Sorry,this fanfiction was written in Japanese.

第二章  緑柱石の婚約指輪

 地方の魔界貴族の娘、カミーユは、婚約パーティーの席で、小さくため息をついた。
 彼女はこのパーティーの主役である。
 若い彼女にふさわしく、そのドレスは薄桃色を基調に若草色でアクセントをつけた真新しいものだった。
 後ろでまとめられた髪は、レモンを搾った汁のような色合いの金髪。生クリームにほんの少しをチェリーブランデーを混ぜて泡立てたような、きめ細かな肌。
 年より幼く見える大きく丸い目は、ブルーキュラソーを数滴垂らした、透き通るゼリーの瞳。
 思わず触れたくなる、ふっくらとした唇は苺ムースのようで、愛らしさを感じさせた。
 カミーユは適齢期にはまだ早いなどと抵抗もしてみたのだが、結局周囲に引きずられるようにして、この日を迎えてしまったのだった。
 だからカミーユには、これが自分の選んだ運命だという気がしなかった。
 相手は親が決めた。
 婚約披露宴の日取りも。
 彼女が自分から何かする気になれなかったため、ドレスも母親が選んだ。
 カミーユは遠くで友人と歓談している婚約者を見た。
 あの男性が……。
 婚約の正しさを自分に納得させようと、カミーユは婚約者について知っていることを思い返して見た。
 名はジャービス=シクル。
 家柄は自分の家より多少上だった。これより上の貴族では正妻は望めないだろうというギリギリの線だった。親や側近たちは側室というならば、もう一段上にも手が届くかもしれないとそちらも検討して見たらしい。だが、向こうが望まなかったり、政略的にたいして意味がなかったり、ということで今回の相手に落ち着いた訳だった。
 計算につぐ計算。そのとりあえずの答えが、これ。貴族の結婚だの何だのは政略の問題でしかないのだと、おとなしく父親の言葉にしたがった。
 その時、父親はこう言った。
「どうやら、これまでの愛人たちなどを調べるに、お前のような女があの男は好みらしい」
 その言葉を聞いて、結婚には肉欲という要素もあったのだと気づかされた。
 その通り、引き合わされた男はカミーユを気に入った。
 しかし……だからどうだというのだろう。
 もちろん、気に入られずに婚約することを考えれば幸運であろう。
 けれど、カミーユはジャービスを好きになれなかった。
 そのうち好きになれるという可能性に、あるいは己の浮気の機会に望みを託して、従順な妻としてあの男の傍らで日を過ごすのだろうか。
 彼の武勇は名高かったが、短気で強情な所があるという噂だった。
 分別の有無や思いやりの有無についても、芳しくない話が多い。
 うまくやって行けるのだろうか。
 再びカミーユは小さなため息をついた。
「どうかしたのかね」
 優しい調子で低い声がささやいた。
「あ、いえ何でも…」
 そういいながら、顔をあげる。
 そこにはひとりの魔界貴族が品のいい微笑を浮かべて立っていた。
 冷ややかに整った顔立ち、切れ長の目。控えめな艶のある薄青のテールコートにマント。高い背とがっしりした体格。
「何か心配事でもあるのかね」
「……多少は」
「話したくないなら、無理に話さなくてもよいのだよ。だが、私としては美しいお嬢さんが憂いに沈んでいる姿を見過ごすことはできないのでね。何か力になれることはあるかね」
 険しい顔立ちの男だったか、その笑みは優しげだった。
「……踊って下さいますか」
「喜んで」
 すっと男の手がカミーユの手をとった。
 彼女は踊りには自信がなかったが、男のリードは見事なものだった。
 武術に心得があると見られる体格からもっと武骨な男かと思っていたが、氷の上でも滑っているかのような優雅さだった。
 その感想をカミーユが告げると男は笑って、
「優雅とは実は力強さによって支えられるものだ」
 と言った。
 一曲踊り終えて月明かりのバルコニーで、カミーユは低い声で男に話し出した。
「よくある話だと思うんですが……親の決めた結婚で、私はあの人について『この人が好きだから結婚したい』とは思っていないんです。昔は色々結婚について夢を見ていたんですが」
「運命の出会いとか?」
「はい。この人のためなら死んでもいいと思って、両親の反対を押し切って、地の果てまで逃げるとか。氷の海も炎の海も乗り越えてどこまでも、とか。でも、結局この年までそんな人も見つからず、親が……すべて決めました。でも、納得できなくて……」
「確かに、あの男はたいした男ではないな」
 カミーユは婚約者をけなされたにも関わらず、怒りを感じなかった。むしろ、深くうなずきたい気持ちだった。
「好きな男と逃げるのが、君の夢か」
 カミーユは静かにうなずいた。
「それならば、願いをかなえてあげることはできるな。君が私を好きになってくれさえすれば」
 カミーユは男の言葉に驚いて目をあげた。
「連れて逃げて下さるのですか?」
「まだ、名を教えてなかったな。我が名は、デミトリ=マキシモフ」
「七貴族様……」
 その名はカミーユも聞いていた。
 優しそうな、でもどうもそれだけではない男のようだとは感じていたが、そこまでの地位の高さは予想外だった。
 この男が残忍さと狡猾さで知られるマキシモフ家当主。それならば、この気品も不遜なまでに堂々とした態度も納得が行く。
「私を、妻に?」
「残念ながら、正妻にはできない。愛人のひとりとしてならば、君を大切にしよう」
「なぜ、私を?」
「君の可憐さにひかれた。貴族社会の汚い権力争いを嫌がるその清らかな瞳。夢見ることしか知らぬ君を籠の鳥、温室の花として存分に愛でて差し上げよう」
 カミーユは身を震わせてその言葉を聞いた。
「ありがとうございます」
「それでは聞こう。私をどう思うかね」
「愛しています」
 甘い陶酔の中に決然たる意志を秘めて、カミーユは答えた。 デミトリはカミーユを抱き寄せて、唇を重ねた。
 カミーユは男の胸に顔をうずめ、このままずっと触れ合っていたいと思った。
 しばし抱き合った後、男の方から身を離した。
 そして、カミーユの左手をデミトリの手が、彼の側に引き寄せた。
「この指輪はもういらないな」
 左手の薬指には台座が金の深緑のエメラルドの指輪が、はまっていた。
「そうですね。返さなければ」
 カミーユは自分の手から、デミトリが婚約指輪を引き抜くのを、見守った。
「これは私が送り返しておこう」
 デミトリは上着の内ポケットにそれを入れた。
「はい。お任せします」
 もはや全てをデミトリに、委ねる気になっているカミーユは、そう答えた。
「では、逃げるとしようか」
 デミトリは大きな手をカミーユに差し出した。
「はい」
 喜びに満ちあふれ、カミーユは自分の手を差し出した。

 カミーユは自室として割り当てられた部屋の窓から、白く冷たく丸い月を眺めていた。
 ため息をつく彼女の目の前には壁のように森が競り上がっていた。
 マキシモフ家当主の城は、高い山の中腹に築かれていた。そして彼女の部屋は山側にあったのである。反対に回れば、森は目の下に退き、遠くないところに城下町が見えるだろう。カミーユがデミトリの元へ走ってから、一週間が経った。デミトリは、満月の夜に彼女と呪縛による主従関係を結ぶと前から告げていた。今夜がその満月だった。カミーユは独り静かに部屋で男を待っていた。
 独りでいると恐怖が、少しずつ胸の奥で水位を増していく。その後母親は、私信として一通の手紙を彼女によこした。裏切られた者の愚痴に近い文章が並べられていたが、その中にこういう意味の文章があった。実は両親もカミーユをデミトリの愛人にすることを一度は考えたというのだ。
 しかし、吸血鬼の僕の特徴は主に絶対服従するということだ。もし娘をそうしたら、デミトリが彼らの敵に回ったとき、カミーユが自分の両親が己の主の手によって惨殺されるのを、平然と見過ごして一滴の涙も流さないということもありうる。それを考えたら、多少相手の格が落ちると言えども、娘が娘であれる道を選んだ方が、政略的にも意味があるし、それこそが娘に対する情けだと思っていた。そう彼女の母親は綴っていた。
 カミーユはひどく正直な言葉を母親から聞いたと思った。
 そして、思った。もし、私がこのままデミトリ様の僕になったら、その時の私にとって両親は他人でしかなくなるのだろうか。
 両親を裏切り、ここに来たものの自分の中の「親」への思いが砂のように無味乾燥なものになるかもしれないと考えるとどこか淋しかった。
「今夜から、あの方が私のすべて……」
 声に出して思い出す。あまり仲の良くなかった両親、短いつきあいだった友人たちのことを。
 これまでつきあって来た者たちの全てが一夜にして、どうでもいい他者になるのだ。
 それからは、他の男を好きになることもなく、子供も作らず、あの方以外の者を視野から切り捨てて、過ごすのだ。
 私はここにくるために、それまで持っていたもの、手に入るはずだったもの、それらなにもかもを投げ捨てた。けれど、その私があの方にやがて飽きられ、捨てられることだってありうる。そんな不安がカミーユの胸を締め付けた。
 それに魔界貴族の間では、他の貴族の機嫌をとるために自分の妻や愛人を贈ることは当然のことだった。カミーユの母親も、元は他の貴族の愛人だったのだ。
 幼いころ、よく母親が再び捨てられはしないかと憂えて口にする言葉を聞かされた。夫の愛が自分の上から去るのを何よりも恐れていた彼女は、娘を愛することには熱心でなかった。
 そして父親は他者を愛するということについて、常に気まぐれだった。
 カミーユが不安感が強く夢見がちな娘に育ったのには、そういう事情も背景にあった。
 だがもはや、後悔しても遅かった。
 デミトリはすでに彼女の両親に話をつけていた。
 もはや、ジャービスの婚約者には戻れない。
 彼女が心細さに苛まれていると、コンコンコンと音がした。 運命が扉をたたく音だった。
「遅くなって済まなかった。私だ」
「お待ちしておりました。デミトリ様、どうぞ中へお入り下さい」
 彼の今夜の服装は、派手な飾りのない落ち着いた色合いの紺の上着とクリーム色のタイツ、臙脂のベストだった。先程までは執務室にいたのだろう。彼のレースのスカーフの中で、ブルーダイヤが冷たく光った。
「おや、どうした。震えているね」
 主となる男は扉を後ろ手に閉め、出迎えたカミーユに優しく声をかけた。
「私は……なにもかも捨ててここに来ました。だからどうぞ私を捨てないで下さい」
 カミーユはすがるような瞳で、男に頼み込んだ。
「かわいいことを言う。大丈夫だ」
 と、抱き寄せて髪を撫でる。
「本当ですか。約束して下さいますか」
 デミトリにしがみつくようにして、またもたずねる。
「約束か……口先の誓いなど無意味だ。さあ、喉を差し出したまえ」
「……」
 カミーユは、取り返しのつかない選択を前にして怯えていた。吸血鬼のものとなった女は二度と他の男を主人とすることは出来ない。主が死ぬか僕が死ぬかの死別以外に血の絆が切られることはないのだ。
 デミトリはそれを見て取ると、無言でカミーユの肩を掴んだ。そのまま首筋に口づける。
「……!」
 覚悟を決めているはずだったが、カミーユは体を硬直させて、嫌だというように首を横に振った。
 しかしデミトリはそれに構わず、慣れを感じさせる素早さで、カミーユの喉に牙を突き立てた。
「あっ!」
 暗がりに短い悲鳴があがった。それに血を啜る、濡れた音が続いた。

「気分はどうかね」
 満月が欠け始めて三日ほどたった夜。デミトリはベッドで死んだように眠っている、カミーユに声をかけた。
「……喉が渇きました」
 薄目を開けて答える。
「そうか。口を開けてごらん」
 カミーユがいわれるままに口を開く。
「だいぶ牙が伸びたね。これなら自分で血を吸える」
 カミーユは、その言葉に笑みを浮かべた。
「隣の部屋の棺桶に少年を寝かせてある。喉を潤してくるがいい」
「ありがとうございます」
 礼儀正しく一礼し、カミーユは扉を開けた。
 しばらくして戻って来た彼女は、どことなく酔ったような気配を漂わせていた。
「美味かったかね」
「はい、とても。御馳走様でした」
 カミーユは主人の前でひざまずき、深く頭を下げた。
「さあ、こちらへ来たまえ」
 主人は寝台の脇で下僕を手招いた。
「はい…」
 恥じらいつつもためらわずに、彼女はデミトリの前に立った。

 デミトリは全裸でベッドから降りた。淡い光の中で盛り上がった筋肉が濃い影を作る。
 彼は持ってきた小さな箱から、布にくるまれたペンダントを取り出した。裸のままのカミーユにそれを見せる。
「まあ、きれい……」
 それはアクアマリンのペンダントだった。白い波打ち際で手のひらにすくった海の水のような、澄んだ薄水色の石。銀の台座にはめられ、水しぶきのような小さなダイアに囲まれたその石は、涙型にカットされていた。
「君が失った婚約指輪の代わりに、これを君に贈ろう」
「え! いいんですか」
「もちろんだ。さあ、君の細い首にかけてあげよう」
 カミーユは静かに頭を前に傾けた。デミトリはその首の後ろで、留め金をはめた。
「君の瞳と同じ色だ。とてもよく似合っている」
「ありがとうございます……」
 裸の胸元に薄水色の石をきらめかせ、嬉しさに目を潤ませたカミーユは、デミトリの胸に頬をつけた。デミトリはその頭を柔らかく撫でた。
 そのままいつまでも主人に寄り添っていたそうなカミーユに、デミトリは「いい夜だった。それでは、ゆっくりお休み」と言い、服を再び身にまとって部屋を出た。


                               第三章に続く


 2000.6.11.脱稿

 作者 水沢晶

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