Sorry,this fanfiction was written in Japanese.

第十二章 瑠璃色のマント

 ギララ山の山頂は強い風が吹いていた。そこは雲の海に突き立てられた石の剣の様な場所。魔界で最も天に近い地。
 白木の十字架に鎖で磔にされているモリガンは、風の音を聞きながら、青ざめて目を閉じていた。
 だが、ある気配を感じてモリガンは目を見開いた。
 その薄緑の瞳に映ったのは、虚空に巨大な蝙蝠の翼を広げた背の高い男。筋骨隆々たる体躯をサファイアブルーの燕尾服に包み、険しくも彫り深く端整な顔立ちの下で、純白のレースのスカーフをなびかせている。血の気なく滑らかな象牙の肌に、濃い琥珀色の逆立てられた髪、月光を浴びた紅玉の色の瞳。デミトリは足音も立てずに、山頂に舞い降りた。すぐさま二枚の翼が一枚のラピスブルーのマントに変わる。渦巻く風に、彼は裏地が鳩血色のマントをはためかせた。
 まさか来るとは思っていなかっただけに、モリガンは心底驚いた。
 ワインを満たした硝子の杯を大理石の床に投げつけるようにして、自分は彼の誇りを打ち砕いた筈。なのに、モリガンを見つめて不敵な笑みを浮かべるその姿は紛れもなく、彼女がよく見慣れた彼だった。
 虚勢? 違う。
 周囲を圧する強大な魔力の気配、またその尊大な表情や仕草から、そして何よりも燃えるように赤く輝く瞳から、彼の自信と闘志が疑える。
「あら、デミトリ。お元気そうね」
 単なる皮肉ではなしに、そう声をかける。彼のその様子に彼女は少しの悔しさと安堵を感じていた。
「君も無事で何よりだ」モリガンに散々翻弄されたことなど忘れたように、デミトリは優雅に微笑する。
「自ら罠に飛び込んでくるなんて、命知らずにもほどがあるわ」
 モリガンはいたわるような表情で言った。
 デミトリは厚い胸を張り、豪然と答えた。
「もちろん、私とて死ぬのは怖い。しかし、戦わぬ私など私ではない。私はここで闘い、勝利せねばならぬ。魔界の覇者となるために。」
 その凄絶なまでの誇りの高さに、モリガンは絶句した。
 自分に食われてなお、戦士としての矜持を保てる男がいるとは!
 心痛を振り切り、退廃を拒絶し、デミトリは前よりも力強く、闇の貴公子として再生していた。
「強いわね」
 モリガンは彼女にとって、最高の賛辞を口にした。
「有り難う」
 デミトリは美しく一礼した。
「感動の再会は終わったかね。」
 岩場の陰から現れたジェダが冷ややかに言った。
「随分と悪趣味な舞台を選んでくれたものだな。私としては、彼女との再会は風光明媚な地で行いたかったのだが。」
 デミトリは答えた。
「それは残念だな。だが、か弱き者を拒絶するここは魔界で最も美しい場所のひとつではないかね。しかし、契約は契約だからね。君はこの十日ここに近づかなかった。その代金として、彼女を連れ帰りたまえ。」
 デミトリは意外そうな顔でジェダを見た。
「君も知っての通り、魔界の扉は二週間ごとに開く。今宵がその夜だ。そして私はこの二週間、部下のオゾムに命じてこの扉を狭める封印を壊させていた。わかるかね?」
「事は済んだ、ということか。」
 デミトリの語調が険しくなる。」
「その通り。彼女を連れて君がここから去った直後、私は扉の魔力を全て吸収し、この魔界でもっとも強き者となる。その後、君たちを消し去ってあげよう。」
 理知的な口調でさらりと言ってのける。
「さあ、逃げたまえ。残されたわずかな時を楽しむといい。」
 デミトリはジェダに向き直ると身構えた。
「おや、何をする気かな。彼女を助ける方が先ではないのかね。」
 デミトリはためらうように、磔にされているモリガンを一瞥した。
「貴様を倒すのが先だ。扉が開くまで後一時間もなかろう。」
「その通りだ。さすがによく調べているね。」
 ジェダも自らの翼を大鎌に変えて、構えた。
「では……行くぞ!」
 ジェダはデミトリの飛び込みを予想して、鎌をふるった。
 しかし、それは空を切り、デミトリの姿は消えた。
 と、次の瞬間デミトリはジェダの目前に現れ、その肩をひっつかんだ。
 翼を用いての高いジャンプ、そしてジェダを頭からたたき落とす。
 デミトリは後ろにさっと離れ、ジェダの起きあがりを待った。
 起きあがったジェダは牽制のためか、デミトリに刃を投げた。
 デミトリは翼で軽く舞い、それを飛び越すと、ジェダを蹴り倒そうとした。
 だが、読まれていた。
「ちっ!」
 空中に残されたジェダの爪痕。それを伝って、ジェダの体液が空を走り、球状になってデミトリを包む。
 宙で溺れ、もがく彼の肌にジェダの爪が突き立てられる。
 デミトリは地に落とされた。立ち上がるのと同時に、翼を回転させて、ジェダの脇腹に切りつけた。
 かわしそこねたジェダの傷から赤いものが滴る。
 しかし、たちまち服の裂け目は消えた。彼にとっても服は魔力を実体化させた触れる幻影に過ぎない。
 しゃがみ込んでデミトリの拳をかわしざま、自らの体液を服から流しだして、デミトリにたたきつける。
 よろめくデミトリにジェダが爪を伸ばす。
 だが、彼はそれは防いだ。
「おや、荒淫のために力が落ちているかと思ったが、なかなかやるね。」
 からかうようにいいながら、少し下がって隙なく大鎌を構える。それは命を刈り取るための鎌。
「ふん、貴様などには負けはせん。」
 戦いは今の所、ジェダがわずかに有利だった。それを悟った冥王は氷の笑みを浮かべた。
「あの時は手加減していたのだよ。ガルナンの死が近いと知ってね。モリガンには利用価値はないと判断したのだ。ベリオールと闘うのにその養女など邪魔なだけだからね。」
 どうだか、とデミトリは思った。引き分けた後に譲った所を見ると、そうとれなくもないが、魔王と闘う気ならば手に入れておきたい駒でもあったはずだ。
 デミトリに小さな鎌を投げつけ、ジェダは頭からつっこむように滑空した。迎え打とうとしたデミトリの攻撃を防ぎ、デミトリが次の攻撃に移る間も与えずに両手の爪で両肩を裂く。
 デミトリの目の前に降り立ち、その肉体を掴もうとした瞬間、それが変貌した。彼本来の肉体へと。目を見開いたその時、逆にジェダがその腕に捕らえられた。
 ジェダの喉を噛み裂かんとデミトリが深く牙を立てる。皮膚を破られた所から体液がほとばしり、デミトリの肌を濡らす。
「不味い血だな!」
 いいざまにデミトリは自らの喉をおさえるジェダを殴り、渾身の力を込めて蹴り飛ばした。
 形勢は逆転した。
 デミトリは機に乗じて、ジェダに跳びかかった。
 しかし、それを読んでいたジェダの鎌で、右脚のふくらはぎ辺りに深い傷を負わせられる。
 デミトリは岩場に転倒した。
 顔についた土を手で拭いながら起きあがり、ジェダの方を見る。その目が見開かれた。
「動くな。」
 ジェダの声が響いた。
 彼は磔にされたモリガンの喉元に大鎌を突き付けていた。
 デミトリの目が険しくなる。
「この女を私に殺されたくなければな。」
 デミトリはジェダを睨みつけて、聞く者の魂を凍らせるような声で言った。
「殺したければ、殺せ。私はその女より自分が大事だ。」
「そうか。フフ、好きだのなんだのと口説いて、夜ごと体を重ねようとも、結局それが本音か。冷たい男だな。」
 モリガンは自分を凝視するデミトリをちらと見て、ジェダを見つめた。
 その瞳に恐怖はなく、冷たい誇りだけがあった。
「では、モリガン嬢には我が糧となって貰おう。」
 ジェダはデミトリから目を離さずに、モリガンの前に寄って、こう言った。
「悲しむことはない。君の魂は私の一部として安らぎを得るだろう。そして滅びに向かうこの魔界を救う、大いなる計画のために役立つのだよ。」
 モリガンは冷ややかに答えた。
「あなたは『救った』と思うことで、自分が救われたいだけ。全てのものは滅んで当然なのよ。でも、あなたは自分が滅ぶことが怖いのね。こんなのは結局、この残酷な世界で独り生きることにも、やがて死ぬことにも耐えられない、かよわい男の茶番だわ。」
 その言葉にジェダは怯んだ。
 しかし彼は短い沈黙の後、哀れむような目をした。
「所詮君には私の高邁な理想を、理解することなどできないのだね。それでは、さよならだ。」
 ジェダは長い爪を構え、モリガンの体を引き裂き、魂をつかみ出そうとした。
「……!」
 その瞬間、一匹のコウモリが両者の間に飛び込んで来た。
 そのコウモリは一瞬に女の姿へと変じた。カミーユだった。
 ジェダの爪は彼女の胸を深く貫いた。
 驚いた彼は魂をつかみださず、そのままその手を引き抜いた。
 次の瞬間モリガンをつなぎ止めていた鎖が弾け飛んだ。アデュースが小型の斧に変形させた翼で錠の部分を叩きこわしたのだった。会話の間にアデュース率いる蝙蝠部隊が、ジェダとモリガンのすぐ後ろの岩陰にまで忍び寄っていた。
 一瞬の出来事に驚いたジェダは、気配に気づいて振り返り、慌てて飛びのいた。デミトリが放った蝙蝠がすぐ目の前に迫っていたからだった。目標を外れた蝙蝠は、磔の板にあたってそれをたたき割った。
 自由になったモリガンはとりあえずカミーユの右腕を引っつかんで、ジェダと反対の方へ跳んだ。
 しかし、カミーユはすでに虫の息だった。モリガンはその耳に問うた。
「なぜ、私を助けたの…?」
「デミトリ様はあなたが欲しい……から…」
 胸を血に染めて、彼女はそれだけを告げた。
「あきれた…! そのために死ぬの? ねえ、それで死ぬことはないわよ!」
 モリガンはゆすったが、カミーユはすでに事切れていた。その遺体が崩れ灰と化して行く。
「部下を連れてくるなと言ったはずだが。」
 ジェダはカミーユの死を目前にして、さすがに悔しげなデミトリに告げた。
「私たちはモリガン様の部下で、その女性は私たちの連れです。デミトリ様の援軍ではありませんよ。」
「いえ。」
 モリガンがきっぱりとアデュースの言葉を否定した。
「デミトリ、この子に免じて力を貸すわ。」
 モリガンのまわりをアデュース達蝙蝠が取り巻く。それらは見る間に翼に変じた。モリガンはデミトリの傍らへと風を貫くように一直線に飛び、ジェダに対して身構えた。
「せっかくだが、君の手を借りるつもりはない。これは私の闘いだ。」
 デミトリは毅然とその申し出を撥ねつけた。
「散々巻き込んでおいて、そんなことをいうの?」
 そのとき、ジェダが柔らかく語りかけた。
「君が恨むべきなのは、私よりもその男の方ではないかね。彼の方が監禁期間も長く、監禁中の君に対する態度も君にとって屈辱的だったと思うが。私は別に君の体に触れるようなまねはしていない。君はその男をこそ、殺すべきだ。」
「もちろん、それについては許せないと思っているわよ。でも、少なくともこの男は、私を殺そうとはしなかったわ。」
「……。」
 今、モリガンを殺そうとしたばかりのジェダは、返事に詰まった。
「私はどんなに手段が間違っていても、私を欲する者には少しだけ優しいの。」
 そして、ジェダの方を向いたまま、デミトリに流し目をして宣言する。
「あなたに私と手を組む気がなくても、私は彼と闘うわ。いいわね。これは私自身のお返しでもあるの。」
「好きにするがいい。」
 デミトリは複雑な顔で言い捨てると、彼もまたジェダに向き直った。
「ソウルフィスト!」
「ファイア!」
 モリガンが空中から、デミトリが地上から、それぞれ光弾を放つ。
 横へ避けるようにしてかわしたジェダを、飛んで近寄ったモリガンの蹴りが襲う。
 それを防ぎ反撃を試みようとした、冥王を斜め後ろからデミトリが蹴飛ばす。
 だが、さらに攻撃をくわえようとした彼の胸をジェダが爪で切り裂いた。
 傷は浅かったが、かなりの量の血が流され、緋色のベストをガーネットの赤に濡らす。よろめきつつ後ずさりしたデミトリに向けてジェダが鎌を構える。
 しかし宙からモリガンが迫っていた。
 翼を変形させて襲いかかろうとする夢魔。鎌の柄でその胸を突き、宙から落とす。
 起きあがりかけのモリガンの頭をがっちりと捕まえて宙づりにしたジェダの背後から、デミトリはジェダを思いっきり殴りつけた。
 ジェダの手がモリガンの頭から外れる。
 その手から逃れたモリガンはデミトリに微笑んで見せた。
 デミトリはそれを流し目で一瞥した。
「二対一ではさみ討ちか。実に卑怯な戦い方をするね。」
「他者に憎まれるような事をするからよ。」
 モリガンは笑みと共に答えた。デミトリは少し怒ったように鼻を鳴らした。
 ジェダはデミトリに向かって鎌を投げて牽制し、刃物の様な翼でつい……と滑空して、モリガンを狙った。しかし、彼はデミトリがすっと近づいてくる気配を感じて一瞬振り向いた。
「デモンクレイドル!」
 デミトリの翼から慌てて身をかばったジェダの隙を、モリガンは見逃さなかった。
「シャドウブレイド!」
「うっ!」
 ジェダの背中をモリガンの翼が切り裂き、冥王は地に落ちた。
 ジェダは防戦一方となった。
 魔王ベリオールと彼自身をのぞけば、魔界最強と言える男女である。
 しかも、口で言っていることとは違い、彼らの攻撃は互いに相手のしていることを見た上での攻撃であり、かなり息があっていた。
 両者がそれぞれ好き勝手に攻撃を仕掛けてくるならば、まだあしらいようもあるのだが、彼らは本気で勝つつもりのようだった。
 それ故にジェダは自分からは打ちかからず、避ける事と防ぐことに専念した。
 そのあまりに消極的な態度はモリガンに不信感を抱かせた。
「デミトリ! 油断しないで。時間稼ぎをしているみたいよ。」
 モリガンは振り返って声をかけた。
 一瞬、デミトリはジェダが援軍となる部下でも近くに潜ませているのかと、考えた。
「扉か!」
 デミトリは叫んだ。もうすぐ扉が開く。モリガンも、瞬時にその意味を悟った。
 ジェダは扉から流れ込んでくる魔力でダメージを回復し、パワーアップをする気なのだ。


 その前に倒さねばならぬ、と両者は猛攻撃を開始した。
 拳を振るう、蹴りを放つ、翼を翻す、蝙蝠を放つ。
 しかし、守りに徹した冥王に隙らしい隙はなかった。
 翼を刃に変形させての、モリガンの攻撃を軽くかわし、さっと長い爪を横に走らせる。
 モリガンの脇腹あたりで、服へと変じた蝙蝠たちが切り裂かれて地に墜ちる。
 彼女はその傷をかばって後ろへと下がった。
 その隙に間合いをつめようとしたデミトリは、不気味な気配を感じて空を見上げた。
 空間が歪みつつあった。
「ちっ!」
 ジェダは焦ってとびかかったデミトリを突き飛ばすようにして退け、彼の方向に小さな鎌を投げる。
 デミトリは鎌をさけようと後ずさりして、ジェダの体液でできた池に踏み込んだ。そこから、無数の血の手が生えた。それらは関節のない腕の先に鋭い爪まで備えた手首がついているという不気味な代物だった。それは何十もの太い蔓のようにデミトリの手足にからみつき、鞭のように打ちかかり、また牙をむいてかみつく蛇のように、デミトリにつかみかかった。
 それは、深い河でピラニアの群に襲われた時のように、防ぎようのない攻撃。
 液状の肉体をもつジェダだからこそ、可能なこと。
 たちまち全身に傷を負って倒れる。
 その彼の頭上で扉が開いた。たちまち辺りが邪悪な気に満ちる。
「次は君の番だね。アーンスランドの姫君。」
 ジェダは片手に大鎌を持ちながら、片手で胸元を開き魔力に満ちた山頂の気を深呼吸するように吸い込んでいた。
 それを隙と見ることは出来ないと、気を引き締めつつモリガンは高く上昇し、地上のジェダに向けて蝙蝠型の光の弾を放つ。
 ジェダはそれを鎌の刃で弾いた。
 モリガンは宙を舞い、ジェダの後ろに回り込もうとした。
 だが、ジェダは地を滑るように後退し、モリガンと距離を置いた。やむなく、地上に降りようとした時、足下の異変に気がついた。
 そこにも赤い沼が待ちかまえていた。
「ああっ!」
 モリガンは脚を踏みならすようにしてあがいた。
「無駄だ。逃れられぬ。」
 ジェダが獲物を捕らえたと確信した瞬間、彼は肩を捕まれ、後ろから喉に突き立てられた。
 デミトリはすぐ口を離し、汚れを手の甲で拭うとジェダの体を脇へ放り投げた。
「大丈夫かね。」
「なんとかね。」
 満身創痍のはずなのに、力強い反撃。モリガンは意外に思ってデミトリを見た。彼の細かな傷はもうふさがりかけている。
「私だって悪しき魂から、魔力を得るくらいは出来る。」
「ほう。しかし、それは吸血鬼の君の得意技ではないはずだ。」
 身を起こしたジェダがいう。
 確かにそうだった。疲れを回復し、最高潮の状態で闘うことは出来ても、ジェダのようにパワーアップを重ねることは出来ない。
 だが、ジェダは暗黒の裂け目を背後に、凄まじく強大な魔物へと変貌しようとしていた。
「くっ。」
 不気味な気配に圧倒されて、デミトリとモリガンは後ろへと下がった。
「逃さぬ!」
 ジェダの手首からしたたりおちた深紅の体液が、巨大な手に変じ、デミトリを掴んだ。あがく間もなく、デミトリの体は岩場へたたきつけられた。
「デミトリ!」
 モリガンはその手を思いっきり蹴りあげた。朱のしぶきがあがり、デミトリは手の戒めから逃れた。
 封印が壊された結果だろう、「扉」からの魔力の流出はかつてないほど激しくなっていった。それは生ける闇が宙の裂け目から滝のように、この岩山へと落ち掛かり、すべてを押し流してしまうかのごとくだった。
 モリガンにとってその悪しき魂の流れは、腐敗した血の河のようにおぞましいものだった。それらが発する恨み、憎しみ、嫉み、渇き、飢えなどの暗い感情は、モリガンの心の肌にべったりとねばりつくようだった。
「嫌っ!」
 モリガンは自分の魔力をジェダに向けて放った。光る蝙蝠の形をしたそれは、ジェダの投げた小さな鎌ひとつで消された。
 デミトリも、宙へ飛び上がり、ジェダに斜め上からの鋭い蹴りをかまそうとしたが、大鎌の一振りで地に落とされた。起き上がりざまに、彼はジェダにつかみ掛かって、彼を頭から地にたたき落とした。
 相手の反撃を待たずデミトリはすっと後ろに下がり、そのまま逃げると見せかけて、追おうとしたジェダの手首を翼で叩き落とした。
「フフ…。」
 冷たく笑うジェダの足元におちた手首は泡立ちながら、赤い水のように溶けた。
 彼がすっと右腕をあげると、傷口からずるっと新しい手首がはえた。
「化けものめ。」
 デミトリは舌打ちをした。魔力が次々に供給されるこの場所ではどんなダメージを与えても、すぐに回復してしまうのだった。
「化け物はお互い様のはずだよ。吸血鬼の一族の長たるものよ。」
 ジェダは嘲るように言った。
 傍らのモリガンもその様子に顔色を白くした。
 どんな傷も回復する魔物が相手では、一瞬にして致命傷を与えるほかはない。
 しかし、今のジェダはデミトリとモリガンが同時に攻撃しても、たいした傷を負うまい。
 ジェダは薄い笑みと共に、両者の表情を眺めた。
「残念ながら私は例え、首を落とされても平気なのだよ。私のこの姿はただの見せかけに過ぎぬ。とはいえ、デミトリ。吸血鬼である君のように獣じみた『本当の姿』があるわけでもない。君も知っての通り、私の肉体は液状なのだからね。どんな刃でも水は切れぬ。」
 優越感に満ちた冥王の声が響き渡る。ジェダの気配は他の者を吹き飛ばす、物理的な風となり山頂に吹き荒れた。
 デミトリとモリガンは死を覚悟した。
 デミトリは半ば無意識のうちに近くにいたモリガンを、瑠璃色のマントでかばうように抱いた。
 モリガンは逆らわなかった。
「見るがいい。この魔界全てをひとつにすることによって、魔界を滅びから救う者、真の救世主の誕生を!」
 扉からの流れ出る魔力の濁流は渦巻き、ジェダの胸元に開いた不気味な赤い穴へと流れ込んだ。
「うおおあぁっ!」
 ジェダの口から世にも恐ろしい叫びが迸った。
 瞬時に吸収した膨大なエネルギーのために、ジェダの体液は沸騰した。
 体の表面に無数の裂け目が走り、真紅の体液と魔力がそこから吹き出す。
 自らの形を保てなくなったジェダは、そのまま内部から引き裂かれた。
 デミトリも真紅の飛沫を含んだ魔力の暴風に吹き飛ばされ、空中に放り出された。その腕にモリガンを抱いたまま。嵐の中で翼を開き、必死に羽ばたく。モリガンも翼を開き、両者は遠く離れた空から頂を見つめた。
 風が弱まるのを待って、彼らは再び頂きに戻った。
 山頂は形を変え、そこら中に緋色の池や河があった。
 ジェダの体液だった。
「ジェダのやつ……自滅したか。フッ、愚かな。」
 ジェダの気配はもはや痕跡以上のものとは感じられなかった。
 モリガンはその異臭と凄惨にさすがに眉をひそめたが、デミトリは足場の悪さもかまわずに山頂の中心まで歩き、「扉」を見上げた。
「ついに手に入れた。闇と魔を統べる力を!」
 膨大な魔力の残滓がまだ渦巻く頂で彼は宣言した。
 そして、傍らのモリガンを振り返った。
「さあ、モリガン。私の元に来たまえ。そして、この魔界を共に治めようではないか。」
 デミトリはモリガンの方に手を伸ばし、力強く招いた。
 彼にとって永遠に思える一瞬が過ぎた。
 モリガンは、ふっと優しい目になって微笑んだ。
「すばらしいプロポーズね。『君が欲しい』ではなく、『君と一緒に』と言ってくれるのね。」
「それでは、私と一緒に戦ってくれるのか。」
 だが、モリガンはデミトリの言葉に首を横にふった。
「別に私は魔界なんてことさら欲しくはないの。」
 デミトリの目を見つめて続ける。
「でも、強い男は好きよ。貴方が本当に誰よりも力あるものとなったら、その時、私は貴方の傍らへとゆくわ。」
 モリガンは微笑みを浮かべた。それは、甘い笑み。そしてこよなく危険な笑み。
「わかった。いずれ迎えに行く。」
 デミトリは高らかに笑った。
「それでは、またお会いしましょう。」
 モリガンは翼を広げて頂から去った。

 エピローグ

 青白い月の光が床を照らしていた。
 激痛に苛まれながら、デミトリは身を起こした。這いずるように城の窓辺に出て、そこが人間界であることを知る。
 ベリオールとの対決の後、一体どうなったのか……。
 半ば廃墟と化した彼の城はしんと静まり返って、彼以外の何者もいなかった。
「くっ、ベリオールめ……。」
 すんでのところで敗北した怒りに彼は思わず言った。
 そう、自分は負けたのだ。
 もう少しで魔界が、魔王の座が手に入ったものを……。
 得られなかったもののことを考えて、デミトリは悔しさに震えた。
 そして、彼自身の魔界貴族としての地位、領地と財産、権力と臣下、なにもかもが失われてしまった。魔界の扉へのルートとして使用した城と彼自身のほかは。
 失ったものを思い、デミトリはさすがに気落ちした。
 城にいた彼の従者や女達はおそらくすべてが、城が扉をくぐる時に次元の裂け目に飲まれて死んでしまっただろう。
 城の外にいた部下や愛人たちは、反逆者の一味として処刑されたり、自ら望んで、あるいは否応無しに、他の主人のものとなっただろう。
 昨日までは我がものとして手足のように使い、気の向くままに愛でていたお気に入りたち。今は彼の傷を手当する者さえいない。
 喪失感と孤独感が、重苦しく彼の胸を満たした。
 後悔はなかった。危険は承知の賭けだった。
 だが……。現実は彼に手痛かった。
「……命があるということは、最悪の結果になったわけではないということだな。」
 低く、デミトリはつぶやいた。
 自分はまだ生きている。ならば逆転の機会はある。
 この人間界で傷を癒し、力を蓄え、更なる強さを得よう。
 いずれ再びベリオールに挑み、魔界を、そしてあの女をものにして見せる。
 傷だらけのデミトリの唇に、不敵な笑みが浮かんだ。
 彼はよろけながら一歩一歩踏み締めるようにして、寝室に向かった。
 来るべき復活の日に備え、長い眠りにつくために。
 

 モリガンは自分の部屋で独り、デミトリから贈られた黒蛋白石の指輪を眺めていた。
 先ほど、アデュースから、彼の挑戦についての詳しい報告は受けた。
「まさか、あの男が魔王をあと一歩の所まで追い詰めるとはね。」
 そして、その鍵となったのが「扉」。
「あの扉を手にした者が、魔界を統べる」というのは、嘘でも誤解でもなかったのだ。
 誰よりも力ある者になったら、貴方の女になる、というのはモリガンにしてみれば、彼の求めを断るための口実に過ぎなかった。そんなことはできるはずがないと思っての言葉だ。
 しかし、彼の挑戦がそれを真に受けた結果でもあるのかもしれないと思うと少しかわいそうな気もした。だが、あの野心家にしてみれば「女ひとりのためなんかではない」というところだろう。
 でも、あの男ならいずれ自らが最強であることを現実にするかもしれないわ、モリガンは心の中でつぶやいた。
 報告の最後に、アデュースはこう告げた。
「ベリオール様はかなりの深手を負われています。どうか後でお見舞いに行かれるよう。」
「わかったわ。」
 モリガンは答えた。そして、アデュースに質問した。
「ベリオール様は人間界まで追っ手を差し向けて、重傷のあの男に止めをさそうとはしないのかしら。」
 彼の返事は、
「魔王様はデミトリ様の闘い振りを認め、あの方に対する処罰は魔界における全ての領地と財産の没収並びに、魔界貴族の地位の剥奪に止めるとの仰せです。」
 というものだった。
 それは十二分に苛酷な処罰だと思えたが、彼の行いを思えば、命が残されただけで奇跡と呼ぶに値する。よりにもよって、魔王に反逆したのだから。
 そして、彼自身は最悪の結果をも予測していたはずである。
 この世の全てを手に入れるか、自分の全てを失うか。
 それは血沸き肉躍るような最高の賭け。
 その日、その日を楽しく暮らせばよいと考えるモリガンには、強く望むものなどなかった。その意味でデミトリの生は自分とは異なる意味で、充実しているような気がして少し羨ましかった。少なくとも退屈しそうにはない。
「思っていたよりもいい男だったみたいね……。一緒に反逆すれば良かったかしら。」
 何げないモリガンの言葉に、退出しようとしていたアデュースは愕然として振り向いた。
「ベリオール様に反逆、ですか?」
「ふたりがかりなら、勝てたかもしれないじゃない。ふふ、それにそれなら私にも『魔王のお気に入りの娘』以外の生き方ができたのに……。」
 生まれ落ちるとともに魔王に「後継者」として選ばれ、望みもしない重荷を負わされたサキュバスは、何かに憧れるような目をしていた。
 「魔王の後継者」という地位を投げ捨てる最も確実な手段は、魔王及びアーンスランド家への反逆である。そうでもしない限り、彼女はこのまま魔王とアーンスランドの家につなぎ止められるのだ。もっとも、反逆した後そのまま魔界最強の者となってしまえば、同じ事の様な気もするが、自分が選んだ道という実感は持てそうだった。
 アデュースが去った後、モリガンの唇から憂いを含んで甘い溜息が漏れた。「戦わぬ私は私ではない……それには賛成だわ。」
 彼女は燭台の光に指輪をかざした。
 百年の寿命の石は、黒の中に虹色の炎をきらめかす。まるで心の闇に閉じ込められた恋心のようだ、と思った。
「このブラックオパールが輝きを失わないうちに、また闘えるかしら。あの男と。」
 モリガンは宝石箱の内に張られたベルベットの上に指輪を置き、静かに蓋をしめた。

                           End


 2000.7.5.脱稿

 作者 水沢晶

 URL http://www.yuzuriha.sakura.ne.jp/~akikan/GATE.html

THE GATE TO DARKNESS TOP