Sorry,this fanfiction was written in Japanese.

 第三章  月長石のロザリオ

「もしもし、学生さん、ちょっと寄って行きませんか」
 時刻は黄昏時、下町の街角でアルベールとミッシェルに声をかけたその女は明らかに娼婦だった。
 彼らは寮生活を送る神学生だ。両者同じく17歳。アルベールは色のほとんどないストレートの金髪を肩まで垂らし、知性を感じさせる切れ長の目には青い瞳が光っていた。
 ミッシェルは軽く巻いた蜂蜜色の金髪で、丸い目に淡い緑の瞳、育ちの良さを感じさせる柔らかな雰囲気を身に纏っていた。
 嫌悪を押さえ、口元だけで微笑みながらアルベールは言った。
「それは神の御心に背く行為ですので」
「あたしも神様は信じていますよ」
 安物で着飾った女は少しなまりのある口調で言った。
 アルベールは女を冷たい目で一瞥した。そして、たとえこの女が神を信じていようとも、神はこのような女をお救いにはなるまいと思った。
 顔立ちから察するに、まだ二十を過ぎたあたりというのに、白い粉を厚くはたいた皮膚は乾いて荒れていた。不健康そうな顔色と濁った目は、恐らく多くの娼婦のように安酒に浸っていることを示していた。
「そうですか」
 アルベールはおざなりに答えた。
「いかがですかね。サービスしますよ」
 アルベールの顔をうっとうしそうな色がかすめた。
 ミッシェルは女の様子に嫌悪より哀れさを感じたらしく、銅貨を一枚取り出した。
「どうぞ。パンでも買って下さい」
 ミッシェルに銅貨を渡されて女は言った。
「あたしは物乞いじゃないんですけどね。まあ、ありがたくもらいますよ。それじゃ、あたしはこれで失礼します」
「では、私たちも失礼します」
 アルベールは一礼して、ミッシェルの手を引いてその場を立ち去った。
 彼はずんずんと歩いた。汚らわしさをふりきろうとするかのように。
 身を売らざるを得ない貧しさがあることや、酒を飲まざるを得ない苦しさがあることに思い至るにはアルベールはまだ若すぎた。
 彼はただ、神は自らの教えに忠実であるものを救うと信じていた。
 ミッシェルは角を曲がる時に振り返って女を見た。遠くで彼女はまた別の男に声をかけていた。世界には救われない者がなんて多いのだろう、という思いが若き神学生の頭をかすめた。
 そんな彼らの様子を宿屋の屋根に腰掛けて見ていた者がいた。
 黒のドレスの裾から白い足がのぞく。その先にあるのは赤いハイヒールだ。
 見上げるものがいたらさぞかし驚いただろう。古びた煙突のかたわらに、銀髪の貴婦人が座っているのだから。
「ふふっ、あの子いいわね。神学生だってところがたまらないわ」
 モリガンは肩のコウモリに話しかけた。
「あの神経質そうな少年ですか。それとも人の良さそうな方……」
「神経質な方が気に入ったわ。ま、もう一人の方も悪くないわね。気が向いたら、ってことにするわ」
「ああ……神は彼らをお見捨てになったか」
 肩のコウモリ、アデュースは軽く首をふって嘆いて見せた。彼は生まれながらの魔物ではない。昔は一人の人間だった。
 アデュースは魔物となって二百年、モリガンにつきあって百年以上たつ。だが今でも、彼は時として餌食となる「人」に哀れさを感じてしまう。
 が、モリガンはそれにかまわずにこう言った。
「追うわよ。アデュース」
 そして、彼女の姿は屋根から消えた。

 ジェダは「魔王の後継者たるサキュバス」についての報告書をオゾムから受け取って、不機嫌な表情になった。
「これでは意味のある情報が入手不可能であったことを隠すために、無意味な言葉を羅列したも同然だね。むしろ私が彼女と直接言葉を交わした一瞬からの方が得るものがあるとさえ言えるよ」
「はっ、何分にも魔王が相手ではそう露骨に嗅ぎ回ることもできず……」
「低能を証明するようなことを言うね。魔王がご寵愛とはいえ、アーンスランドの一族全てがあの小娘の味方ではないだろう。むしろ、敵に回っているだろうね。そこに照準を合わせたまえ。彼女の敵から聞き出すのだよ」
「はっ、そう致します」
 オゾムは深々と頭を下げた。
「それでは、私はこの城を二週間ほど留守にする。魔界の扉付近を治めるレペ家との交渉のためだ。後のことはいつも通りにしておいてくれ」
 ジェダはそういうと、椅子から音もたてずに立った。

 ミッシェルは、友人のアルベールが最近気分が悪そうなので、心配して彼の部屋を訪ねた。
「心配してくれるのかい? 実はこの頃変な夢を見ているんだ」
 ミッシェルに聞かれて、アルベールは語り出した。
「夢? 多分体が疲れているとか、そういうことだと思うけど」
「違う」
 さえぎるようにしてアルベールは断言した。
「一昨日の夜、僕は真夜中息苦しくなって目が覚めた。すると、毛布の上から長い銀髪の全裸の女が、僕の上にのしかかっていたんだ」
「え…!」
 ミッシェルは叫んだ。
「まさか、夢魔か…!」
 ミッシェルはアルベールの話にまがまがしいものを感じ取った。
「その通りさ。その通りなんだ…! 続きを話そう。僕と目が合ったその女は、ベッドの頭の方にはいずってきて、僕に抱きついた」
「それは……」
 その意味、その先を察してミッシェルは首筋に氷をあてられたように思った。
「その腕の感触はふっくらと柔らかった。そして、少し冷たい肌はしっとりと滑らかだった。ぞっとするほど官能的な感触だったよ」
 アルベールの顔色はまさに死者のように白かった。
「そしてその時あの女は笑った。確かに僕に流し目をして満足そうに微笑んだんだ。いかにももうあなたは私のものだと言わんばかりの邪悪な笑み…。忘れられないんだ……。僕はその時驚いてベッドから跳ね起きた。そして夢だったとわかったんだ」
 アルベールの枯れたような声の調子に時に激しいものが交じる。
「その時はただの悪夢だと思った。何かの間違いで見た夢だと……」
 一度、アルベールは言葉を切った。
「だけど、毎晩見ているよ。その夢を。……僕はずいぶんと痩せただろう?」
 それは事実だった。4日前と同一人物とは思えない顔色の悪さは、病気になったというより、精気を吸い取られたという方が納得がいくものだった。
「神よ……」
 ミッシェルは思わずつぶやいて、自分の月長石のつらなったロザリオをアルベールに渡した。「ムーンストーンには夢魔を払う力があるという言い伝えがあるから……」
「ありがとう。君の友情に感謝するよ」
 力無くアルベールは微笑んだ。

「デミトリ様……よろしいですか」
 側近のイザベラは扉を開いて主人に声をかけた。そこはデミトリの城の一角にある訓練場だった。
 そこで彼は自らを鍛えるために部下との戦闘訓練を行っていた。相手となった部下の腕を軽くねじ上げたまま振り向く。
「何だ、イザベラ」
「パーティーの招待状が届いております」
「どこからのだ。返事を急ぐのか」
「はい。魔王ベリオール様からのものです」
「何? 何万回目かの誕生パーティーか?」
「いえ、新しく後継者を定めるので、その発表だそうです」
「何!」
 デミトリの目が見開かれる。
「それでその者はどこの誰なのかね」
「秘密だそうです。パーティーで発表すると……」
「調べろ。コウモリたちを放て」
 ちっ、といまいましげにデミトリは舌打ちをした。
「それから、メルロー家の令嬢とカベルネ家の子息が婚約するという件はどういたしましょう」
「適当な品を持たせた使者を送って置け」
 興味無さそうに言うとデミトリは部下を振り返り、「続きは他の部下としろ」と言い捨てて、彼自身の執務室へと急いだ。

 その晩、ミッシェルは胸騒ぎがして、夜明け前の闇の濃い時刻に目が覚めた。
 アルベールのことが気になって仕方がないので、様子を見に行こうとした。
 古びた木の廊下をランプを掲げてミッシェルは歩いた。あのような話を聞かされた後では、寮のすみずみの闇にも魔が息づいているような気がする。
 アルベールの部屋の前に何か小さく光るものが落ちている。
 拾い上げて見るとそれは、彼が渡したロザリオだった。
 嫌な予感がして、ミッシェルは、扉の前に立った。中からは微かにうめき声らしきものが聞こえた。
 ミッシェルは扉を開いた。鍵はかかっていなかった。
 そして、彼はベッドの上の光景を見て、立ちすくんだ。
 アルベールの上に全裸の女がのしかかっていた。
「あら、見たのね」
 ランプの明かりに照らされた女には、コウモリの翼があった。
 夢魔。
 アルベールの話は本当だった。ミッシェルは目を見開いた。
 その女は、アルベールの話からミッシェルが想像していたより、はるかに美しかった。
 目の前で胸もあらわな姿で微笑むそれは、全身の皮膚が粘膜ででもあるかのようなぬめっとした生々しさに満ちていた。
 目の前の光景が、「見てはいけないもの」であることは明らかで、ミッシェルは恐ろしさから後ずさった。
「ふふっ」
 楽しげに微笑んで、夢魔は裸足でベッドから降りた。左手で胸の辺りを押さえながら二歩、あるいた。そして、右手をゆっくりとミッシェルの方に伸ばした。
 その様は実になまめかしかったが、ミッシェルは恐怖の叫びをあげた。
「い、嫌だあぁ…っ!」
 彼の絶叫は寮の生徒の何人かを起こすのに十分だった。
 くるりと身を翻して彼女はこう言った。
「また会いましょう。あなたの夢の中で……」
 そして、夢魔は閉じた窓の前で、光る霧になって消えた。
「あ…あ…」
 ミッシェルは腰が抜けて、その場にしゃがみこんでしまった。
「どうした…!」
「何だ!」
 両隣の部屋の生徒が2、3人駆け込んできた。
「しっかりしろよ!」
 そのうちの一人がミッシェルを抱き起こしたとき、ベッドに駆け寄ったもう一人が言った。
「死んでる…」
 彼は振り向いて叫んだ。
「誰か寮長を呼んでくれ。医者でもいい! ともかく脈がないんだ…!」
 その声を聞いて、ミッシェルのあごはがっくりとのけぞった。
 気絶したミッシェルを抱えた生徒は、異常事態にただ呆然とするばかりだった。
 アルベールは助からなかった。そして、その次の夜からミッシェルも衰弱していった。
 その理由を問う友人に彼は「巻き込みたくない」と沈黙を貫いた。

「ジェダ様。アルノー家の次期後継者、ジャービス様からのお手紙ですが」
 読書の最中だった冥王は、切れ長の目を部下に向けた。最新の哲学書を手にしたまま問いかける。
「用件は」
 オゾムは不合理なことを好まない主のために手短に述べた。
「はっ、要するにマキシモフ家の当主に婚約者をとられて腹が立ったから、彼の領地に攻め込みたい。兵を貸してくれ、ということです」
 ジェダはいかにも興味無さそうに、視線を再び本に落とした。
「敵の敵は味方という古典的な発想だね。確かにあの吸血鬼は下らない野心家だ。しかし、ジャービスはそれ以上の愚か者だ。私は彼の味方をする気はない。今、マキシモフ家とことを構えても面倒が増えるだけだ」
「では、丁重にお断りしますか」
 ジェダは微かに首を傾げ、少し考えた。
「そうだね。ついでに、今度開かれる魔王の宮殿のパーティーで、デミトリ自身を直接問い詰めたらどうかね、と書き添えておきたまえ」
「あの方なら問い詰めるだけでなく、そのまま一発殴りそうな気がしますが」
 それでいいのですかと問うような部下に、冥王はわずかに目を細めて笑った。
「それだからこそ、というものだよ。乱闘騒ぎになれば、デミトリの評価も下がるだろうからね。魔王の後継者の婿選びが始まるこの時期、あの男に対する世間の目とやらを厳しくしておいた方が得策というものではないかね。……では代筆を頼む。サインは私がするので夜までには持ってくるように」
 彼はそういうと再び読書を始めた。

 夜ごと夢魔の訪問を受けている少年は、暗い夢の迷宮の中を走っていた。
 それは石作りの深い迷宮で、ところどころ水がしたたり落ちていた。彼、ミッシェル=リデルはこの世の者とは思えぬ美女に追われ、そこを逃げまどっているのだった。時々、彼は途中に扉を見つけ逃げ込もうとするのだが、すべての扉は閉ざされていた。
 追っ手は迫ってくる。足音もなく。相手は人ではなかった。
 捕まれば自分は終わりだ。
 そのことだけは確信があった。勝算はなく、ミッシェルの心にはただ恐怖だけがあった。 角を曲がり、重厚な両開きの扉を彼は押し開き、中へ転げ込んだ。無我夢中でカンヌキをかける。振り返るとそこは礼拝堂だった。キリストが描かれたステンドグラスを通して、部屋に流れ込む月光が、白っぽい石の床を淡く染めている。
 ミッシェルは白いマリア像の足元にひざまずき、救いを求めて祈った。神学生の彼にとって見慣れた聖母像は、穏やかな微笑みを浮かべていた。その笑みに脅えきった彼の心は次第に安らぎを取り戻してきた。
「マリア様……」
 彼が寄る辺ない子供の目で見上げた時、石作りのマリア像の姿が変貌を始めた。
 硬い大理石の肌は、やわらかな肉の肌へ。爪は薄紅に、唇は濡れたように艶やかな紅に。白いだけの瞳は淡い緑にきらめき、長いまつげがそれを縁取っていた。もはや明らかに生身となったその像はくすりと笑って、フードをとった。その下から現れたのは、ステンドグラスの光によって虹色に輝く、長い銀髪。
 ミッシェルは息を飲んで後ずさった。
 正体を現した夢魔はこの上なく妖艶に微笑み、ばさりと聖母の衣裳を脱ぎ捨てた。白い裸身が逆光で縁取られたように淡く光を放つ。
 重さを感じさせない動作で、祭壇から床へと夢魔はすべりおりた。
 その優雅さに少年は一瞬逃げることを忘れた。


 彼がはっとして身をひるがえした時、すばやくサキュバスは駆け寄ってその手首をつかんだ。
 女のものとは思えない、強い力だった。
 怯えた目でミッシェルは女を見つめた。
 次の瞬間、彼は冷たい床に背中からたたきつけられた。
 苦痛に一瞬目を閉じ、その目を開くと目の前に夢魔の顔があった。
「ふふっ」
 含み笑いが甘い香りの息とともに彼の顔にかかった。
「あ……」
 その先は声にならなかった。
「そんなに怖がらなくていいのよ。それに良心の痛みなんて最初だけ。あとはひたすら気持ちがいいの……」
「いやだ…」
「あら。ここのところ毎晩お楽しみなのに、いまさら嫌だというの。昨日の晩だって何度も出していたじゃない」
 ミッシェルは今朝、べとべとに汚れていた下着のことを思い出して、嫌悪感を強くした。「離せ、悪しき者よ!」
 払いのけようとする腕をあっさりとにぎり、夢魔はくすくすと笑った。
「あなたももう共犯よ。あなたはすでに『救われない者』なのよ」
 絶望に身をすくませるミッシェルの服を、夢魔は素早く剥ぎ取った。
 まだ雄になりきっていない、未熟な体が露になる。
 それは上にのしかかる女の成熟した肉体と比べて、痛々しいほどに力を欠いた体だった。

 夜明け前の闇の濃い時刻、学生寮の屋根の上に女がひとり座っていた。
 周囲の暗さに紛れるような、黒い衣服に身を包み、夜風に銀髪をなびかせていた。
 白く形のよい指が、血の色が皮膚の下から透けて紅に艶めく唇を、撫でた。
 それはキスを回想するときの仕草にも似て、なまめかしかった。
「モリガン様……ご満足なされましたか」
 その肩の蝙蝠が囁く。
「ええ。汚れを知らない少年を堕とす気分は、いつも甘いものね」
「明日また魔界の扉が開きます」
「そうね。ほかにも美味しそうな男の子はいたけど、そろそろ帰らないとペジの胃に穴が開くわね」
「はい。それから魔王様がモリガン様を、後継者としてお披露目する宴の準備のために、モリガン様に会おうとなさる可能性があります」
「厄介なパーティーもあったものだわね。魔界に帰ったら、魔王の後継者。このままここで暮らしたいわ」
「そんなことをおっしゃらずに……」
「はいはい」
 夢魔は周囲の蝙蝠たちを翼に変え、屋根から飛び去った。その姿は夜闇の中で、虚空へ吸い込まれるように消えた。

                           第四章に続く


 2000.6.11.脱稿

 作者 水沢晶

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