Sorry,this fanfiction was written in Japanese.

 冷たい薔薇

                    水沢晶

 プロローグ

 今夜はどこに遊びに行こうかしら。
 魔王の城の一室で、美しい魔物が夜空を見上げていた。
 吸い込まれそうに深い緑の瞳、それを縁取る長いまつげ、気位の高さを感じさせる通った鼻筋と、綺麗に整えられた眉。優雅なカーブを描くあごの線を、淡く輝く長い銀髪が飾る。そして、濡れたように光る黒い服をまとい、抜けるように白い肌をしていた。
 その夢魔の名はモリガン。
 生まれると同時に魔王の慧眼によって、類い稀な力をもつと見抜かれたサキュバスである。「この者こそ我の後継者」と魔王ベリオールは定め、モリガンは下等種族とされる淫魔でありながら、幼い頃から魔王の保護下におかれた。
 モリガン自身は、魔界に住む者どもの多くが欲してやまぬ、魔王の後継者という地位については、「そんなのまだ先の話よ」と思って、好き勝手な暮らしをしていた。
 貴族階級の集まる舞踏会へ踊りにいって、いい男を誘おうかしら。
 「狩場」となっている街で美少年を探して、餌食にしちゃおうかしら。
 それとも、山の近くの樹海へ行き、群れなす魔界獣と闘ってみようかしら。
 お抱えデザイナーを呼びつけて、ドレスを新調するというのもいいわね……。
 そんなモリガンの夢想を、従者のアデュースが破った。
「モリガン様。ベリオール様が今夜はお話があるので、お出かけにならないようにとおっしゃっておられます」
「えっ?! ・・・何よ、いきなり。遊びにいくつもりだったのに」
「それはお気の毒ですが、大事なお話だそうですので。どうも、悪い知らせのようです」
「……わかったわよ」
 モリガンはむくれて、ベッドに身を投げ出した。

「いい夜だな、モリガン。元気そうで何よりだ」
 小山のような巨体を大広間の玉座に据え、ベリオールはモリガンを見下ろしていた。
「魔王様もごきげんうるわしゅう」
 と、モリガンは貴婦人らしく優雅に一礼をした。
「話というのはだな、モリガン。霊王ガルナンが数日前、体調を崩して倒れたそうだ」
「まあ。お亡くなりになりそうなのでしょうか?」
「いや、今は持ち直しているようだが、あの老体だ。いつまた倒れ、起き上がれなくなるかわからん」
「それは大変ですわね」
 さして、大変だとも思っていない口ぶりでモリガンは返した。
「実際、大変なことだ。もしこのままガルナンが死んだりするようなことがあれば、魔界に戦乱があることは確実だろう」
「そうでございましょうか? 誰かがガルナンの後を継ぐだけではありません?」
「現在ガルナンには、名声と実力を兼ね備えた後継者はいない。だから彼が死ねば、彼の一族が戦を伴う跡目争いを繰り広げるだろう。最悪、ヴォシュタル家がそのまま滅ぶということもありうる」
「アーンスランド家、ドーマ家、ヴォシュタル家の三巨頭体勢が崩れる訳でございますわね」
「その通りだ。悪くすると、近々大規模な争いが起こるかもしれない」
「ふうん、そうでございますか」
 でも、私には関係ないわ、といいたげなモリガンに、魔王は告げた。
「ところで、モリガンよ。お前もそろそろいい年なのだから、結婚を考えてはどうだ」
「! ……なんでそういう話の展開になるのでございますか?」
「お前は私の後継者であり、いずれは魔界一の名門アーンスランド家を継ぐものだ」
「ベリオール様は、この世に永遠のものはない、このアーンスランド家も、そのうち絶えると常日頃おっしゃっているではありませんか」
「その通り、アーンスランド家もいずれは終わろう。しかし、私は自分がいずれ死ぬからと言って、自殺する気はない。それと同じように、後継者を定めずに死ぬ気はない。ヴォシュタル家は、ガルナンが死ねば、滅ぶか、大幅に勢力範囲を狭める。アーンスランド家をそのようには、やはりしたくない」
「それはそうかもしれませんが、それと私の結婚が何の関係があるのでしょうか」
「私は強い魔力を持つお前を我が後継者に定めた。しかし、私の見るところによると、お前は結婚して子供を作る気も、力あるものを養子に迎える気もなく、ただ遊び回っているように見える」
「それが悪いのでしょうか」
 モリガンはすねたように言った。
「アーンスランド家の存続という観点からすればな。このままお前に魔王の座を譲れば、その時からおまえが死ぬまでの数百年間、お前は遊び回り、後継者も定めず死ぬだろう」
「サキュバスはそういう生き物でございますわ」
 そもそも私を後継者に選ぶことが間違っているのではないかしら、とモリガンは思ったが、さすがに魔王に対してそれは言えなかった。その気持ちを見抜いたらしく、魔王は、
「お前が思っている以上にお前は強く、賢いのだよ。お前は魔王の後継者たるべく定められて生まれて来たのだ。そして、今では立派な貴婦人だ。これから、ほどなくして私はお前が我が後継者であることを魔界中に発表する。私が突然に死んでもいいようにな。それとともに魔界中の独身貴族がお前に結婚を申し込むだろうよ」
 その言葉に、モリガンはふふと笑った。
「誰が、サキュバスと結婚したがるというのでしょうね。愛人ならともかく」
「魔王の後継者というなら、話は別だろう」
「ですが、そもそもなぜ寿命の短い私をお選びになったのです。ベリオール様の方が、私などより長く生きるのではございません?」
「そう考えるのも当然だな。ではおまえだけに私の予知を語ってやろう。私はおまえより先に死ぬ」
 魔王はあまりにも平静にその未来を口にした。
「まさか……」
 モリガンは絶句した。
「なぜ死ぬかまではわからぬがな。そういうことだ、娘よ」
「……」
 モリガンは沈黙した。
 どうも自分を取り巻く事態というのは、思っていた以上に深刻らしい。
 このまま、自分の未来は魔界の女王、あるいは大貴族の妻ということで、決定してしまうのだろうか。
 そんなうざったい肩書はいや。そんな面倒臭くて窮屈な未来は真っ平。魔界やアーンスランド家が滅びたって構いはしない。と、内心でモリガンは思ったが、優雅で気ままな生活が出来るのは、魔王ベリオールの保護があってのことだとよくわかっていた。断れはしない。
 また、モリガンは彼女なりに魔王ベリオールを敬愛してもいたので、魔王に正面きって反抗する気は起きなかった。
「話はそういうことだ。それでは退がってよい」
 とモリガンは言われ、一礼して退出した。
 その後、自室に戻ったモリガンはおつきのコウモリ男、アデュースの反対を押し切って、人間界への旅を決行した。
「何か、これからしばらく遊びにいけない気がするから、その前に遠いところへ旅行に行きたいわ」
 魔王の地位を継ぐだのなんだのという面倒臭さを我慢しろと言うなら、これくらいのわがまま許してくれたっていいじゃない、と勝手な理屈を付け、モリガンは気晴らしの旅に出たのだった。

 第一章 黒蛋白石の指輪

 地上は黒いヴェールを何枚も重ねたような、濃密な闇に包まれていた。
 それは闇が常に人の暮らしと共にあったころ。まだ、夜の地上を人工の光が埋め尽くすようなことはなかった。
 満月の微かな光が、人が眠るための町、宿場町を照らしだす。
 細い道を命綱にする寂れた町の、すぐまわりは月光を吸い込む深い森で、町は今にも暗い樹木の海に飲み込まれそうに見えた。
 その町の教会の塔の上辺り。夜空と生き物たちの地上との間に、翼を広げた魔物が羽ばたいていた。
 人間界の夜空の中でモリガンは、何かに気づいたように、くるりと宙で旋回した。
「この気配は……闇の住人?」
 その口元には楽しげな笑みが浮かび、瞳は面白そうに輝いた。
 つうと滑るようにその気配が感じられる優雅な邸宅の窓へと近づく。
 どうやら、この宿場町一番の金持ちの家らしい。
 とん、と軽やかな音と共にバルコニーにおりる。
 その音に寝室のベッドの魔物が振り向いた。背中には青黒く大きな翼、炭火のように光る目。大きく骨張った手には鋭く長い爪が生えている。その手はがっしりと犠牲者の肩を掴んでいた。
「貴様、何者だ」
 血まみれの唇からのぞく白い牙。彼の正体に、他の答えはなかった。
「あら、お食事中だったの。ごめんなさいね、吸血鬼さん」
 そのふざけた態度に明らかに相手はむっとした様子だった。
 男はベッドから降りると滑るように移動し、彼女の目の前に立った。それとともにその身を品のある人間の男性の姿へと変える。威圧するように腕を組み、じろりと見下ろす。
「私に何の用だ」
「別に用がある訳じゃないの。ただ、人間界に私と同じ魔界の者がいるのは、極めてまれなことだもの。どんなやつなのか、ちょっと興味がわいただけ」
「それだけの理由で私の邪魔をしたのかね」
 切れ長の目に怒りの色が見えた。
 モリガンはさすがにまずかったかしら、と思った。吸血鬼にとっては食事している所をのぞかれるというのは、性交をのぞかれるのと同じような意味をもつ。さらに、その快楽を中断されたら腹も立とうというものである。
「悪かったわね、お楽しみの邪魔をして。それじゃ私は帰るから、ごゆっくりどうぞ」
「それで済むか、無礼者め!」
 吸血鬼は骨太の指を夢魔の肩にがっしりと食い込ませた。
「君の血でこの償いはしてもらおうか」
 そのままのどに牙を突き立てようとするのを、夢魔は体をひねってかわし、男の腕を振りほどいた。
「ほう…」
 これは意外だという表情が男の顔に浮かんだ。
「ふふっ、私と闘う気なの? それなら外でやりましょうよ」
 挑発して、夢魔はバルコニーから飛んだ。
「ちっ」
 吸血鬼も大きな翼を広げた。
 少し離れた森の奥に、両者は降り立った。


「それでは、始めましょうか」
「すぐに終わるだろうがね」
 男が女に向かってすっと近づく。女は同時に後ろへとジャンプする。
「はっ!」
 空中から光弾が放たれる。だが、その一瞬に男の姿は消えた。
 直後にモリガンの頭上から男がキックを食らわす。
「あっ」
 すんでの所でガードしたが、そのままがっちりと抱きかかえられる。
 頭から地面にたたき落とされる。そのまま立ち上がるとくらくらした。
「ファイア!」
 男の声と共にコウモリがモリガンの首筋目がけて飛びかかる。
 女は自らの翼でガードする。その隙を狙って男が近づき、飛び蹴りをする。
「えいっ!」
 みるまにモリガンの翼が刃に変じる。その刃は男の太もものあたりに浅い傷を負わせた。
「ぬおっ…!」
 地上に倒れた男に女が歩いて近づく。起き上がろうとする相手に蹴りを入れようとするが、男の動きは予想以上に素早かった。女の方に一歩踏み込んで鳩尾に拳をたたきこむ。
「っあっ!」
 モリガンは殴られた所を押さえて、出来る限りすばやく後ろに下がった。
 男がその後を追う。次の瞬間モリガンの翼が何本もの長い刺に変じる。鋭いそれは、男の四肢にいくつもの傷を負わせた。
 吸血鬼が痛みに足を止めたその時に、夢魔は後ろへ大きくジャンプして言った。
「なかなかやるじゃないの。今夜はとりあえず、引き分けということにしない?」
 まだ闘えるとは感じていたが、ここでケガをするのも馬鹿らしいと思った吸血鬼も構えをといた。
「フッ。女でこの私と闘える者がいるとはな」
「それでは、私はこれで失礼するわ」
 夢魔は微笑んで一礼した。
「おや、名前を教えてはくれないのかね。できれば、また会いたいものだ」
 吸血鬼は先程までとは打って変わった、紳士的な笑みを浮かべた。
「あら、食事をおごって下さるのかしら? 別に名前を知らずともそういう運命であれば、またどこかでお会いできるわ」
「なるほどな。それでは再会の約束の証しとしてこの指輪を贈ろう」
 吸血鬼は自分の右手人差し指から、指輪をひとつ抜いて、空に投げた。
 モリガンの手の中に落ちたそれは、月の光を受けて妖しくきらめいた。
「ありがとう。もらっておくわ」
「いずれまた会おう」
 男は大地を蹴って夜空に飛び去った。
 モリガンがその指輪をじっくりと見ると、それは銀の台座に大粒のブラックオパールをはめたもので、白く輝くダイヤがそのまわりに飾ってあった。その色合は闇の中に虹色の炎が燃え立つようで、彼女は一目で気に入った。
「綺麗……なかなかいいセンスしているじゃないの、あの男」
 その指輪のサイズはやはり彼女の指には合わなかったが、そんなものは宝飾職人に直させればいいことだ。
「あら?」
 その指輪の内側を見て、彼女は声をあげた。
 名前が彫ってある。
「Demitri.M」
 さすがに彼女もその名は耳にしたことがあった。
「あら、あの男がデミトリ……でも、それって誰だったかしら?」
 つぶやいてモリガンは指輪を、開いた胸元から、服の内側にすべりこませた。
 その時、彼女の頭についている翼がコウモリに変じた。
「モリガン様……」
「あら、アデュース」
 笑って流し目をする。
「あのですね。とりあえず今まで黙っていましたが、今回の行動はあまりに軽はずみですよ!」
 彼はモリガンおつきのコウモリ部隊隊長だった。
「ただのなりゆきじゃない」
「なりゆきで命懸けの闘いなんておっぱじめないで下さい。それに、誰だったかしらじゃないでしょう! 魔界七貴族のマキシモフ家の当主ですよ! これでどちらかか死んだりしていたら、下手すりゃ両家が敵対関係になってしまいます! アーンスランド家の次期当主とマキシモフ家の当主が……」
「何? 援助交際?」
 指輪を胸元から取り出してモリガンが笑う。
「うっうっ」
 アデュースがコウモリ姿のまま、泣きまねをして見せる。
「いいじゃないの。私がアーンスランド家の次期当主だということはまだ知られていないんだし。ここでどちらかが死んでも、どうせ真相は闇の中よ」
「顔と名が伏せられているだけで、サキュバスらしいということはみんな知っています!」
 モリガンは涼しい顔でまた指輪を服の内に落とし、アデュースに告げた。
「ちょっとケガをしてしまったから、今晩はあの小さな宿屋に戻って休むことにするわ。しばらくしたらまた、『扉』が開くから、そのまま帰りましょう」
 モリガンは人間になりすまして、宿屋に部屋をとっていた。そこが人間界滞在時の彼女の行動の拠点となるのである。
「賢明な判断でございます」
 アデュースは安心したように言った。
「それとも一月くらい、お散歩しようかしら」
「モリガンさ〜ま〜」
 モリガンはアデュースにくすりと笑って見せると、夜空に高く舞った。
 闇にはただ、薔薇の花に似た香りだけが残された。

 執事のペジはモリガンの部屋の扉の前で軽くため息をついた。
 何か嫌な予感がする。もしかしたら、またどこかへお忍びで出かけてしまったのでは?
 そんな感じがするのだ。
 こほん、と咳払いをして、恐る恐る扉に手を伸ばす。
 ……もしいなかったら、ベリオール様に気づかれないようにうまくごまかさなくてはいけない。あの何かにつけ鋭い魔王を相手に、である。それも大変な仕事だが、何よりも無事に帰ってくるかどうかをびくびくしながら待つのが辛い。
 さいわい、これまでは何事もなかったかのように帰ってきているが、軽い怪我をしていたこともあった。同行したアデュースに後で聞くと、「狼男とやり合ったんですよ」という恐ろしい返事だった。
 モリガン自身は自分がどこで誰と戦おうが勝手、と考えているが、とんでもない。
 例えサキュバスの小娘であろうとも、彼女は魔王ベリオールのお気に入りなのである。
 もし、モリガンがお忍びで出掛けて大怪我でもしたら?
 そして、それが魔王にバレたら?
 ……執事の彼が管理責任を問われるのは間違いない。クビですめばよいが、死刑とかいう展開もありうる。
 自分が火あぶりにされる様を想像して執事は軽く身震いをした。
 呼び鈴の紐をひいて声をかける。
「お嬢様……おいでですか」
 返事がない。
 おつきのアデュースが代わりに返事をするようなこともない。
 もしや……。
「失礼させていただきます」
 すっと扉を開けて彼は部屋に入った。モリガンの住居として使われているのは魔王の城の一棟の南端だった。そしてその応接間には誰もいなかった。
 すっと血が冷えるのを感じながら執事は応接間から、食堂に入った。
 しかし、机にゆりを生けた花瓶がおいてあるのみで、誰もいなかった。
 モリガンが自分の好きな本や楽譜などを集めた書斎に入った。が、ここも空だった。普段ならここで退屈しながら家庭教師に礼儀作法や歴史を習っているはずなのだが。
 ますます現実は厳しい。
 となりの部屋はピアノなどがおいてある音楽室だったが、ピアノどころか物音ひとつしない。念のために扉を開けてみたが、やはり誰もいない。楽士でもあるアデュースがフルートを磨いているようなことさえなかった。
 いくつもの部屋をまわり、もはや残る可能性は寝室しかなかった。彼は念のために耳をすましてみた。話し声どころか、物音ひとつしない。
「お嬢様……失礼致します」
 ノックをして、執事は静かに扉を開いた。
 寝室は空だった。
 彼は予感の的中に呆然とした。
 しかし、すぐに気を取り直した。
 もしかしたら、出掛けているといっても人間界ではないかもしれない。
 魔界の辺境で獣系モンスターを狩って遊んでいるのかもしれないし、城下町で男を誘ってよろしくやっているのかもしれない。こっそりと地方の舞踏会に行ったのかもしれない。
 しかし、彼のはかない望みは天蓋つきベッドのわきの一枚の置き手紙によってあっさりと打ち砕かれた。それはアデュースからのものだった。

 ペジ様へ

 前略 またモリガン様が人間界に行きたいと騒ぐので、ついていきます。
 すみません。
 私としても止めようとしたんですが、いつもながらやると決めたらどこまでもという方ですから、それはかないませんでした。
「あなたがついてこなくても私一人で行くわ」と言われては、お供するほかはありません。
 さらに、「刺激を求めるのはサキュバスの本能よ。この衝動には逆らえないわ」ともおっしゃりますし……。そう言われると「とりあえず城の庭でも散歩していて下さい」とも言えませんし。そういうことを言うと「退屈で頭が痛くなる」だの「肌が荒れる」だのと子供のようにだだをこねますし。おっと失礼な表現でしたか。
 という訳で後をよろしくお願いします。 草々

              アデュース=フォーレスト
 
 言い訳だらけの置き手紙を手にしたまま、執事はしばらく硬直していた。
 モリガンは、またも彼に試練を与えたのだった。

 広大な魔王の城の庭に小さなあずまやがあった。長身痩躯で紺色の服の男が供もつけずに、葉擦れの音を聞きながら、そこで読書をしていた。
 彼は長い爪の生えた左手で革表紙を持ち、右手に銀色のしおりを握っていた。
 ドーマ家の当主、ジェダ。冥王と呼ばれて恐れられる彼だった。
 魔王との謁見の時間を待つ間、庭の散歩を許可されたので、一通り歩いた後、この東屋で、『続・魔界の生物の進化について』という本を読んでいたのである。
 その本は、「魔界の生物はかつてひとつの『神』であった。それがわかれ、このような多様な進化を遂げたのである」というような論旨で、理論そのものは聞きあきた退屈なものだった。だが、作者であるリリアンは魔界有数の生物学者であり、その名に恥じず、魔界生物を知るうえで貴重な資料となる本だった。
 リリアンは綿密な調査に基づいて、どのように生物が「個性化」していったのかをよく分析していた。
 「個性化」した生物があくなき闘争を繰り返すことによって、魔界には様々な力を持つ魔物が溢れるようになったのである、闘争こそがこの魔界を発展させてきたのだというリリアンの意見にはジェダも基本的に賛成だった。
 だが、それはこの魔界という世界が若いころの話ではないか。
 もはやそのような闘争と個性化は、この魔界を荒廃させるだけのものとなったのではないか。
 ジェダは常々そう考えていた。
 いまや争い生き残るためだけに、特殊な能力を発達させた魔物たちの多くは、それゆえに進化の袋小路に入り込み、自らを滅ぼしていった。
 その好例がサキュバスだ。
 ジェダは『続・魔界の生物の進化について』のサキュバスについてのページをめくった。

「サキュバスはとても短命の種族で、その寿命はたかだか400年程度。それゆえか彼女らの生き方はとても激しい。飽くことなく刺激と快楽を求め続け、そのためにのみ生きる。退屈には堪えられない。仮に彼女らを密閉されたせまい空間にひとりだけで閉じ込めたとしたら、その余りの退屈さに2日目には死んでしまう。ホルモンバランスが崩れ、内臓の様々な機能が急激に低下するからである。
 淫魔の脳が常に「新たなる刺激」を求めるのは、次々に獲物をとらえなければ飢えて死ぬという彼女らのエネルギー代謝効率の問題から来たものと考えられる。
 しかし、進化の過程で「刺激」に対する欲望だけが突出し、それを「食事」によって満たすことが出来なくなって行く。
 これは種族の存続の危機であった。多くの夢魔が刺激を求めるあまり、他の種との必要のない戦闘や捕食のためでない性的快楽にのめり込み、淫魔の数はここ数百年で急激に減った。
 現在サキュバス族は魔界に約300匹。このままでは1〜2世代後には種族そのものが消え去ってしまう。彼女ら自身はしかし、その状態を悲観することもなく、気ままな暮らしを楽しんでいる。
 だが、このような快楽重視の態度こそが、彼女らを絶滅の危機に追い込んでいるとも言えるのだ」
(『続・魔界の生物の進化について』 
 著者 リリアン=アミ から)

 ジェダはその箇所に銀のしおりを挟んで、一度本を閉じた。
 サキュバスか。このような記述を読むと愚かな種族の見本としか思えぬが、魔王ベリオールがサキュバスの小娘を、高い地位につけるつもりでかわいがっているというのは、どういうことだろう。
 ジェダは100年程前、この城を訪れた時、この庭で薔薇を摘んでいたモリガンに出会った。
 その時彼女は胸に黄色い薔薇を抱き、薄青のドレスに身を包んでいた。
 太陽のない魔界に存在する、大きな月が銀髪を淡く輝かせていた。
 その姿をジェダは「美しい」とは思ったが、「好みだ」とは思わず、ただどこの貴族の娘だろうと考えていた。
 儀礼的なあいさつと二言三言の会話を交わしてすれ違っただけだった。が、強く印象に残った。
 ジェダがあまり好まない、肉体のすみずみにまで蜜が染みとおっているような色気と、燃え盛る炎を胸に抱いているような強い魔力。
 色と力を備えつつ、それが露骨に迫ってこない品性には、彼にふむ……と思わせるようなものがあった。
 ジェダがその女がアーンスランド一族の、諍いの種になっている夢魔であると知ったのは、後日であった。だが、当時の彼は「魔王のお気に入り」ということに関して「どうせ大人になったら愛人のひとりにでもするつもりだろう」としか思っていなかったのだ。
 だが……。
 そんな彼の回想を彼の供の声が破った。
「ジェダ様。魔王陛下の部下から、そろそろおいでになるようにとの連絡がございました」
「わかった。すぐ行く」
 ジェダは彼の部下に本を手渡して、音もなく立ち上がった。

「ドーマ家当主だが、魔王陛下にお目どおり願いたい」
 柔らかく知的な声が、謁見の間に通じる扉の番人に用を告げた。
「どうぞ、お通り下さいませ。わざわざ御足労ありがとうございました」
 番人が一礼するとともに、重いはずの扉が驚くほど滑らかに開いた。
 真っすぐに空を斬る、細身の剣のように空気をかき回さぬ動きで、ジェダは謁見の間の中央にまで進んだ。
 魔王は小山の様な巨躯を玉座に据えて、ジェダを見下ろしていた。
「ドーマ家の当主か。今回は……南の地方の貴族の反乱の鎮圧についてだったな」
「はい。アーンスランド家の領地と接する地方ですので、彼らに食料その他の物資が流れないように、我が領地の南半分の国境を封鎖して下さると有り難いのですが」
「そういった無用な騒ぎは、こちらとしても不都合な事態なので、協力しよう。何なら、兵を貸すぞ」
「そこまで、陛下のお手を煩わす訳にはいきません」
 とジェダは恭しく頭を下げたが、内心では、アーンスランド家の軍隊に自分の領地に入られてたまるかと思っていた。悪くすると、そのまま南の領地をとられかねない。
「わかった、そのように取り計らおう」
「ありがとうございます」
 そして、両者は取引の詳しい内容の検討に入った。
 帰り際、ジェダはベリオールに質問した。
「ところで、魔王陛下。差し支えなければ、今噂になっているサキュバスの娘についてお聞かせ願いたいのですが」
「モリガンのことか。彼女は私の後継者とするつもりだ」
 ジェダはその言葉に、切れ長の目を鋭く光らせた。
「いずれ、夢魔を魔王にとのおおせですか?」
「そのとおり。2カ月後のパーティーで正式に発表する。いわば、あの女が将来魔界を統べる女となるのだよ」
 その話は彼も聞いたことがある。ベリオールは、自らの一族からではなく直接血のつながらない者から後継者を選ぶつもりだと。それが、例のサキュバスの小娘、という噂もあるにはあったが、彼は信じていなかった。
「くっくっく、後継者にするとの発表と同時に魔界中の貴族があの娘に結婚を申し込むだろうよ。見物だとおもわんかね」
 ジェダには一匹の女に無数の男が群がる光景は面白い見物というより、浅ましいものという気がした。
 しかし、ベリオールは真意のはかれない笑いをしながら言った。
「君も婿の座を狙ってみるかね。モリガンさえ良ければ私はかまわん」
「そのようなことをおっしゃってもよろしいのですか」
 ジェダは軽く眉をひそめた。花嫁の種族を思ったからである。
 それを見透かしたように、ベリオールは続けた。
「もちろん、婿となる男にはわしもふたつ程、約束せねばなるまい。モリガンが夫を餌食とすることはないという約束がひとつ、そして必ず夫と床を共にするという約束がもうひとつ。これを破ったら魔王の命に背いたとして、モリガンをアーンスランド家から絶縁するとしておこう」
「まことにごもっともな約束でございますな。これで安心してプロポーズできるというものです。…しかし、『モリガン様さえよければ』とおっしゃいましたが、婿は陛下が自らお決めになるのではないのですか?」
「さすがにモリガンはそこまでは素直ではない。結婚自体嫌がっておる」
 たいして困ってもいないような口調で、魔王はその大問題を言ってのけた。
「それはご心労のほどお察しします」
 とジェダは恭しく頭を下げた。だが内心で彼は、結婚したがるサキュバスなどいないだろうと思った。
 若ければなおさらだ。男など世の中に食い尽くせないほどいるのに、たったひとりを選ぶ理由をあの高慢そうな娘が見いだし得るのだろうか。「金」も「将来の安定」もおそらく「気ままに暮らす自由」を捨てる理由にはならない。
 あれだけ美しければ夢魔としての将来は保証されたも同然である。「愛」はなおさらお笑いだ。
 だが同時に彼は、モリガンにプロポーズする決意を固めていた。
 霊王ガルナンの余命がさほどないことは確かだ。彼の死とともに魔界は乱れるだろう。ならばその前に魔王と同盟を結ぶべきだ。
 もちろん、いずれはベリオールを倒すつもりだが、今はまだ早い。殺す前に殺されては何にもならない。
 ここはとりあえず、友好的なそぶりを見せておくだけでもいい。
 それが、ジェダの考えだった。
 一時間程の会談を終え、ジェダは謁見の間から長い廊下へと退出した。
 そのとき、彼は何人かの供を連れたデミトリに出くわした。
 向こうも彼に気づき、マントをひるがえして歩み寄った。
「これはこれは。冥王様でいらっしゃいますか。ごきげんうるわしゅう」
 ジェダはデミトリのことを血の気の多すぎる野心家と思っていたが、静かにほほ笑んだ。「貴公もおいでになっていたとは知りませんでした。それで、こちらへはどのような用件で?」
「数日前からこの城に滞在しております。貴金属の関税の件で」
 マキシモフ家の当主はにこやかに返した。
 魔界貴族ふたりはその後ひととき、友好的に腹の探り合いをした。
「ところで、ジェダ殿。貴公は死者の魂、それも邪悪なものを好んで食物になさるといいますが、一日に『食べる』量に限界というのはおありでしょうか」
「ありませんね。私の本体はご存じのように不定形の液状なのですから、胃腸に食物を抱く訳ではないのです。ただ、そう上質な魂が大量に手に入る訳でもないので、ほぼ一定の魂を日々吸収しています。貴公も、一日に飲む血の量は決まっておいででしょう」
「その通りですな。やはり何となく、欲しい量というのはあります。ただ、質に関しては上限など感じませんな」
「貴公は美食家であられる」
 ジェダは微笑した。

 長くもない立ち話の後、ジェダは一礼をして彼の滞在している部屋へと去った。
 その背中の鎌のような翼を後ろから眺め、デミトリは、先日人間界で見た光景を思い出していた。
 美しい夢魔と一戦交えた後、彼は魔界への扉を探し、そこから帰ろうとした。
 しかし、その途中で異様な光景にぶつかったのだった。
 古き教会の高い塔の十字架の上に、背の高い魔物が立っていた。
 それは長く大きな鎌を両手で持ち、夜空をかき回すように振り回していた。
 デミトリが見る間に、その鎌に掻き寄せられるようにして、近くの墓場や湿っぽい夜風の中から多くの魂が集まって来た。
 その怨嗟や呪詛の声が、デミトリの鋭い耳には不吉な鳥たちの羽ばたきのように聞こえた。数多くの魂が、やがて長身の魔物のまわりに渦を巻いた。
 もし人間でその光景を目にしたものがあるとしても、夜闇に紛れて、落ち葉や布切れを巻き込んだ小さな竜巻が教会の上で踊っているとしか見えぬだろう。
 だが、デミトリの目にはそれこそが「冥王」の食事の光景であると知れた。
「苦しみもがく魂たちよ。私がお前達を救済しよう」
 ジェダが服の胸元を広げ、液状の肉体を露出すると、宙に舞う魂は蝙蝠の断末魔のような声をあげて、その中へと吸い込まれていった。
 服の前を合わせ、鎌を再び背の翼に戻す冥王は、先刻よりも強大な魔力を得たのが明らかだった。
 デミトリは相手に気づかれぬよう、急いでその場を離れた。
 自分の城に戻った後デミトリは、その光景の意味をじっくりと考えてみた。
 彼自身は栄養の摂取方法としては、様々な生物からの吸血を主とする種族であった。だから、人間界を視察に来たのも、人間を多量に魔界に連れ帰って家畜として繁殖させ、食用奴隷として売り飛ばす事は出来ないかなどと考えていたからであった。
 すでにデミトリ達吸血鬼の間では、人間の血は美味だと評判だった。検討して見る価値はあると思い、彼は人間界を訪れたのである。
 しかし、冥王ジェダが人間の魂を吸収する光景を見て、彼は自分が「人間界への扉」の存在価値を見損なっていたのではないかと思ったのだ。
 魂を糧とする魔物たちにとって、魔界の扉は強力なパワーアップの手段となり得る。
 これはもっと、詳しく調べてみるべきかもしれない。
 デミトリは、ジェダの去った方角を見つめ、厳しい目になった。


                              二章に続く

 


 2000.6.8.脱稿

 作者 水沢晶

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