『キン肉マンII世』27巻の人の全身を金メッキで覆うと、人は皮膚呼吸が出来なくなって死ぬ、これは科学的には間違いです。
なぜなら、人は皮膚呼吸をしていないからです。少なくともそれで生命活動を支えるほどには。
この全身に金粉を塗って窒息というのは『007 ゴールドフィンガー』(製作:1964年)が元ネタです。『キン肉マン』の地球を逆回転させて時を戻すのが『スーパーマン』(製作:1978年)を元ネタとするように、映画の影響を受けた科学的に反論可能な嘘です。
『007 ゴールドフィンガー』の全身に金箔を張られて殺される美女の話は、あまりにも有名になりました。映画を見たことがない人も、人の皮膚呼吸を信じるほどに。今では「人は皮膚呼吸をしている」に対する反論も多くなされていて、テレビでADさんに金箔を張って一日過ごさせて迷信を証明するような番組も放映されたそうです。なんせ40年前のネタですからね。簡単な説明としては小学生向けのののちゃんのふしぎ玉手箱がおすすめです。
そこまで広く知られたという事は、この話におとぎ話的説得力があったということなのでしょう。そのことを科学的に解説しつつ検証してみたいです。
人の肌に細かな穴が空いていることは、子供でも知っています。そして人の肌はやわらかくあるべきだということも、生理的に感じられることでしょう。成金趣味と固く穴のない人工の肌に対する恐れや嫌悪が、この話の説得力を支えている気がします。
穴をふさぐのがよくない、固いのがよくない、これはなぜなのかを検証してみましょう。
人の肌に穴が空いている理由の一つは、毛を生やすためですが、他には塩分などの不要物の排出、汗を流しての体温の調節のためなどがあります。これらの機能が阻害されるのがよくないのは、子供でもなんとなくわかるでしょう。汗をかけないのなら、動いた時など、体温があがりすぎて倒れそうです。
毛穴の役目には、肌に始終水や脂を補給するというのもあります。それは、乾燥した固い肌は伸び縮みしないからです。そんな肌は体の動きをさまたげ、激しい動きで裂けて血を流すことでしょう。あかぎれというのは、こういう現象です。
なので「やわらかく穴のあいた人の肌を、固く滑らかな金属などで覆ってしまうと不都合が起きる」というところまでは、子供にもなんとなくわかる真理ですが、その理由は人が肌から酸素を取り込んでいるからではないのですね。
空気に接しているのになぜ人の肌が、酸素をとりこまないかというと、人の肌は角質細胞というすでに死んだ細胞で覆われているからです。そうでなければ、人の肌はあまりに傷つきやすいでしょう。逆に人の肺の中は生きた細胞を取り込んだ空気に対して露出させています。それによって酸素が細胞と細胞の間を流れる水分にとけ、また血液にとけて、全身をめぐる仕組みです。
もっとも人間と違って『キン肉マンII世』の超人は皮膚呼吸をしているんだ、といわれたら突っ込みの入れようもありません。そうなると超人の肌というのは、皮膚呼吸をするカエルのようにやわらかく濡れた肌……ということになりそうですが。しかし、カエルの全身に金箔を張ったら死ぬんでしょうか。
ゆで先生が、今回あえてこれを採用したのはなぜか、考えてみましょう。
おそらくゆで先生も以前この嘘にだまされてしまって、強い印象を受けたことがあるからだと思います。
そしてまた、有名映画が元ネタなので、「この程度の嘘は娯楽作品として許される」というように考えられたのではないかと思います。キン肉マン元ネタ集を見るとわかるように、ゆでたまご先生はあまり他の作品のネタの使用やパロディとかに抵抗のない人です。
科学に関する嘘の長所は「即座に反論できるのは、その方面の教養がある者に限られる」ということでしょう。なので上映時間2時間程度で、嘘から一気にエンディングまでいってしまう映画の場合、多くの人が気がつくのは「ああ、面白かった」と映画館を出た後です。おかしいとはっきりと思う前に感動してしまうのですね。ですが週刊連載まんがの場合は、インパクトのある嘘を聞いてから感動のエンディングまで一月かかったりするので、小学生がその間に学校の先生や親や友人や兄弟に「地球を逆回転させると時間が戻るの?」と聞いて「そんなことはない」と教えられてしまうような展開もあったでしょう。こうした形で『キン肉マン』を信じる幼い自分に、別れを告げてしまった子供もきっといたことでしょう。もちろん「地球を逆回転させる完璧超人はなんてすごいんだ!」と思った子供もいたことでしょうが、数年後彼はそう思った自分を忘れ、『キン肉マン』をバカにする中学生になったかもしれません。
また、既成の嘘を使うことは諸刃の剣ですね。嘘でもよく知られているから騙される人もいる、間違いだと知っているがパロディとして楽しむ人がいる、というのがその長所だと思います。逆によく知られているので、それが間違いだとはっきり知っている人も少なくない、というのがその短所です。
全身に金箔を張って窒息というのは、私も小学生の時に怪談(都市伝説?)としてそういう話を当時の友人から聞いたのですが、その時はとりあえず「本当かもしれないこと」として聞いていました。もっとも中学生の頃までには人に聞いたり、理科の教科書かなんかで調べて「そんなことはない」と思うようになっていました。私が生まれる前の映画が元ネタというのは、この文章を書く際に初めて知りました。もしかしたら007以前にもこういう誤解はあったのかもしれませんが、一気に広まったのはやはり映画の公開後からでしょう。
ですから、私がこの嘘が初耳であり、中学生くらいの時に『キン肉マンII世』27巻を読んだのなら、つい感動してしまったかもしれません。ですがこの嘘は、私にとってすでに迷信でした。なので「あの全身の金メッキがいけない」とかいうチェックに内心で「いや、問題なのはそこじゃないと思う」とか突っ込んでしまって、ケビンの死を悲しみ損ねました。
逆に小学生くらいで「金箔を張って窒息」の話を聞いた私がそののち科学の本を読んだときとかに、皮膚や呼吸に関する供述を丁寧に読んでいたというのは、「その話にインパクトがあった」からにほかなりません。そういう意味では「使えるネタ」なのですが、正直1964年の映画のネタでは賞味期限が切れている気がします。『キン肉マンII世』の27巻の発売は2005年です。
『キン肉マンII世』の読者のどれだけが、金粉と皮膚呼吸の話を事前に聞いたことがあるかどうかは、わかりかねます。もはや『007 ゴールドフィンガー』を見たことがある人も少ないと思うので、パロディとしては成立しづらいでしょうし、いまや皮膚呼吸の話を誰かに聞かされた人も少ないでしょうと思うのですが。まあ、「皮膚呼吸って初めて聞いたので、なんとなくゆでの迫力に騙された」という読者は21世紀にも多かったでしょうが。
似た神話やメルヒェンは、ミダス王と金メッキをした狐でしょう。
「電子レンジに金属」については理論を説明するチェック、自分の経験を思い出して納得する凛子と、学研の科学まんがでも読んでいるような気がするほどの手際のよさでした。ただ、チェックの説明では、肝心な所が不十分ですね。電子レンジに金属を入れて火花がとぶのは「金属がマイクロ波を跳ね返す」からではなく、「電波の一種であるマイクロ波が金属の表面で電流に変換され、放電が起きる」からです。例えるなら小さな落雷が金メッキと電子レンジの間にほとばしっているのですね。つまりケビンの死因は実は窒息死ではなく、金メッキに大量の電流が流れたことによる、熱傷をともなう感電死でしょう。司法解剖すればきっとそれが明らかになったと思います。気になるかたは中学生向けのどうして、電子レンジで金属を温めてはいけないのですか? あたりを参考にどうぞ。
ちなみに電子レンジで猫を乾かそうとして間違って殺しちゃった、という有名な話がありますが、これもどうやら都市伝説のようです。こういう話が有名になる背景には、どうして電子レンジでものがあったまるのか、きちんと理解できている人は少数だ、という事情があるでしょう。だからこそボルトマンの超人電子レンジは、超人オーブンレンジとかよりも不気味なのです。
この「電子レンジに金属」の説明不十分と「皮膚呼吸で窒息」の嘘のふたつがチェックファンとして納得いかないのは、どっちも「そう解説するチェックがおばか」と考えれば、筋がとおるからです。そうでなければ、ゆで世界の物理法則がおかしいことを疑わねばなりません(何をいまさら)。高校生ぐらいの年のチェックが、マイクロ波は金属を透過しないとか知っていれば上等だとか、おもわなくもありませんが。「皮膚呼吸で窒息」に関しては師匠のサンシャインもそれを信じていたようですので、チェックは師匠に教えられたことをそのまんま信じちゃったんだね、ということにしておきましょう。
下半身を奪われたサンシャインの呪いの言葉は、科学とか関係無しに、怖いものでした。なので単純に「サンシャインの身体の一部なんだから、金メッキがケビンの邪魔をするのは当然」で終わらせた方が、よかったかもしれません。『キン肉マン』の悪魔超人は、あからさまに呪術師でしたから、今回もそのノリで。
映画館でミートが叡智の子と讃えられる場面を見ると、ゆで先生にとっての頭の良さとは「発想がすごい」ことです。特にAとBを上手く組み合わせるといった発想です。
ですが『DEATH NOTE』の原作者大場つぐみ先生にとっては、感情を差し挟まず、論理的に物事を考えられることでしょう。
ゆで先生も論理的は論理的な人です。論理的でないストーリーテラーなどいません。素晴らしい感情論を展開してくれるのがゆで先生です。
ゆで先生にとっては「感情抜きの論理」はむしろ悪徳です。理知的なチェック・メイトや、狡猾なスカーフェイス、計算高いボーン・コールドが、敵役として登場していることからもそれはわかります。論理には本質的に「切り捨てる」働きがあります。『DEATH
NOTE』は主人公が他人を切り捨てまくる話ですね。論理は冷たく人を切り捨てるから、人は論理的であってはいけない、少なくともそれ一辺倒であってはいけない、というのがゆで先生の論理です。
頭の良さというのは、単純に知能の問題と言うよりは、生き方の問題であることも多いです。物語作家であるゆで先生はある意味とても「狙ってる」人なのですが、「自分は理知的で狡猾で計算高いと言われるような生き方はしたくない、人にそう見られるのもごめんだ」と、強く思っているので、あえていいかげんにすませてしまうことも多いのでしょう。そしてまた「バカじゃないゆでたまごなんて、誰も愛してくれないんじゃないか」と恐れておられるのでしょう。なので『キン肉マンII世』から妙にアンバランスな印象を読者は受けるのです。相当に頭のいい中年男性が、バカをやろうとしているわけですからね。
現在のゆで先生の「いいかげんさ」は、おそらく主にゆで先生の中でも結論の出ていない人生観の問題でしょうから、そう簡単になんとかなるものではないでしょうし、何とかする気もないかもしれません。論理は残酷だとか、甘えは愛嬌だとかいうようにゆで先生が思わなくなるか、新たなゆでたまごの作風なるものを見いだせたときにしか、なくならないものでしょう。そしてまた、バカとかなんとか言われつつも『キン肉マン』で日本中を席巻した「成功の記憶」にとらわれないことは、とても難しいでしょう。