失われたヴィーナス |
(1) 「先生 私 先生のファンなんです。 先生の個展には毎回来ています。」 久美子は彫刻家 碇 新造 に近づくと一礼して言葉をかけた。 「おお、これはありがとう。・・・で、どんな作品が好みかな?」 80歳の小柄な身体、白髪の頭を声をかけてきた若い女性の方に向けると、くわえていたパイプを手に持ち直した。 「はい 先生の作品はどれも美しくてまるで本当の人間のようです。しかもポージングのどれもが’、なんていうか・・・ボンデージシリーズなんかは物凄くアクロバチックなのに全然奇異じゃなくて、私達女性の曲線美が強調されていて、私はそこに凄く憧れているんです。」 「ありがとう、嬉しいですね・・・私のモデルは皆貴方と同じ世代の女性です。実際には、ほんの微妙に、あのような理想的なプロポーションは存在しないのですが、仕事の途中でより美しく芸術性が現れるように形成するのです。貴方が手にされているパンフレットにも、そう書いているでしょう・・・・・・失礼ですが、貴方のお名前は?」 碇は、自分よりもう上背のあるこの女性のスタイルの良さ、特に筋肉に吸い付くように穿かれたジーンズの長く美しい脚に目を引かれた。 「申し遅れました。私は柳瀬、柳瀬久美子と申します。テルチェ銀座店で販売員をしておりますが、モデル業を副業にしております。」 「どうりで・・・モデルは服飾関係ですか?」 「はい、本当はショーモデルなどもやってみたいのですが、オファーが水着とか、スポーツウエアとか、身体の線が出たり露出ものしか来ないのです。」 「見たところ、とても美しくしっかりとした体格のようですが、なにかスポーツでも?」 「高校からテニスをしております。」 「ゴホゴホゴホゴホッ・・・・・・失礼、ちょっと心臓に問題がありましてね。そうですか・・・でも、それは貴方が、柳瀬さんのお身体がそのようなモデルに合っているからではありませんか!?。逆に、日本人の場合は、ショーモデルが柳瀬さんのような仕事で見栄えするかどうかは、わかりませんぞ。」 碇はパイプを持った手を胸に当てながら苦しげに乾いた咳をして、収まると、ゆっくりと言葉を出していった。 「あの、おタバコは 大丈夫なのですか?」 「フフフ これが無いと仕事がね・・・・・健康オタクだけが長生きしたり良い仕事ができるとは限りませんぞ。80代まで天寿をまっとうしたチャーチルだって死ぬまで例のデカイ葉巻をやっていたし、美食家だったんだ。」 「そ そうですか・・・このようなことを言うのははしたないかも知れませんが、いつまでもこのようなモデル業ができるかわからないのです。」 「ああ、なるほど、そういう心配があるのですねえ。」 碇は見上げていた柳瀬久美子の顔から、自分の足元に視線を落とすと呻く様に言った。 「あの!・・・先生・・・実はお願いがあるのです。」 「ふむ?」 碇は落とした視線を再び上げた。今時の女性のこのようなハッキリした態度、悪く言えば厚かましさはとうに慣れっこになっていた。 「先生に、私の身体をモデルにして作品を作っていただきたいのです。若い時の私の身体を残しておきたいのです。先生のアクロバティクな芸術性は、私のような肉体美の方がより美しさを表現されると思うのです。」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「先生 ぜひともお願いいたします」 「私のモデルは大変にきついですぞ、怖いと感じることさえありますぞ、 よろしいかな?。」 「はい 私は平気です。」 「それでは来週の火曜日、ここにおいでなさい。 ただし、約束して下さい。この事も場所も、誰にも漏らしてはなりません。」 碇は内ポケットから名刺入れを出し、名刺の裏に住所を書くと久美子に渡した。 「弘前市? 先生のアトリエは鎌倉ではないのですか?。」 「本当に重要な仕事は、来客がやたらと来るところでは駄目なんだよ。 特殊な溶液を使うし、私が苦労に苦労を重ねて完成させた溶液と硬化の方法は絶対に秘密だ。」 「ああ そうですよね・・・・それでは必ず青森に参ります。ありがとうございました。」 久美子は深く一礼すると、長い美脚ジーンズの足音を立てないようにしながら、個展会場から出ていった。 ・・・真意は、本当にモデルになりたいのだろうか?・・・それともスパイだろうか!?・・・ 碇は、一礼して去っていく美しい女のバックスタイルを細眼で睨みながら、久美子の真意を慮っていた。 |