善悪の境 -バレッタの設定-
 

「命の数だけ存在する善悪の基準値」
 それでは「きじゅん」を辞書で引いてみよう。

[基準]物事の基礎となる標準。「基準を設ける」「建築基準」
[規準](1)規範・標準とするもの。(2)〔哲学〕信仰・思惟・評価・行為などの則るべき範例・規則・規範。
 
 どうみても、この場合は「基準」ではなく「規準」であるような気がする。 「基準値」というのは文字通り「基本となる数値」のことだ。つまり「善悪の基準値」などというものが存在するとしたら、それは「善悪の境界水準」ということになるだろうか。
 この値よりちょこっとでも「プラス」ならそれは「善」であり、「マイナス」なら「悪」であるというような「ゼロ」の点だ。
 いやさらに「許容値」というものもあって、「マイナス10」でも、それは「ニュートラル」(笑)の内であって「マイナス11」から「悪」だというような「善悪」というものに対する独特の見方なのかもしれないが。
 しかし、前後の文章を読むとこれは「人の行為のどこらへんからを善とし、また悪とする」というような話ではなく、「人の行為の何を善としまた悪とする」というような話なので、やはりすぱんと「基準値」は「規準」に直してしまおう。 それから「命の数だけ善悪のものさしは存在する」と「命」という言葉を使うこともおかしい。
 「命」といったら文字通り全ての生物が入る。人間と魔物と魔界獣だけでは済まない。
しかしはたして、虫にとって「善悪」に何の意味があるのか。
 虫や魚の価値規準のそれぞれの差異を問題にしたいなら、「善悪」という言葉を不用意に使うべきではない。「善か悪か」という判断規準は、人間以外の生物の精神世界に物事をはかるものさしのひとつとして存在するかどうかもわからない。
 というより、私はゾウリムシの場合それは人間の言葉になおして「得か損か」とか「快か不快か」とか「好きか嫌いか」というようなものだと思う。そうでないというならば、まずそのことを証明してから「鳥や草木も善悪を判断している」ととれる文章を書くべきである。
「自分にとって、得なものが善で、損なものは悪だ」
 というようなせりふは「善悪」の判断規準が存在することが当然の前提となる「人間」が言うから「私は人間だけど「善悪」でなんか物事判断しないよ」という意味を持ち、インパクトのあるせりふになるのである。
 ということで、シンプルにまとめると
『善悪の判断規準は様々だ』
 となる。



「バレッタの持つ「闇の心」も、ある意味人間の理想のひとつであり、究極の自己愛の表現法と言えるかもしれない。」 
 「闇の心」というのがどんなものなのか今一つ具体的でないのだが、少なくとも「心」は表現方法にはならない。なぜなら、心はそのままでは、表に現れないから心なのである。人がこの人の心はこんなものだろうと見当をつけるのは、あくまでも現実世界でのその人の言動や、その人の作品などを通してである。心は直接見えないのだ。
 だから、心が自己愛に満ちていることはあっても、心が自己愛の表現手段になることはない。自己愛の表現手段になるのは、服装だの何だのである。
 あと、この文章だと「闇の心」はバレッタの心そのものではなく、心の一部だと受け取れる。それならば、「人間の理想のひとつ」という書き方はおかしい。「闇の心」が「身勝手さ」と言い換えられるようなものだとしよう。「身勝手さは人間の理想のひとつ」とはならない。「身勝手な生き方は人間の理想のひとつ」というようになるのである。「理想」というならば、ある程度まとまった形をしていなくてはならない。
 だから、「闇の心」というのが、「全てが闇に染まった心」なのか、「心の闇」なのか「邪悪なもう一つの心」なのか、はっきりわかる記述が欲しい。
 書き直すと、こうなる。
「自分の持つ「闇の心」に忠実なバレッタの生き方も、ある意味人間の理想のひとつであり、究極の自己愛の表現法と言えるかもしれない。」
 「生き方」は言動なので、自己愛の表現手段であってもおかしくはない。やや不自然だが。ただ、「闇の心」が「自己愛」に近いものだとすると二重表現になってしまう。
 それから、たぶんこの企画者は「自己愛」つまり「ナルシシズム」と「自分勝手さ」つまり「エゴイズム」の違いをはっきりとは認識していないと思う。
 普通、バレッタみたいなのは「エゴイスト(利己主義者)」という。「ナルシスト(自己陶酔者)」というのは、それこそ「私が一番美しい。同じ顔をしたあなたは許せないの」(同キャラ対戦の時)とか言い放つモリガンとか、「自分で言うのもおこがましいが、私は聡明なのだ……あきれるほどに」とかほざくジェダとか、「「絶対」の力は存在するのだよ。例えばこの私がそうだ」とか気取るデミトリとかのことである。(それぞれご自慢を「美」「知」「力」とわけたわけね)
 ナルシストなキャラを上手く作るということと、ナルシシズムとは何かを概念的に理解することとは全く別なのだなあ、とつくづく思う。こういう私にしてもきちんと理解はしていない。またこれは、未だ専門家の間でも意見が分かれる問題である。
 ナルシシズムとは以前は性倒錯を言い表す精神分析用語であった。ハヴロック・エリスが、鏡に映った自分の姿を見てマスターベーションをする男性の事例から名付けたものである。
 名前の由来となった、ギリシア神話のナルシスは水面に映った自分の姿に恋をし、そのために死ぬ。それと同じように、自分自身をすばらしいと思う心理である。
 エゴイストと呼ばれる存在は普通、現実認識は確かであり、現実の自分の利益を確保することを最優先にする。
 ナルシストはエゴイストのようにリアリストではない。幻想としての自分、例えば美しい自分、強い自分、賢い自分……等を思い描き、それを手に入れるためには現実的な不利益をも厭わない。そして他人から「まあ、美しい」と言われるためなら、はたから見ると「なんでそこまで」と思ってしまうような努力をしたりする。
 バレッタが自分にうっとりするようなタイプだとは思えないので、彼女に対して「究極の自己愛の持ち主」とかいうような表現は、不適当だろう。
 ちなみに、セイヴァーのせりふの一覧を見るとモリガンはハンターの時に比べてナルシストではなくなっているような気がする。自分ではなく今、目の前にいる男に興味があるのか、というせりふが多い。ポケットファイターだとこてこてのナルシストなんだけどね。
 ということを踏まえてさらに書き直そう。
「「闇の心」に忠実なバレッタの生き方も、自分だけを大切にするという点において、人間にとってひとつの理想だろう。」
 原文とはかなり印象が違うが、意味をとるならこの辺りだろう。

「そもそも、「正しいもの」が「正しくないもの」より高位であると、誰が決めたのだろう」
『そもそも、「正しいもの」が「正しくないもの」より高位にあるものであると、誰が決めたのだろう』
 辞書を引くと「高位」は、こういう意味である。
[高位](1)地位の高いこと。(2)高い位。尊い位。
 原文を辞書のままにいいかえるなら、「そもそも、「正しいもの」が「正しくないもの」より地位が高いと、誰が決めたのだろう」ということになる。
 だが「高位であると」と表現すると「正しいもの」それ自体がひとつの地位であるような印象を受ける。
 そこを踏まえるならば、
『そもそも、「正しいもの」が「正しくないもの」より貴いと、誰が決めたのだろう』
 という書き方がわかりやすくてよいと思う。
 また、「正しいもの」という言葉の対義語を「正しくないもの」とするのもいい表現とは言えない。
 「間違ったもの」か「悪であるもの」にした方がよい。
 あえて筆者の意図を想像して書くならば、こうだろう。
「そもそも、現在の日本の社会において「正しいもの」とされているものを「正しいもの」とすると誰が決めたのだろう」
 誰が、というとこの社会の住人が伝統や外的状況などのさまざまな要素との兼ね合いの中で、なんとなく決めた、とでもいうしかないが(「法律」を定めたのは一応政治家や学者だが)、こういう表現の裏にあるのは当然、「絶対に正しいものなんてある訳無いんだ!」という筆者の主張である。
 もしくはこの人は、「「正義」の方が「邪悪」より価値あるものであると誰が決めたのだろう」と書きたかったのだろう。
 後に続く文章と照らし合わせるとこちらの方がいいような気がする。って後の文章も意味が通じない文章なのだが。


「悪虐のかぎりを尽くす魔界の野獣、命をかけて治世のために働く聖者。魂の純粋さという点では、両者はまったくの等価値なのだ」
『悪逆のかぎりを尽くす魔界の野獣、命をかけて治世のために働く聖者。魂の純粋さという点では、両者はまったく等しいのだ』
 「悪虐」は辞書になかった。おそらく誤字で、正しくは「悪逆」であろう。
 「魂の純粋さ」とは「性質」なのだから、「等価値」ではなく、「等しい」か「同じようなもの」とすべきだろう。
 「等価値」というならば、「純粋さには価値がある」ということが当然のこととなっていなければならない。
 だが、果たして「純粋さ」はそれ自体で価値があるのか。
 「純金」と「純銀」は確かに純粋さという点では等しいが、等価値ではない。
 そして、18金と24金では、24金の方が高価だろうが、純銀と半分金の交ざった銀では不純な後者の方が高価だろう。
 悪魔の価値規準ではかるのなら、魔界獣の魂より聖人の魂の方が断然高価だ。同じように純粋であっても。(というか、キリスト教の考えでは獣に魂はない)
 デミトリにとっては聖人よりも悪人の魂の方が高価なはずだ。(『ヴァンパイア』の世界の魔物たちにとっては、悪しき魂の方が価値があるらしいので)
 「心の純粋さ」とはこの文章では「俗世間の考え方」「人間社会の価値観」に影響を受けていないということだ。そうでなければ、「獣」と「聖人」に共通点など見いだせまい。彼らは等しい。ともに人間的な曖昧さから遠いことによって。
 このように「純粋さ」に価値があることを当然の前提にするのは、実は子供の発想だ。
 「純粋さ」に価値があるという考え方は、結局人間が社会に適応したり、成長したり、成熟したりすることはかえって価値を損なうとかいう話になってしまうので、成熟拒否の思想だが、思春期の人間には共感されやすい。


「バレッタが「金」に執着し、そこに対価基準を設けるのも、万物に対するそれ以外の適当な価値基準が(彼女にとって)ないだけのことだ」
 まず「価値基準」は「価値規準」とするのが正しいだろう。
 では「対価基準」は正しいだろうか。
 辞書によれば、「対価」とは本来法律用語で「ある人がその財産・労力などを他人に与え、また利用させる場合に、その報酬として受け取る財産上の利益」である。 つまり魔物ハンターのバレッタが対価基準を設けるとは彼女の場合、「相手や状況によって異なるが、基本的に吸血鬼は一体倒す事に7万ドル。狼男は5万ドル」というように仕事料金を定めるということにしかならない。
 そのまま書きかえれば、「バレッタが「金」に執着し、仕事の料金を定めるのも、万物に対するそれ以外の適当なものさしが(彼女にとって)ないだけのことだ」というわけのわからない文章になる。
「「金」に執着するバレッタにとっては、自分の仕事の料金表以外の、物事の価値を決める規準など存在しない」というのがわかりやすく書き直した文章だろう。そっけないが、この方がバレッタというキャラクターをきちんと伝えているのではなかろうか。


「そこには純粋な評価がある。
 金になるモノ。金にならないモノ。
 彼女は正しく、また正しくない。
 そして、それを決めるのはほかならぬ当人なのだ。」

 「正しい。正しくない」はともかく、「金になるモノ。金にならないモノ」を決めるのは、客であって当人ではない。もちろん、ある魔物を目前にして「金になるかどうか」を「判断する」のは当人だが。
 実は「正しい。正しくない」もアウトサイダーのバレッタはともかく、普通の人間には自分で決定出来ない。ある人間が善人か悪人かはむしろ周囲が決めることである。

 
 それでは、この辺りの文章をそのまま抜き出してみようか。

「闇の心」は生来より備わっているもので、後天的に植えつけることは難しい。そしてそれは必ずしも「負」のイメージだけでくくられるものではない。
 善良さは時として自分や周囲を不幸にし、悪意が正義を守ることだってある。
 命の数だけ存在する善悪の基準値。バレッタの持つ「闇の心」も、ある意味人間の理想のひとつであり、究極の自己愛の表現法と言えるかもしれない。
 自分の信じるものと他者の信じるものがちがうからこそ、争いは起こる。
 少なくとも魔界の価値観は、大きく人間界のそれと異なる。我々のごく狭い常識だけで、彼ら、また彼女らを語ることはできない。
 そもそも、「正しいもの」が「正しくないもの」より高位であると、誰が決めたのだろう。
 悪虐のかぎりを尽くす魔界の野獣、命をかけて治世のために働く聖者。魂の純粋さという点では、両者はまったくの等価値なのだ。
 バレッタが「金」に執着し、そこに対価基準を設けるのも、万物に対するそれ以外の適当な価値基準が(彼女にとって)ないだけのことだ。
 そこには純粋な評価がある。
 金になるモノ。金にならないモノ。
 彼女は正しく、また正しくない。
 そして、それを決めるのはほかならぬ当人なのだ。

 では書き直した方を。この版では文の前後も多少入れ替えてある。

 「闇の心」は生来よりその者に備わるもので、他の何者かが後から植えつけることは難しい。そしてそれは自分や周囲を不幸にするだけのものだと、単純に決めつけることはできない。
 例えば、バレッタ自身はただ金のために働いたのだが、そのおかげで魔物に脅かされていた町の住人達が救われた。このようなことはいくらでもある。
 判断する者によって異なる物事の善悪。そして、争いは互いの信じるものが違うからこそ起こる。
 また、魔界の価値観は、大きく人間界のそれと異なる。ごく狭い世界でのみ通用する我々の常識では、彼ら、また彼女らをはかることはできない。
 そもそも、「正義」の方が「邪悪」より貴いと誰が決めたのだろう。
 悪逆のかぎりを尽くす魔界の野獣、命をかけて治世のために働く人間界の聖者。魂の純粋さという点では、両者は等しいのだ。
 己の「闇の心」に忠実にバレッタは生きる。自分の利益の確保だけを考えるという生き方も、ある意味人間の理想である。
 「金」に執着するバレッタにとっては、自分の仕事の料金表以外の、物事の価値を決める規準など存在しない。
 そしてあまりにも掛け離れたふたつの世界、魔界と人間界の境界で生きる彼女が、正しいかどうか決めることは、どちらの世界の住人にも出来ない。それが出来るのはバレッタ自身だけだ。

 どうだろうか。多少読みやすくなったと思うのだが。

 

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