シカシ、ナゼ、モリガンデハナク、他ノ女ト寝ルノダ? オマエノイウ通リナラ、アノ男ハ夢魔ノ女トヤリタイハズダ。一度ヤレバイイノカ?」
 鴉のキースが首をくいと傾げる。
「わからないな。それは。昨日ベッドの上でどんなことが行われたか不明だからね。今日食事を運んで行ったということは、とりあえず生きてはいるということだけど。
 力ずくでやって、二度と来ないでといわれたから、ほかの女と寝ているのか、それとも、ケガをさせてしまって、これ以上無理をさせられないということなのか。それとも、モリガン様から誘って、デミトリ様に凄くいい思いをさせてしまったのか」
 アデュースは自分の主人の二面性を思った。正面切ってデミトリと闘い戦士の勝利を得ようとすることも、色香にものを言わせて誘惑して女の勝利を得ようとすることも、モリガンならありそうだった。
「ナゼダ? ヨカッタナラ、好キナダケヤレバヨカロウ」
 鴉の思考は他の二者に比べどうも単純らしい。
「あのねえ、鴉さん。それは男が女に骨抜きにされるってことなんだよ。ほら、女のことばかり考える男はだらしがないってね」
 鼠がおばさん特有の口調で言い聞かせる。
「ナラバ、コノママニシテオク方ガ、ジェダ様ノ利益ニナルノカ?」
「確かになるかもしれないね。しかし、デミトリ様も気の毒に。他の領主に女と何回やったかまで報告されちゃうんだものな。」
 アデュースはまたもため息をついた。
「領主タチノ色事ハ重要ナ情報ダ」
「そうだろうな。……ああいう状態になる男はこれまでにたくさん見たけどね。単に性欲が増すというより、性的な妄想が頭から離れなくなるらしいね。とりあえず、鴉はこのことを主人に報告した方がいいね」
 こんなことがジェダに知られた場合、デミトリ様および彼に捕らわれているモリガン様の立場というのは、どうなるのだろうか、とアデュースは嫌な気分を拭い去れなかった。ジェダの出方によっては、モリガン様がいっそうの窮地に立つ可能性もある。しかし、ここで鴉を拒絶すれば救出の作戦が立てにくくなるのだ。
「夢魔に誘われたことをきっかけに、体調を崩したり、仕事ができなくなる男は多い。そして、その内にかき立てられた妄想と現実の差がどんどん露になっていって、もっともっとという飢えと焦りの中で、肉体と精神のバランスを崩す。…怖いね」
 アデュースの声には百年以上もの長きにわたって夢魔の捕食に付き合って来た男の、男に対する絶望のようなものが滲み出ていた。
「そうだねえ。怖いけど、あたしもそのモリガン様とやらにお会いしたいねえ。どんな女か見てみたいよ」
 アンナが恐れと興味の入り交じった表情で言う。
「その通り。何としてもモリガン様に再会しなくちゃいけない」
 蝙蝠は鼠と鴉を振り返って言った。両者はうなずいた。


                    第八章に続く
 


MIDIデータ作成者 たかむー様

 2000.6.21.脱稿

 作者 水沢晶

 URL http://www.yuzuriha.sakura.ne.jp/~akikan/GATE.html

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